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宿業とは本能である

  わたくしは、宿業について久しく問題にしていたのであるが、

  数年前ふとしたところで、宿業は本能なりと感得した。
  宿業は人間の理知によって知られるものではない。
  生まれながらにして与えられている本能である。

  人間は、理知で宿業を知ろうとしても知られない。
  人間ぜんたい、自己ぜんたいが宿業である。宿業の主観である。
  だからして宿業の中に自己がある。

  それで人間は宿業を知らしてもらった時は、
  すでに仏の本願中にある。大慈悲心のうちにある。

  宿業を感じて絶望するというも、運命論は人間の絶望である。
  しかるに宿業はそうではない。
  宿業は如来の大悲のお光にてらされて、宿業を知らしていただく。
  ゆえに宿業を知らしていただくことは、宿善の開発である。

  だから、すでに如来の大悲光明の中に宿業を感ぜしめていただいたのである。
  すでに宿業は一つの回心である。回心懺悔である。
  だから、宿業は一つの大きな大慈悲心のうちにあって、
  しかも大慈悲心を開顕する一つの門である。

  (歎異抄聴記80ページ)


 『歎異抄聴記』はこれだけ読めばいいというくらい大事な一節です。「人間ぜんたい、自己ぜんたいが宿業である」。宿業の中に自己(主観)がある。だから、わたしに宿業を見ることは出来ないはずなのに、不思議なことに、わたしに宿業(自己全体)が見えるということが起きる。それを量深師は「宿業は如来の大悲のお光にてらされて、宿業を知らしていただく。ゆえに宿業を知らしていただくことは、宿善の開発である」と言いました。宿業を自覚したことが信心をいただいたことです。宿業の意味を調べても仕方ない。『歎異抄』を深く読んで信心を取ってほしい。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-01 06:01 | 特集「歎異抄聴記」 | Comments(0)

e0361146_09505421.jpg  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

  (歎異抄・後序)

  この一句でご開山聖人は永遠に生きていられる。
  ご開山聖人の面影はこの一句でつきる。それほどに感銘深いものである。
  この一句を伝えているだけでも『歎異抄』は不滅のものであるといえる。

  (歎異抄聴記460ページ)


 量深師の『歎異抄聴記』を読みます。大変難しい本ですが、端から理解できるなんて思わないで読むのがよいでしょう。ほとんど理解できないけど読んでいて楽しい本というのも珍しい。師の魅力は古くなった真宗教義の読み替え、言い替えに果敢に挑戦していることだと思います。それあるゆえに真宗教義が現代の感覚に近くなる。とはいえ、明治生まれの学僧ですから、すでに量深師も古くなってしまったかもしれませんが、仏の呼び声を聞き取ってほしい。


 さて、お聖教の中でも親鸞の肉声を聞くことができるのは唯一『歎異抄』だけです。しかも、親鸞の言葉で「信心とはなにか」が直接語られている。これが『歎異抄』の魅力です。信を取りたい人はぜひ『歎異抄』を毎日読んでほしい。そういう意味でも『聴記』は『歎異抄』の正しい読み方をわたしたちに教えてくれるでしょう。読むのが楽しみです。善及


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-21 06:28 | このブログのこと | Comments(3)

  一 「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第10章)  

 竹内先生は「はからいを捨てる」ことを水練に喩えてこう説明された。「溺れまいとするから溺れる。なにもしなければかえって水に浮く。浮くことがわかると、あとは、どこまでも泳いでいける」と。水とは事実。事実を恐がって、事実に溺れまいともがくのが自力なら、なにもしない、これは仏の御はからいにお任せするのでしょう。お任せすると事実を受け入れられる。事実が恐くないように浮かばせてくれたのが他力。浮かばせる他力を知ったのが信の一念で、どこまでも信心が深まっていくのが不退転です。


 では、「はからいなし」とは具体的にどういうことか。水練の譬えでいえば、なにもしない。仏道でいえば「頭に湧いては消えるだけの思いを相手にしない」ということです。水に勝とうとするから水に負ける。水に負ければ水が助けてくれる。どんな悩みも放って置くとやがて消えてなくなる。やがて消えてなくなるものをいじくり回して立派な悩みに仕立て上げることを「はからい」という。悩みは悩むことで解決するのではなく、放って置くことで解決する。悩みは放って置くと消えてなくなる。これが「はからいを捨てる」ということです。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2017-12-12 06:16 | 歎異抄を読む | Comments(4)

