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大信心は仏性なり

  信心よろこぶそのひとを  
  如来とひとしとときたまう
  大信心は仏性なり
  仏性すなわち如来なり

  (浄土和讃)

  釈迦弥陀は慈悲の父母
  種種に善巧方便し
  われらが無上の信心を
  発起せしめたまいけり

  (高僧和讃)

  信心の智慧は、無生法認をさとるのが信心の智慧である。
  生死は身体にある。われわれの心は無生無滅のものである。
  心が物の奴隷になっていると、心も身体と同様に生も死もあるが、
  心が独立して身体を支配することが出来るなら無生無滅である、
  それを無生法認という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 身体は物質です。身体を自分だと思って身体に縛られている心は身体が滅べば自分も死ぬと恐れる。しかし、身体の色や性別、特徴は違っても、一個一個の身体には「仏性」という仏の心が埋め込まれている。身体が生まれ死んでも仏性は一つです。仏性は永遠に一つで、その働きは変わらない。この身体に深く埋め込まれた仏性を呼び覚まそうというのが弥陀の本願です。身体は仏性を納めておく箱で大切にしなくてはならないが、わたしは箱ではなく仏性です。わたしがわたしを取り戻すために聴聞しているのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-15 06:00 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

宿業とは本能である

  わたくしは、宿業について久しく問題にしていたのであるが、

  数年前ふとしたところで、宿業は本能なりと感得した。
  宿業は人間の理知によって知られるものではない。
  生まれながらにして与えられている本能である。

  人間は、理知で宿業を知ろうとしても知られない。
  人間ぜんたい、自己ぜんたいが宿業である。宿業の主観である。
  だからして宿業の中に自己がある。

  それで人間は宿業を知らしてもらった時は、
  すでに仏の本願中にある。大慈悲心のうちにある。

  宿業を感じて絶望するというも、運命論は人間の絶望である。
  しかるに宿業はそうではない。
  宿業は如来の大悲のお光にてらされて、宿業を知らしていただく。
  ゆえに宿業を知らしていただくことは、宿善の開発である。

  だから、すでに如来の大悲光明の中に宿業を感ぜしめていただいたのである。
  すでに宿業は一つの回心である。回心懺悔である。
  だから、宿業は一つの大きな大慈悲心のうちにあって、
  しかも大慈悲心を開顕する一つの門である。

  (歎異抄聴記80ページ)


 『歎異抄聴記』はこれだけ読めばいいというくらい大事な一節です。「人間ぜんたい、自己ぜんたいが宿業である」。宿業の中に自己(主観)がある。だから、わたしに宿業を見ることは出来ないはずなのに、不思議なことに、わたしに宿業(自己全体)が見えるということが起きる。それを量深師は「宿業は如来の大悲のお光にてらされて、宿業を知らしていただく。ゆえに宿業を知らしていただくことは、宿善の開発である」と言いました。宿業を自覚したことが信心をいただいたことです。宿業の意味を調べても仕方ない。『歎異抄』を深く読んで信心を取ってほしい。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-01 06:01 | 特集「歎異抄聴記」 | Comments(0)

e0361146_09505421.jpg  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

  (歎異抄・後序)

  この一句でご開山聖人は永遠に生きていられる。
  ご開山聖人の面影はこの一句でつきる。それほどに感銘深いものである。
  この一句を伝えているだけでも『歎異抄』は不滅のものであるといえる。

  (歎異抄聴記460ページ)


 量深師の『歎異抄聴記』を読みます。大変難しい本ですが、端から理解できるなんて思わないで読むのがよいでしょう。ほとんど理解できないけど読んでいて楽しい本というのも珍しい。師の魅力は古くなった真宗教義の読み替え、言い替えに果敢に挑戦していることだと思います。それあるゆえに真宗教義が現代の感覚に近くなる。とはいえ、明治生まれの学僧ですから、すでに量深師も古くなってしまったかもしれませんが、仏の呼び声を聞き取ってほしい。


 さて、お聖教の中でも親鸞の肉声を聞くことができるのは唯一『歎異抄』だけです。しかも、親鸞の言葉で「信心とはなにか」が直接語られている。これが『歎異抄』の魅力です。信を取りたい人はぜひ『歎異抄』を毎日読んでほしい。そういう意味でも『聴記』は『歎異抄』の正しい読み方をわたしたちに教えてくれるでしょう。読むのが楽しみです。善及


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-21 06:28 | このブログのこと | Comments(3)

  一 「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第10章)  

 竹内先生は「はからいを捨てる」ことを水練に喩えてこう説明された。「溺れまいとするから溺れる。なにもしなければかえって水に浮く。浮くことがわかると、あとは、どこまでも泳いでいける」と。水とは事実。事実を恐がって、事実に溺れまいともがくのが自力なら、なにもしない、これは仏の御はからいにお任せするのでしょう。お任せすると事実を受け入れられる。事実が恐くないように浮かばせてくれたのが他力。浮かばせる他力を知ったのが信の一念で、どこまでも信心が深まっていくのが不退転です。


