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 誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。

(教行信証・信巻 -4)

 自分の心を拠り所とする人は拠り所にふさわしい心でありたいと願う。自分の心に期待がある。しかし、仏のお心を拠り所とする人は自分の心を捨てているので、「誠に知りぬ。悲しきかな」と自分の心がありのままに見える。どのように見えたかといえば「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑し」と見えた。光あるところに影があるように「恥ずべし、傷むべし」と、智慧があれば必ず懺悔がある。

 南無阿弥陀仏  
by zenkyu3 | 2019-05-31 21:48 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

自性唯心に沈みて

 それ以みれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。しかるに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。

(教行信証・信巻別序 -3)

 仏のお心がわたしの心に現れて、わたしの救いを成就される。これを「信楽」という。わたしの心と仏のお心の違いがはっきりする。仏教はこの信楽体験を伝えてきた伝統です。仏の方からわたしが見える。目が目を見ることができないように、わたしはわたしを見ることはできない。なのに見えないはずの自分の心がわたしに見える。仏の方からわたしが見える。このように自分の心が見えることを「不思議の仏智」といい、智慧を与えて救うから「仏」という。ではなぜ、このような救いの体験が起こらないのか。それは「自性唯心に沈み」「定散の自心に迷いて」いるからだと親鸞は教える。自分の心の他に仏のお心があることを信じない。仏のお心を信じないから自分の心を信じる。自分の心を信じている限り決して救われない。なぜなら、自分の心は「無明」といい、ありとあらゆる苦悩を造る根本原因だからです。自分の心を信じることを仏教では「我執」といって嫌われる。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-05-30 22:20 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

 ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。

(教行信証・総序 -2)

 真実が知りたい。真実を知れば心の不安はなくなるに違いないと、高校生のわたしはそう信じた。なぜ、心は不安なのか。それがわからなかった。心の闇の奥底に隠されているなにか。わたしを縛っているものの正体がなにか、それを知りたいと思った。わからないから求めるのだろうけれども、わからないなにかに引き寄せられているようでもある。そんな風に人生を歩んできた。十八歳の高校生が知りたかったことと、六十五歳のわたしが知っていることとは同じではないが、真実はある、それを知っている人が世間には必ずいる。そして、真実は必ず文字になっていると信じたことは間違ってはいなかった。親鸞曰く「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と。厳しい求道の末、ついに若き親鸞は真実を見つけた。古親鸞の歩んだ道をあなたも信じて歩め。

 南無阿弥陀仏 

by zenkyu3 | 2019-05-29 21:29 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

すでに聞くことを得たり

 ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

(教行信証・総序 -1)

 人は人として生まれてきたことの意味を知ることができる。どんな人生を与えられようと関係なく、人の心を超えた大きな心があることを知ることができる。これは人だけに可能なことです。親鸞曰く「聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」と。仏心に出遇った喜びによってのみ人は人になり、人として生まれてきたことの意味を知り、生まれてきたことに満足して死んでいくことができる。「特に如来の恩徳の深きことを知りぬ」。目に見えない仏のお心の中に自分を発見した時の感激と、仏のお心とともに暮らす心の生活の喜びは人だけに与えられている。これが畜生道にとどまる人生と菩薩道を歩む信心の人との違いです。人生で経験するすべてのことは仏と心つながることに比べればなんの価値もない。

 南無阿弥陀仏 

(追記)『教行信証』は「経論釈」からの引用と、大量の引用文に挟まれるかのように配置された比較的少量の親鸞聖人のお言葉「御自釈」とで構成されています。今回は「御自釈」部分をとくに拝読いたします。善及

by zenkyu3 | 2019-05-27 08:58 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

福岡県人 2019-04-21

コメント欄から

 3月9日から二ヶ月半『歎異抄』を読んでまいりましたが、昨日の記事をもっていったん終了します。とくに計画性もなく『歎異抄』の文章に領解をつけていただけですが、今回は唯円の気持ちというものが少し近しく感じられたのが成果でした。これまで『歎異抄』は親鸞の言行録だと思って読んでまいりましたが、そうではなく『歎異抄』は唯円の信心の書であり、弟子たちへの遺言の書だったのです。それはそうと、今回のシリーズは難しかったのか、面白くなかったのか、来訪者が半分になりました。読者はどんどん減ってまいりますが、そんな中でも嬉しいお便りをいただいたので、とくに紹介させていただきます。善及

福岡県人
2019-04-21

 まずは感謝申し上げます。宗教の世界に足を踏み入れてから35年になります。悩み苦しみから逃れるために入った世界なのに、かえって苦しみが深刻になり、こんなことなら宗教など知らなければよかったと思っても、過去には戻れない。前に進むしかないと、長い間悶々としていました。幸いにして12年ほど前に信心をいただきましたが、その後もあっちに迷い、こっちに迷いしていた10年間でした。3年ほど前にゼンキュウ様のブログに出逢い救われました。言葉では言い尽くせないほど感謝いたしております。ありがとうございました。自分ではメールができないので久しぶりに帰省した娘に打ってもらっています。73歳の男性です。毎日貴ブログを拝見いたしております。本当にありがとうございました。

