摂取不捨の味わい

  一三六、阿弥陀如来、五劫永劫の難行苦行は、
  我等がやすやす仏になる種じゃぞ。
  親を泣かせるも子の心一つ、喜ばせるも子の心一つ。
  何時までも地獄の人数で居るが、大悲の涙の種じゃ程に。
  真実の親に、抱き上げられたようになったが、
  摂取せられた味いじゃ。(以上、一部抜粋)

  (香樹院語録)
 

 人の心が造る心の世界に六種あって六道という。心が造って心が住む。外にはない証拠に六種の世界を行き来する。どんなによくても一時の満足、やがて転落して、悪ければ身を細切れにされてジリジリと火に焼かれ続ける地獄に落ちる。仏教は六道を超えて仏のお心でできた安楽世界に生まれよと教える。一度仏のお心の中に生ずれば、つまり摂取不捨を経験すれば、二度と六道(人の心)には戻らない。香樹院師が「摂取せられた味いじゃ」というのは「即得往生」のことを言っている。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-09-01 06:18 | 特集「香樹院語録」 | Comments(0)

  『和讃』にいわく
  「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 
  弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)
  とはそうらえば、信心のさだまるときに、
  ひとたび摂取してすてたまわざれば、
  六道に輪回すべからず。
  しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。
  かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。
  あわれにそうろうをや。

  (歎異抄・第15章)

 「煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう」で始まるこの章は、「信心」と「さとり」の違いを明らかにして、即身成仏の異義を厳しく批判している。そのせいか、引用文での唯円は「あわれにそうろうをや」とやや感情的ですらある。それというのも「信心」と「さとり」の区別もわからないのは、そもそも信心を得ていないからだ、という唯円の気分が強く反映しているからです。

 唯円は証拠を示すかのように、ここに親鸞の和讃を引用して、これが「信心」だ、「さとり」ではないぞ、と言っているのです。よって「信心」の内容はこの善導讃に明らかです。すなわち「①金剛堅固の信心のさだまる」も「②弥陀の心光摂護して」も「③ながく生死をへだてける」も、みな同じことを別々の言葉で表現していると言っていい。まず「③生死をへだて」とは「出離生死」のことで、六種の心の世界(六道)を造る「自分の心」を離れることを言います。「自分の心」を離れて「自分の心」に巻き込まれなくなる。自分の心から救われる、これが「六道に輪回すべからず」です。死んでからのことではない。

 次に、自分の心より大きな心、仏の心の中に生じることが「②弥陀の心光摂護して」であり、仏の心の中に常にいて、自分の心が見えているので自分の心に巻き込まれない。これが「①金剛堅固の信心のさだまるとき」に起こる信心の内容で、この体験は「さとり」の初めであり「さとり」の完成に向けて歩み出す一歩であるから「成仏」ではないと、唯円は教えてくれているわけです。われらはどこまでも「救われる凡夫」であり決して「救う仏」ではない。しかし、仏ではないがいつでも仏になれる。これが親鸞の「現生不退」の仏教です。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-08-31 06:52 | 歎異抄を読む | Comments(0)

滅度のさとりのかたは

  一 「御たすけありたることのありがたさよと、念仏もうすべく候うや。
  また、御たすけあろうずる事のありがたさよと、念仏もうすべく候うや」と、
  もうしあげそうろうとき、仰せに、
  「いずれもよし。ただし、正定聚のかたは、御たすけありたるとよろこぶこころ、
  滅度のさとりのかたは、御たすけあろうずることのありがたさよともうすこころなり。
  いずれも、仏になることをよろこぶこころ、よし」と、仰せそうろうなり。

  (蓮如上人御一代記聞書18条)

 信の一念に「智慧」をいただく。「智慧」の人を「仏」というが、煩悩の身を持っているので一段下がって「正定聚の菩薩」「仏に等しい人」という。「順次生に仏になる」(歎異抄・第5章)といえるのはすでに「智慧」をいただいているからです。「仏になる身に定まった」ことが大事で「順次生に仏になる」ことは仏にお任せしておけばよい。

 また、信の一念にいただく「智慧」はこの身とこの心を超えて「現在」している。「現在」を超えているから「未来」という。この場合の「未来」とは「現在」を照らす光明であり、「未来」という時制で「智慧」の超越性を表すのであり、現在の延長線上に「未来」があるのではない。仏教における「未来」とは死後のことではなく、死んで仏になるなんて話でもない。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2017-08-30 06:32 | 特集「蓮如上人御一代記聞書」 | Comments(0)

一信二喜

  八七、一念の信に二の喜びあり。
  六道の苦を免るる喜び、浄土の往生を期するの喜び。
  この二つの喜びを思えば、
  此世で我がなしたる悪事で必ず刑罰に逢うべき難を救わるると、
  思いもよらず長者の家のあとめになるとの、
  二つの喜びのそろうたものはない。
  然るに今は、二つの喜びを、一念の信にそなえて與え給う。
  機法二種の信心の相なり。  

  (香樹院語録)

 「六道」とは心が造る六種の世界。そういう世界は外にはないが心が造って心が住む。この六道(人の心)を超え出た処を「浄土」という。人の心を離れ出る一瞬の信仰体験を「信の一念」といい、「浄土」から六種の世界(自分の心)を照らし見るので「智慧」という。「六道の苦を免るる喜び」も「浄土の往生を期するの喜び」も信の一念に成就する。この身とこの心、すなわち「現在」を超えているので「未来」という。だから、仏教で「未来」というときは死後の話ではない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-08-29 06:21 | 特集「香樹院語録」 | Comments(0)

厳烈なる慈誨

  二四七、後藤祐秀、かって祖跡を巡拝して越後に至り、
  無為信寺に参じて師の教を受く。
  ある日早朝に辞して帰らんとし、船場に行きしが風ありて便船出でず。
  則ち再び引きかえして事の由を師に告げ、
  今日は一日逗留して、近きあたりの名所見物をなさんと申し上げたれば、
  師の曰く。名所をみること何の益あらむ、宣しく書を見るべしと。
  秀曰く、仰せさることながら、己に行李を理めて手に読むべき書も候わずと。
  師色をかえて曰く。一日読む程の書はここにもありと。(以上、一部抜粋)

  (香樹院語録)

 信をいただく以上のことはないのに、後藤祐秀という人、信を取ろうという真剣さがない。無為信寺に参じて師の教えを受けるもただの祖跡巡拝、観光気分を師に厳しく見咎められた。たかが一日くらいの名所見物、許さぬ師ではなかろうけれど、信を求める志がなさすぎる。目の前に善知識がおられ、なんでも聞けるのに、なぜ、日ごろの不信の胸の内を聞いていただかないか。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


# by zenkyu3 | 2017-08-28 06:49 | 特集「香樹院語録」 | Comments(0)