 では、「はからいなし」とは具体的にどういうことか。水練の譬えでいえば、なにもしない。仏道でいえば「頭に湧いては消えるだけの思いを相手にしない」ということです。水に勝とうとするから水に負ける。水に負ければ水が助けてくれる。どんな悩みも放って置くとやがて消えてなくなる。やがて消えてなくなるものをいじくり回して立派な悩みに仕立て上げることを「はからい」という。悩みは悩むことで解決するのではなく、放って置くことで解決する。悩みは放って置くと消えてなくなる。これが「はからいを捨てる」ということです。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2017-12-12 06:16 | 歎異抄を読む | Comments(4)

  親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
  よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
  念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
  たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
  さらに後悔すべからずそうろう。

  (歎異抄・第2章)

  「歎異抄」の一番驚くべき言葉は「念仏は、
  まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、  
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。
  総じてもって存知せざるなり」、あれは大変な言葉である。
  あれをよく平静に読んでいたと思う。
  ああいうことは、深い体験、自分を掘り下げて、
  深い深層意識の底の底まで掘り下げて、
  ああいう言葉が出てくる。

  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 言葉というのは心の表層にある。心の表層である意識は騒々しく薄っぺらで、物事が早く流れて行く。われらは意識のつくる小さな世界に住んでいるが、意識は心という大海原の波の上で漂流する筏のようなもので、大海原の広さも知らなければ、波の下の光も差さない深海の深さも知らない。あたかも筏の上が全世界だとばかりに思い込んでいる。大きな間違いである。意識はコップの中の嵐のような日常に明け暮れている。ときどき筏が転覆して始めて海の怖さを知る。

 いわば、信仰とは光も射さない心の深海に降りて行くような作業だ。これを内観という。深く深く降りて行けば、そこは光も音もない孤独な世界である。闇と無音の世界で一人きりになったところで自分と向き合うのである。「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」。光も音もない世界では理屈はどうでもよい。すべての言葉が削ぎ落とされて右も左もわからなくなって、自分はなにも知らないと思い知らされる。一文不知になって、はじめて仏の呼び声を聞こうとするのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-23 06:18 | 歎異抄を読む | Comments(4)

涅槃の境地に到達する

  涅槃というからと言うて、命終わらなければ涅槃の境地が解らぬことはない。
  生きている中は無上涅槃ではない。有上涅槃というか。
  無上涅槃のさとりは開けぬが、或る程度の涅槃のさとりは得る。
  現生に於て涅槃という一種の境地を得る。
  つまり無生法認というのは涅槃を知る智慧であるから、
  無生法認の智慧が開けて来れば或る程度の涅槃の境地に到達することが出来るのであることを
  教えて下さるのが浄土真宗の教えである。

  涅槃の静かな心境は、生きてる中にそういう境地がいつも自分の心の中にあって、
  どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない。
  煩悩を断ぜずして涅槃を得という静かな何ものにも障えられない境地がある。
  それを現在の生活の上に経験することが出来る。
  それが仏からたすけられたということである。

  いつ死んでも成仏間違いないのは、現生に於て既に往生している、
  現生に於て既に浄土往生の生活を営んでおるものであるが故に、
  仏様でないけれども仏様と等しい生活を他力の不思議で与えて下された。
  そういうものであるが故に、
  いつ命が終わっても大般涅槃間違いない確信確証を握っておるものである。
  こういうのが浄土真宗の教えの本当の精神である。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 煩悩具足の身をもって悟りを開くことはできない。出来ないのであるが、誓願の不思議によって「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ことが出来る。すなわち、煩悩具足の身のまま悟りの境地(涅槃)に生まれさせようというのが弥陀の本願というものです。涅槃の境地を身をもって体験し、その体験を伝えてきたのが仏教の伝統です。量深師は「浄土真宗の教えの本当の精神である」と教えている。

 量深師の教えが尊いのは「現生に於て既に往生している」「現生に於て涅槃という一種の境地を得る」と教えてくれるからです。その具体的な中身を「どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない」と明らかにしています。念仏、聴聞に励んでいる人にとって目標となることでしょう。人生でなにを経験しようと永遠の時間である「涅槃の静かな心境」を経験することに勝るものはない。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-22 06:07 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

涅槃を得るなり

e0361146_22151782.jpg  よく一念喜愛の心を発すれば、
  煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

  (正信偈)

  仏法では涅槃という。
  一人で居っても淋しくない、賑やかであるーそれを涅槃という。
  本当の一人の所に賑やかであるーそういうさとり(心境)が開ければ、
  いくら大勢居っても誰も自分の心境を妨げない。
  どんなに人に取り巻かれても自分の静かな心境を誰も妨げない。
  そういう心境を開いて下さる法を念仏という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 「一人で居っても淋しくない、賑やかであるーそれを涅槃という」。こんな教えを聞いたことがあるだろうか。死んだ後のことではない。生きているうちに経験するのが涅槃である。煩悩の身を持って仏になることはできないが、煩悩の身を持ったまま仏のお心の中に生まれることはできる。それを往生という。悟るのではなく、信の一念に如来回向で悟りの境地が開けてくる。信の一念に摂取不捨、仏のお心の中に生まれる。それを「涅槃を得るなり」という。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-17 20:09 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