法の魔障なり、仏の怨敵なり
2019-04-21
by zenkyu3 | 2019-05-24 05:48 | コメント欄から | Comments(2)

ひそかに愚案を回らして

 ひそかに愚案を回らして、ほぼ古今をかんがうるに、先師口伝の真信に異ることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸いに有縁の知識に依らずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱すことなかれ。故親鸞聖人の御物語の趣き、耳の底にとどまるところ、いささか之をしるす。ひとえに同心の行者の不審を散ぜんがためなり。

(歎異抄・前序 -76)

 さて、今回も一通り『歎異抄』を読んでみました。『歎異抄』を読むことがわたしの人生だったので、とくに今回は人生の棚卸しのような気持ちでしたが、肝心なことをまだ言い残しているような気分です。ご信心は生きて働いてくださっているので、つねに新しい気づきが出てくる。だから、お聖教は何度読んでも飽きるということがないのです。言うまでもなく、仏教は仏心を伝えてきた伝統です。目に見えない仏心は言葉で伝えるしかないけれど、どんなにお聖教を読んでも仏と心通じなくてはお聖教を本当の意味で読んだことにはならない。言葉の先にある目に見えない仏心を感得することが大切です。もし、あなたが『歎異抄』に魅力を感じる人なら、まずは「自見の覚悟」を捨て、親鸞と唯円の真意を深く窺って信境を開いていってほしい。(終わり)

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-05-23 05:04 | 歎異抄を読む | Comments(0)

この順次生に仏になりて

 いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなり。

(歎異抄・第五章 -75)

 量深師云わく、「還相回向は何も命終らなければ還相回向はないというわけでもない。一応の教えから言えば往相は現生である。還相は未来であるということになるが、併しまた還相も、現生に生きているうちに何もないわけではないので、自分がそういうことをするというわけでないが、現生に於いて念仏の徳、即ち信心の徳、そういう御利益が現れて来る」(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」86ページ) と。仏のお心と心通じると念仏が自然と出てくる。念仏が仏のお姿です。だから、信心の人の念仏を聞いて念仏を称える人が生まれるのは「念仏のお徳」であって念仏称えた人の手柄ではない。第六章にも「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり」とお示しいただいている。「わたし」が悟り「わたし」が救うのが自力の信念かも知れないが、仏道に「わたし」はない。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-05-22 05:17 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりしてよからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。

(歎異抄・第十三章 -74)

 仏教では「殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見」を身口意の三業がつくる「十悪」という。こうならないようにしようではなく、これがわたしたちの現実の姿なのだということです。自らの利益や感情を満足させるために人を傷つけ殺すことは平気だし、他人の持っている財産を狡猾に、ときに乱暴に盗み取って自分の財産とする。性的な満足が得たくて夜昼なく異性を物色して回る野卑な姿は獣のようだ。人の一生は金儲けと性的な満足のためにあると言ってよい。口からは自分をよく見せるための両舌と、人を貶めるための悪口が汚水のようにとめどなく流れ出てくる。本人はなにも気付いていない。世間では身業と口業が「外」、貪欲・瞋恚・邪見の意業が「内」と分けるが、信心の智慧に照らされれば意業もまた隠しようのない「外」となる。「外なる身口意の十悪」を照らして懺悔させるのが「内なる仏心」の働きです。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-05-21 05:49 | 歎異抄を読む | Comments(2)

 いかにいわんや、戒行恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。

(歎異抄・第十五章 -73)

 竹内先生は「わたしは死んだ、と言った人はいない」と言われた。生き物であるわれらは生まれる前を知らないし、死んだ後のことも知りようがない。体の臓器の一部でしかない頭脳が描いた夢のストーリーがなんであれ、それが金持ちの夢であったとしても、夢見の悪い盗っ人の夢であったとしても、頭脳にすればどちらでもかまわない。たとえて言えば、頭脳は茶を入れる器、どんな茶を入れようと器に文句はない。死とともにどんな夢も終わる。だから、生きているうちに「ああ、夢を見ているんだなぁ」と気づかせていただけたら、それが頭脳の働きを超えた不思議の仏智です。「一切の衆生を利益せん」智慧の働きがはっきりと働きを現した時を「さとりにてはそうらえ」と言うのでしょう。「わたし」が仏になるなんて話ではない。「わたし」も「わたしの人生」もただの夢、頭の中の内容物でしかない。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-05-20 05:24 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と。

(歎異抄・第九章 -72)

 『教行信証』に云わく、「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」(信巻)と。第九章は「信巻」の御述懐と同じく後念相続の内面を明かしている。唯円は信心を得たら悩みがなくなってスッキリするように思っていたが、意に反して、ますます救われない自分の心のありのままが見えてきた。これで信心をいただいたと言えるのだろうかと不安になって親鸞に訴え出た。師匠から信心を否定されるかもしれないのだから余程勇気が要ったであろう。親鸞はなんと言ったか。「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」。唯円はびっくりした。「それが信心をいただいた証拠なのだよ」と親鸞は言ったのです。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-05-19 05:22 | 歎異抄を読む | Comments(0)