善悪のふたつ存知せず

  聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。
  そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  よきをしりたるにてもあらめ、
  如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  あしさをしりたるにてもあらめど、
  煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
  よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、
  ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。

  (歎異抄・後序)

 親鸞は「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と言った。どういうことかといえば、なにもわかりません。なにが善でなにが悪かなど、仏でもない自分にわかるはずもありませんと、そう言った。わかろうとすることが終わった。念仏一つが残った。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-04-26 09:09 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第一章の読み方

  ①弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  ②往生をばとぐるなりと信じて
  ③念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
  ④すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

  (歎異抄・第1章)

 仏教は涅槃の境地に入ることを目的に修行する。涅槃とは煩悩がない。煩悩のない静かで平和な心の状態を涅槃という。仏のさとりの境地です。さとりの境地を「浄土」といい、煩悩をもったままさとりの境地に生まれさせようというのが「弥陀の誓願」です。煩悩をもったまま涅槃の境地に入るので「不思議」です。

 歎異抄第一章では「摂取不捨」という言葉を使っていますが、涅槃の境地に生まれることを「摂取不捨」といいます。「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということです。弥陀の本願、すなわち「摂取不捨」を体験することが「往生」です。第一章の冒頭の文に番号をつけましたが、①②③④は時系列に並んでいるようですが、「たすけられ」(教)るのも「念仏もうす」(行)のも「信じる」(信)のも「あずけしめたまう」(証)のも経験的にはすべて同時です。

 とくに大切なのは「往生をばとぐるなりと信じて」で、信じたのはすでに往生したからです。涅槃の境地が浄土、涅槃の境地に生まれるから往生です。すでに往生したから、涅槃の一分を経験したから必ず無上涅槃に達すると確信するのです。この経験を「摂取不捨」といいます。十八願の成就、信の一念に涅槃(仏)を経験する。仏教の結論を冒頭に示したのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-04-06 21:55 | 歎異抄を読む | Comments(0)

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  四十四、死ぬまいと思うて居るうちに死ぬる。
  真宗の者は、地獄へ墮ちはせまいと思うて堕ちる。
  他宗のものは業がつよくて堕ちる。
  仏法を知らぬものは、地獄はありませぬと思うて堕ちる。
     

  五〇、或る人の尋ねに。
  私は地獄へ堕ちるばかりの心で御座ります。
  仰せに。地獄へ堕ちるばかりの心え、聞くたびに、
  ただ嬉しいばかりの御法なり。

  (香樹院語録) 

 「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄・第2章)。この世は地獄である。現在が地獄である。前の生も地獄、次の生も地獄、われらは地獄しか知らないから地獄とも知らずに生きている。理由もわからず苦しんでいる。われらは地獄を生きる同類で、生きる惨めさは一切の有情のありのままの事実である。内側を見ればみな惨めなものである。外を見ても惨めなものである。惨めを惨めと知ったはよくよくのお慈悲である。みな地獄を地獄とも知らずに堕ちて行くのに、地獄一定と知ったはよくよくのお慈悲である。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-04-05 11:22 | 特集「香樹院語録」 | Comments(0)

  親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
  よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
  念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
  たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
  さらに後悔すべからずそうろう。

  (歎異抄・第2章)

  「歎異抄」の一番驚くべき言葉は「念仏は、
  まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、  
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。
  総じてもって存知せざるなり」、あれは大変な言葉である。
  あれをよく平静に読んでいたと思う。
  ああいうことは、深い体験、自分を掘り下げて、
  深い深層意識の底の底まで掘り下げて、
  ああいう言葉が出てくる。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 言葉というのは心の表層にある。心の表層である意識は騒々しく薄っぺらで、物事が早く流れて行く。われらは意識のつくる小さな世界に住んでいるが、意識は心という大海原の波の上で漂流する筏のようなもので、大海原の広さも知らなければ、波の下の光も差さない深海の深さも知らない。あたかも筏の上が全世界だとばかりに思い込んでいる。大きな間違いである。意識はコップの中の嵐のような日常に明け暮れている。ときどき筏が転覆して始めて海の怖さを知る。