機の深信(続)

  一 「総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。
  此の心にて、世間には、物もしならうなり。
  仏法には、無我にて候ううえは、人にまけて信をとるべきなり。
  理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり」と、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書160条)

  機の深信は負ける世界だ。負ける人は礼儀正しい。
  機の深信は負けた姿。負けた姿は美しい、素直である。
  負ける世界を与えてくださるのが如来の大慈大悲というものである。
  そこに心の平和がある。
  人間が邪見驕慢になって、何とか人に勝とう、捩り倒そう、
  押し除けようと考える。それが迷いである。苦悩の根源である。
  一体人間がそのような殺伐な心を起こすのは
  人間には生死無常という真理を素直に受取る智慧がないからだ。
  自分を信ずるとはどういうことか。
  自分の分限を知ることが自分を信ずること。
  自分を本当に知らして貰うた所にそこに仏のおたすけがある。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 負けるとはおのれの事実に立つ。どんな事実も受け入れないということのない心の柔らかさ、明るさがある。事実を受け入れないのはまだ自分に執着があるからでしょう。負けたくないのは自分に自信がない。自分を築き上げる途中なのでしょう。心に余裕がない。なにもかもが足りない。足りないから急ぐ。その根底にあるのは暗い心、劣等感に違いない。自分の心を見たくないのは劣等感があるからでしょう。


 なにかを補うため、なにかを取り戻すため、なにかを忘れるために生きるなんて、はじめから暗い人生です。なにを得ようとも、その暗い劣等感を埋め尽くすこともできなければ、なにを得たとしても空虚さを癒すことはない。仏のお心に遇えば、いま持っているもので十分に満足だと教えていただける。はじめから勝ち負けなどないから、勝つこともいらず、勝つことのいらない者に負けなどない。だから、喜んで負けていられるのでしょう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-15 15:58 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

機の深信

e0361146_10271998.jpg  弥陀成仏のこのかたは
  いまに十劫をへたまえり
  法身の光輪きわもなく
  世の盲冥をてらすなり

  (浄土和讃)

  我々は自分自身を知らぬ。
  自分自身を知ることが出来ぬ。
  外の方は一応知識を持つ。
  月の世界まで旅行することが出来るまで人間の知識は進んだが、
  自分自身を知る眼は全く閉じている。
  これは、阿弥陀如来の御光に照らされて
  自分自身というものを見るところの智慧を始めて与えてくださる。
  それを機の深信という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 この命に寄り添い、この命を悲しみ、この命を最後まで見届けてくださる、仏さまのお心の中にわたしは生まれ死ぬことができる。わたしを悲しんでくださるお心がありがたい。どんな命の流転だったか。わたしはなにも知らないが、今もわたしを悲しんでくださるお心がうれしい。わたしは一人ではない。一人で生きていても一人ではない。

 仏さまとはどんなお方か。どこにおられるのか。どうすれば仏さまにお遇いすることができるか。求める人に伝えたい。あなたの心の中で仏さまに遇ってほしい。仏さまのおられる場所が浄土だから、あなたの心の中が浄土になる。闇の心に光が入って光の国になる。「機の深信」とは自分が信じられる。仏さまに信じられていたことがわかって自分が信じられる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-14 10:14 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

浄土は精神王国である

  浄土とは何ぞや、浄土は精神王国である。
  心が濁っているから物という実体があると思うている。
  これを無明という。
  心の修行安心の拠り処を失うて堕落して物質の奴隷になっている、
  それを迷いの娑婆世界という。
  自分の力では成仏出来ない者のために浄土を立てて
  往生の道を建てて下されたのが如来の本願である。
  往生以外におたすけはない。
  往生という所に新しい生活、精神生活を開いて下さる。
  それを仏恩報謝の生活という。
  因と果は同時にある。
  異時因果ではなく同時因果と理解すべきものである。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 「同時因果」とは現在と未来が同時である。信をいただいた現在に未来の浄土が開ける。現在を超えて現在するのが浄土である。だから娑婆は浄土ではないが娑婆を超えて娑婆を包んでいる。一方、「異時因果」とは現在に信心をいただくが往生は死後である。死後に浄土に生まれてから仏になる修行をする。現在にはなにもない。信の一念がない。なにもありがたくない。

 「おたすけ」とは信の一念に往生するから「おたすけ」という。往生するから成仏に間違いないとわかる。間違いないから心配がない。心配がないから成仏がもう問題にならない。「往生の道を建てて下されたのが如来の本願である」とわかるのは往生した証拠である。異時因果には証拠がない。証拠もなくて仏恩報謝と言っても意味がない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-08 10:11 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)