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香樹院語録 七九

 秀存師、尋ね申して曰く、信には疑いなけれども、それでも心持ちの悪い時がありますが、そんな時は、いかがいたせばよろしきにや。師の仰せに、そんな事は他に云わいでもよい。ただ、お念仏をしていらっしやれのう。

 歎異抄・第九条より。(唯円が親鸞にこんなことを訴えた)念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん、と。秀存師が徳龍師に、信には疑いなけれども、と訴えたのは唯円の心持ちとまったく同じです。これが七地沈空の難です。念仏に飽きてきた。信仰の危機と言ってよい。これを越えて第八教化地に入ると本願力がはっきりと働きを現す。働きが現し出して信心(因位のさとり)が完成する。信心が空虚な観念に堕することを回避するのです。十地の仏道の大事な節目と言ってよいでしょう。だからこそ唯円は歎異抄の中に長い一章を割いているのです。初歓喜地が浄土の入口なら、第八教化地は阿弥陀仏(本願力)に対面する浄土の奥座敷です。徳龍師は自ら通ってきた道でもあるから、これを当然のこと知っていて、ただ、お念仏をしていらっしやれのう、と秀存師に救いの手を差し伸べる。親鸞が唯円にそうしたように。この語録はここまで秀存師の信心が深まってきたことを記録しているが、徳龍師の秀存師へのご化導の記録は第八十五章へと続く。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2024-03-20 05:28 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

一蓮院秀存師

香樹院語録 七八

 ある時の仰せに、出離のことを相談する相手は、一蓮院の外なし、と。

 徳龍師は、第二十七章で秀存師の信心を認め、第四十五章では秀存師の信におごる気持ちをたしなめていた、ここ第七十八章では、秀存師が人を指導することを許している。また、次の第七十九章では七地沈空の難に落ちた秀存師を徳龍師が救ったこと、さらに第八十五章では第八教化地へと進んだことが記録されている。このように本語録では秀存師の信心が深まっていく様子をまるで定点観測でもするかのように記録が残っている。さて、本語録の序文に、柏原祐義、禿義峰の二氏、日課の余暇を以って、禿氏の大人顕誠老宿所蔵の講師法話等に依りて三百個条を纂集し、とあるが、各地を歩き、これほど大量の語録を集めた禿氏の父君、顕誠老宿とはどんな方だったろうか。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2024-03-19 05:17 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

香樹院語録 七七

 法を聞きて法に入り、法に入りて法を得る。法に入る人は多けれども、法を聞き得る人、甚だまれなり。

 題には、信心欠けたる人を遠く仰ぐ人、信心の人を近く受くる人、と示している。遠く天を仰ぎ、死後の浄土を願う人に仏の声は聞こえず、自分の心の闇に分け入り、闇の底に光を求める人は仏の声を聞く。難しい経文を憶える学問ほど易しいことはなく、知っていると思っている自分の心に向き合うことほど難しいことはない。仏法の鏡に己の心を照らし見よ。そのための仏法です。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2024-03-18 05:14 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

香樹院語録 七六

 予(禅僧弘海)問うて云はく、法話を聞くことと、自ら聖教を読んでわが耳に聞くと云うこととは、有難く承わりぬ。ただ、念仏するを聞くと申すは、われ称えてわが声を聞く事に候や。師、大喝して曰く、汝、何事をか云う。わが称える念仏と云うもの何処にありや。称えさせる人なくして、罪悪のわが身、なんぞ称うることを得ん。称えさせる人ありて称えさせ給う念仏なれば、そもそもこの念仏は、何のために成就して、何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。 予、この一語心肝に徹し、はっと受けたり。心に思うよう。「我至成仏道、名声超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚」。また第十七の願に、わが名を諸仏にほめられんとの誓いは、名号を信ぜさせんとの御意なり。かつまた、常に聞くと申すことは、ただ法話のみを聞くことと思いしは誤りなりき。あわれ、志の薄かりしことよと恥じ入り、今まで禅門に於いて、知識より、汝、今をも知れぬ命なれば、昼夜十二時思惟して、この公案を拈底せよ、暫らくも忘るることをなかれ、と云われしことを思い浮べ、「聞思して遅慮するなかれ」との祖訓を、『見聞集』に尽くし給いしことを感悟し、それより常に法話なき時は聖教を拝聴し、朝夕は『三経』『正信偈』『和讃』『御文』を拝読し、また、つねに念仏を拝聴し奉るに、われ今称うる念仏には、ご主人ありて称えさせ給うなり。しかれば、ただ称えさせるを詮としたまはず。称えさせ給うは、助け給はんために、一声をも称えさせて下さるることよと思えば、それより称えることについて、尊く称えさせて下さるる身となりしなり。このこと今に耳にありて、忘るる能わずと申されけり。

 弘海いわく、われ今称うる念仏には、ご主人ありて称えさせ給うなり、と。ここに弘海は信を獲たことを自ら表明している。続けて、称えさせ給うは、助け給はんために、一声をも称えさせて下さるることよと思えば、それより称えることについて、尊く称えさせて下さるる身となりしなり、と。一声すなわちこれ一念なり。教行信証・信巻にこうある、それ真実信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念は、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり、と。徳龍師に導かれ、弘海の上に本願が成就した。徳龍師の下に、次々と信心の人が生まれる。普通のことではない。善及

 南無阿弥陀仏

# by zenkyu3 | 2024-03-17 05:27 | 香樹院語録を読む | Comments(0)