八万の法蔵の御文

  それ、八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす。
  たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを智者とすといえり。
  しかれば、当流のこころは、あながちに、もろもろの聖教をよみ、
  ものをしりたりというとも、一念の信心のいわれをしらざる人は、
  いたずら事なりとしるべし。されば聖人の御ことばにも、
  「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、
  ふつとたすかるという事あるべからず」とおおせられたり。
  (以上、一部抜粋)

  (御文・第五帖・第二通)

 知識では助からない。心の問題だからだ。心の問題を自覚しない者は聴聞が勉強になる。心の問題がないのではなくて心を見る勇気がない。ほとんどの人は自分の心を苦しめるものが心の外にあるかに思い込もうとしているが、そうではない。自分の心が苦しみの原因だ。自分の心に執着して、執着するゆえに心に縛られ、縛られるがゆえに有為転変する心とともに諸々の苦しみを受けている。

 その明らかな事実に気づいていない。心は外に問題を見つけて、心の外の問題が解決すれば苦しみはなくなるかのようにあなたを騙している。あなたは自分の心に見事に騙されている。心の外に問題はない。心が問題だ。そんな一番大事なことを知らないから「八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす」と言われた。


 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-02-10 05:58 | 御文を読む | Comments(0)

帖外ブログ・其の三

南無阿弥陀仏

一、念仏は仏の心とつながる唯一の方法。形だけの念仏に仏が心を入れてくださる。


二、自分の心を見る勇気がないのは心が見るなと言っているからだ。心は見られたくない。


三、真宗は修行がない。心から眼をそらす儀式や行、学問がないのは苦しい。


四、信心だ悟りだといってみても念仏が口から出てこなければただの妄想。


五、われ以外すべてが還相の菩薩である。世界すべてが念仏しなさいと呼んでいる。


六、心の外に苦悩の原因があると思う。それは誤りで自分の心が苦悩の原因である。


七、自分の心から解脱する。自分の心から自由になるために聴聞している。


八、人間として成長しても最後は骨。仏になれるわけではない。


九、仏の眼から見たらわたしはどう見えているのだろうか。これだけで聴聞できる。


十、仏の眼(法)から見たわたし(機)がはっきりする。これが二種深信です。


平成三十年二月九日

善及記す

# by zenkyu3 | 2018-02-09 07:09 | 帖外ブログ | Comments(0)

悪人正機

(歎異抄・第三条・その三)

  煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、
  生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、
  願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、
  他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
  よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。

  (歎異抄・第三条)

  他力をたのみたてまつる悪人こそは、
  悪人であるということがもっとも往生の正因である。
  正因は正機と同じことであろうと思う。
  「よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと」、
  ここに悪人が本願の正機をあらわす。
  悪人は自ら悪人たることを自覚せる悪人である。

  (歎異抄聴記179ページ)

 自分の心に価値を置かない。これは恐ろしいことだから、誰も悪人にはなれない。右手で右手をつかめないように、自分の心を生きていながら自分で自分の心を否定することはできない。しかし、自分の心という苦悩の原因を除かない限り救いはない。どうすれば自分の心を否定せずに救われるのか。聴聞もここまで来れば、いま一歩です。それは仏に心をすべてお預けして、この心のまま救ってもらう。お預けすることがまた困難ですが、救われた証しには悪人の自覚が生じる。あちらから自分の姿を見せていただく。理屈ではない。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-02-09 06:13 | 特集「歎異抄聴記」 | Comments(0)

帖外ブログ・其の二

南無阿弥陀仏

一、仏についての知識がどれほどあっても仏に遇ったことがなければ意味がない。

二、仏の眼にわたしがどう見えているか。これを知るための聴聞である。

三、我執とは頭に湧いた思いに意味があると無前提に思う。我執が落ちたら悟り。

四、虫かごの虫を眺めるように頭の中の思いを眺める内観は我執を落とす工夫。

五、コップの中にいろんな思いがごちゃごちゃ入っているのをコップの外から見る。

六、自分の心を反省するは我執。ありのままに見る懺悔。執着は暗く、無執着は明るい。

七、二種深信は信心の智慧。仏の眼で見せていただくから自分の心は助からないとわかる。
八、直に常に心を問題にするのが聴聞。自分の心から眼をそらせないのは苦行だ。

九、自分の心を見ていると必ず直したくなる。心をいじらないでただ見るは実に難信。

十、これらの文、心を見ることの重要性を伝えてくださっています、と畑のかえるさん。


平成三十年二月九日

善及記す

# by zenkyu3 | 2018-02-09 06:01 | 帖外ブログ | Comments(4)

自力作善の人

(歎異抄・第三条・その二)

  そのゆえは、自力作善のひとは、
  ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
  しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、
  真実報土の往生をとぐるなり。

  (歎異抄・第三条)

  自力作善の人は、その環境としてひとえに他力をたのむ心がかけている。
  それは宿業、善の宿業が起こっているから、その人は順境であるから
  「他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず」。
  弥陀の本願に相応せぬ。
  自力作善の人が定散自力をひるがえすことは容易ならぬことである。

  (歎異抄聴記178ページ)

 自力の人は自分の心に帰依する。仏には帰依しない。自分の心と一体になって自分の心が望むことならなんでもする。自分の心に鼻面引き回されて、ありとある苦しみを舐めさせられていながら、それでも自分の心に縛られていることに気がつかない。端から見れば実に惨めなものだ。それでも、さすがに死も近くなり欲もなくなってくれば、物質的な欲望を満たすだけの人生だったと薄々気がついてくる。しかし、その時はもう取り返しはつかない。気がつかない振りをしたまま死ぬ。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-02-08 06:08 | 特集「歎異抄聴記」 | Comments(0)