 いわば、信仰とは光も射さない心の深海に降りて行くような作業だ。これを内観という。深く深く降りて行けば、そこは光も音もない孤独な世界である。闇と無音の世界で一人きりになったところで自分と向き合うのである。「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」。光も音もない世界では理屈はどうでもよい。すべての言葉が削ぎ落とされて右も左もわからなくなって、自分はなにも知らないと思い知らされる。一文不知になって、はじめて仏の呼び声を聞こうとするのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-23 06:18 | 歎異抄を読む | Comments(4)

e0361146_09203222.jpg  十方無量の諸仏の
  証誠護念のみことにて
  自力の大菩提心の
  かなわぬほどはしりぬべし

  三恒河沙の諸仏の
  出世のみもとにありしとき
  大菩提心おこせども
  自力かなわで流転せり

  (正像末和讃)

  煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。
  この条、もってのほかのことにそうろう。
  即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。
  六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。
  これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。
  来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。

  (歎異抄・第15章)

 自力の人は「観念成就のさとり」だから自分の頭で悟れると思っている。邪見驕慢だから自分の頭でわかりたい。自我意識が尖っているから自分が一番賢いと思っている。こういうのを自力というのでしょう。自力の人は歎異抄は読むが念仏はしない。頭でわかりたい人は一文不知にはなれない。学問して悟りが開けるなら学者はみな生き仏だ。しかしそうはならない。

 他力は悟らないのではない。頭でわかったようなものはやがて壊れてわからなくなる。それは悟りではないからだ。他力は仏から悟りの智慧をいただく。智慧が開く悟りの境地を仏の方から開いてくださる。自分の頭でこしらえた方便化土ではない。仏智不思議、人智を超えたところから届く悟りで、自分の頭で考えた悟りではないから「如来よりたまわりたる信心」(歎異抄・後序)という。


 人間の心を超えた高次の心に出会う体験を他力という。自分で開く悟りではないから、悟りは如来回向の信心の中に含まれている。悟らなくても悟りの境地(真実報土)を回向してくださる。それを「往生」という。「来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり」とあるように、煩悩具足の身をもって悟りを開くことはできないが、煩悩具足の身をもって今生に「往生」(信心決定)することはできる。煩悩具足の身のまま悟りの境地に生まれさせようというのが弥陀の本願です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-21 06:15 | 歎異抄を読む | Comments(0)

わが身の事実

  聖人のつねのおおせには、
  「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と
  御述懐そうらいしことを、いままた案ずるに、
  善導の、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、
  つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」
  (散善義)という金言に、すこしもたがわせおわしまさず。
  されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、
  われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、
  如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、
  おもいしらせんがためにてそうらいけり。
  まことに如来の御恩ということをばさたなくして、
  われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。

  (歎異抄・後序)

 機の深信とは「わが身の事実」です。わが身の事実に立たせるのが智慧です。智慧とは光、光に遇えば事実が見える。見えなかった自分を見えるようにしてくれるのが光明であり、光に照らされれば自分が見える。自分が誰かがわかる。わかれば自分に満足する。不満はない。不満がないから求めない。求めないから迷わない。自信もなく自分を探して暗闇をさ迷い歩く不安と苦しみからようやくにして解放される。安心する。事実に落着する。わが身の事実を「罪悪生死の凡夫」という。

 救いがない身と教えてくれたのが如来回向ですから、救われないと知ったことが即ち救われたことです。罪悪生死の凡夫とはわが身の事実ですから、事実に行き着けば、そこが到着地です。事実を知らないから、あれこれと機の善悪に振り回される。親鸞いわく「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(歎異抄・後序)と。善悪とは事実についての分別であり、解釈であり、事実から浮き上がった妄念妄想です。事実を知り、事実を受け入れた者には事実の解釈はもういらない。これを無分別とも一文不知ともいう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-19 09:30 | 歎異抄を読む | Comments(0)

悪をもおそるべからず

e0361146_11162043.jpg  悪をもおそるべからず、
  弥陀の本願をさまたぐるほどの
  悪なきがゆえにと云々

  (歎異抄・第1章)

 心に執着がないことを「悟り」といいます。心の善悪にこだわるのは心に執着しているからです。これを「迷い」といいます。「心に執着しない」ということがわからずに迷っている。どのように迷っているか。「心をよくすれば幸せになる」と信じて迷っている。悪い心が起きないようにと努力している。だから、「われを信じて心を離れよ」という弥陀の呼び声が聞こえない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-03 11:06 | 歎異抄を読む | Comments(0)