帖外ブログ・其の七

南無阿弥陀仏

一、「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(雪山偈)

二、諸行無常、これ生滅の法。生滅、滅しおわり、寂滅をもって楽となす。

三、命の世界は刹那滅であり、刹那刹那に古い命は死に新しい命が生まれる。

四、刹那滅は命の本質であり、生滅に執着することが苦の原因となる。

五、生滅は生滅のままに、生滅に執着しなければ苦を受けない。

六、生滅を離れた境地を寂滅といい、仏教が伝えてきた涅槃である。

七、「有漏の穢身はかわらねど こころは浄土にあそぶなり」(帖外和讚)

八、「あさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとし」(御消息集)

九、身は穢土にあるから苦を受けるが、心は浄土にあるから苦を受けない。

十、涅槃は安楽国である。心に苦を受けない悟りの世界である。

平成三十年二月十六日

善及記す

# by zenkyu3 | 2018-02-16 15:20 | 帖外ブログ | Comments(3)

浄土の慈悲

(歎異抄・第四条)

  慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。
  聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
  しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
  浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、
  大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
  今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、
  存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
  しかれば、念仏もうすのみぞ、
  すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

  (歎異抄・第四条)

  第四条は、聖道門の慈悲と浄土門の慈悲に差別あり。
  文章からいえばそうなっているが、内容、帰趣からいえば、
  念仏大悲、念仏こそ大悲の行であることをのべたのである。
  別にわれらがこちらから慈悲をおこなうのではない。
  われわれが慈悲心をおこしてものを救うことはできないことで、
  むしろわれわれ自身、慈悲の対象であることを痛感するところに、
  おのずから他人を感化することができる。自信教人信である。
  自信のほかに教人信なし、自信おのずから教人信である。
  この文章は別にむずかしくない。

  (歎異抄聴記199ページ)

 人が念仏に遇って救われていくというような大事業は仏だけのお仕事です。われらは救われる者であって救う者ではない。自らも救えなかった者がなんで人を救えようか。人にはみな仏のお心がかけられているのであって、わたしが口挟むような場面はどこにもない。どこまでも自信があるばかりで、自信の人を見て、それを法縁として念仏称える人があれば、それもまた仏のお仕事、仏のお手柄で、わたしの手柄などどこにもない。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-02-16 06:01 | 特集「歎異抄聴記」 | Comments(2)

大信心は仏性なり

  信心よろこぶそのひとを  
  如来とひとしとときたまう
  大信心は仏性なり
  仏性すなわち如来なり

  (浄土和讃)

  釈迦弥陀は慈悲の父母
  種種に善巧方便し
  われらが無上の信心を
  発起せしめたまいけり

  (高僧和讃)

  信心の智慧は、無生法認をさとるのが信心の智慧である。
  生死は身体にある。われわれの心は無生無滅のものである。
  心が物の奴隷になっていると、心も身体と同様に生も死もあるが、
  心が独立して身体を支配することが出来るなら無生無滅である、
  それを無生法認という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 身体は物質です。身体を自分だと思って身体に縛られている心は身体が滅べば自分も死ぬと恐れる。しかし、身体の色や性別、特徴は違っても、一個一個の身体には「仏性」という仏の心が埋め込まれている。身体が生まれ死んでも仏性は一つです。仏性は永遠に一つで、その働きは変わらない。この身体に深く埋め込まれた仏性を呼び覚まそうというのが弥陀の本願です。身体は仏性を納めておく箱で大切にしなくてはならないが、わたしは箱ではなく仏性です。わたしがわたしを取り戻すために聴聞しているのです。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-02-15 06:00 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)

  永遠に無明の闇にねむっている衆生をして、
  至心信楽にめざめしめんとして欲生を開顕したもうた。
  その衆生の信心仏性、永遠にして久遠なる信心仏性を、
  いかにめざめしめるかというところに、仏の五劫思惟のご苦労がある。
  なにゆえに仏は永劫修行されたかというと、衆生の仏性たる信心をめざましめる。
  そうするにはどうしたらよいか。それが仏の問題である。
  それが五劫兆載永劫の問題である。
  これをあきらかにするのが真宗学である。

  (歎異抄聴記35ページ)

 仏性とは仏の性質のことです。身体には一つずつ仏性が埋め込まれている。だから、みな仏に成ることができる。しかし、仏性は心の奥深くにあり、しかもぶ厚い煩悩に覆われている。可能性は内にある。光は闇の奥にある。聴聞によって心の深層に降りていくことができる。心の深層に降りていけば、過去世に蓄積した無量無数の悪業を見ることになる。怖じ気づいてはいけない。心の醜さ、浅ましさに耐えなくてはならない。こんな心で仏になれるはずがないとよくわかる。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-02-14 06:18 | 特集「歎異抄聴記」 | Comments(3)

帖外ブログ・其の六

南無阿弥陀仏

一、無明とは頭に湧いては消えるだけの思いを自分と誤解すること。

二、無明にもとづいて思いを自分だと執着する。思いに縛られるから我執という。

三、心に執着して我執といい物に執着して法執という。いずれも心の自由を奪う。

四、思いは刹那滅、身体も刹那滅しながら個体としての長さを持っているがやがて滅する。

五、刹那滅するだけのものにわれらはしがみついている。心も身体も刹那滅。知るべし。

六、しがみついてもしがみついたままいっしょに沈む。知るべし。

七、苦悩の原因は我執と法執である。我執と法執の根底には無明がある。

八、智慧の光がないので無明という。心と身体に執着して苦悩の生活から脱け出せない。

九、命の世界は刹那滅を本質とし、無執着という仏のお心をわれらに教えている。

十、刹那滅というのは実にさっぱりしている。命の世界すべてが刹那滅の説法である。

平成三十年二月十四日

善及記す

# by zenkyu3 | 2018-02-14 06:00 | 帖外ブログ | Comments(0)