大聖世尊の御文

  それ、倩人間のあだなる体を案ずるに、
  生あるものはかならず死に帰し、
  さかんなるものはついにおとろうるならいなり。
  さればただいたずらにあかし、いたずらにくらして、
  年月をおくるばかりなり。
  これまことになげきてもなおかなしむべし。
  このゆえに、上は大聖世尊よりはじめて、
  下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。
  しかればまれにも、うけがたきは人身、あいがたきは仏法なり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第三帖・第四通)

 死ねば終わりと本心ではそうなのでしょう。だから、因果が三世にわたるとも知らずにこの世と命を楽しんでいる。しかし、どこか満足がないのはなぜだろうか。生きている間は家族や仲間と賑やかにやってきたが、独来独去、死ぬときは一人で死んでいく。さぞかし寂しかろう。だが、誰もあなたを助けられない。


 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-02-22 06:04 | 御文を読む | Comments(2)

帖外ブログ・其の十

南無阿弥陀仏

一、呼ばれている。永遠から声がする。声に引かれて歩んで行く。

二、呼び声のする方に歩いていく。それを「聞く」という。

三、信心歓喜とは光が見えた。歩いて行く方向が示されたのである。

四、生死を解脱するは不生不滅の仏性を自覚する。もとより生死などない。

五、真実は露出しているのに眼前にあって気づかないのは眼が見えない。

六、形あるものに価値はない。形のないものに価値がある。知るべし。

七、愚かな姿である。どうでもいいことでみな騒ぎあっている。悲しむべし。

八、真実の前に頭を下げよ。真実を知らないから傲慢でいられる。畏れよ。

九、独来独去、一人で死んでいくのである。誰もあなたを助けられない。

十、時間はない。ない時間をなにに使うか。一番大切なことのために使う。

平成三十年二月二十一日

善及記す


# by zenkyu3 | 2018-02-21 08:22 | 帖外ブログ | Comments(2)

帖外ブログ・其の九

南無阿弥陀仏

一、頭を下げて教えを仰ぐ人はいない。本を読めばわかると思っている。

二、仏教は世渡りの智恵ではない。人生が上手く行こうが行くまいが関係ない。

三、思い通りの人生になったからといって、それがなんだろう。

四、生きるのが辛くて法を聞く人は生きるのが少しでも楽になると法を聞かなくなる。

五、自分で自分を責めて苦しむのを〈機なげき〉という。機の深信ではない。

六、生きているうちはみなと賑やかにやってきたが、死ぬときは一人で死んでいく。

七、どんなことにも基準を持っていて、自分の基準に合わないというだけで怒ってる。

八、穢土は苦しみを受ける場所であると諦めがつけば、死ぬ以上のことはない。

九、逆境は必ずしも悩みではない。いま起きていることが受け入れられないと悩んでいる。

十、思い通りにならないと腹が立つ。腹が立つと害意が起こる。害意に縛られ人を傷つける。

平成三十年二月二十日

善及記す


# by zenkyu3 | 2018-02-20 18:09 | 帖外ブログ | Comments(4)

帖外ブログ・其の八

南無阿弥陀仏

一、二月十五日付けの記事「大信心は仏性なり」を読んでほしい。(以下、量深師の言葉)

二、信心の智慧は、無生法認をさとるのが信心の智慧である。

三、生死は身体にある。われわれの心は無生無滅のものである。

四、心が物の奴隷になっていると、心も身体と同様に生も死もあるが、

五、心が独立して身体を支配することが出来るなら無生無滅である、それを無生法認という。

六、以上、ここで紹介した曽我量深師の言葉はとても大切なので覚えていてほしい。

七、すなわち、身体は仏性を入れる箱である。わたしは仏性であり箱ではない。

八、無生無滅の仏性を自覚することが信心である。大信心は仏性である。

九、仏性を自覚した者は仏である。仏になるは不死を得たのである。不死が宗教である。

十、生死は身体にある。身体に縛られているから身体と一緒に生死する。

平成三十年二月十八日

善及記す


# by zenkyu3 | 2018-02-18 20:39 | 帖外ブログ | Comments(2)

御浚えの御文

  そもそも、今度一七か日報恩講のあいだにおいて、
  多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定し給えるよしきこえたり。
  めでたく本望これにすぐべからず。
  さりながら、そのままうちすて候えば、信心もうせ候うべし。
  細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせといえる事ありげに候う。 (以上、一部抜粋)


  (御文・第二帖・第一通)

 一度の報恩講で同時にたくさんの念仏者が生まれるとは今では考えられないような仏法興隆の時代です。「大略信心を決定し給えるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず」と、それをさも当然のように受け止める蓮如の口振りが凄い。どんな報恩講であったか想像もつかない。信心を取る体験は踊躍歓喜といって本人にははっきりとした体験であるが、一と月もすると興奮が冷めて、それがどんな体験だったかもわからなくなる。

 わからなくなった後、その微妙な感触を壊さないように、その感触を思い出し確かめるように聴聞が始まるのです。そのことがあるので蓮如は「細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせ」と指導するのでしょう。体験は二度は起きない。一度きりの信体験を確かめ確かめ、体験を言葉にする作業が生涯にわたって続くのです。針の先ほどの光だった智慧が少しずつ光を増していく。その自信のプロセスがそのまま教人信になるのです。

 南無阿弥陀仏


# by zenkyu3 | 2018-02-17 06:01 | 御文を読む | Comments(0)