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福岡県人 2019-04-21

コメント欄から

 3月9日から二ヶ月半『歎異抄』を読んでまいりましたが、昨日の記事をもっていったん終了します。とくに計画性もなく『歎異抄』の文章に領解をつけていただけですが、今回は唯円の気持ちというものが少し近しく感じられたのが成果でした。これまで『歎異抄』は親鸞の言行録だと思って読んでまいりましたが、そうではなく『歎異抄』は唯円の信心の書であり、弟子たちへの遺言の書だったのです。それはそうと、今回のシリーズは難しかったのか、面白くなかったのか、来訪者が半分になりました。読者はどんどん減ってまいりますが、そんな中でも嬉しいお便りをいただいたので、とくに紹介させていただきます。善及

福岡県人
2019-04-21

 まずは感謝申し上げます。宗教の世界に足を踏み入れてから35年になります。悩み苦しみから逃れるために入った世界なのに、かえって苦しみが深刻になり、こんなことなら宗教など知らなければよかったと思っても、過去には戻れない。前に進むしかないと、長い間悶々としていました。幸いにして12年ほど前に信心をいただきましたが、その後もあっちに迷い、こっちに迷いしていた10年間でした。3年ほど前にゼンキュウ様のブログに出逢い救われました。言葉では言い尽くせないほど感謝いたしております。ありがとうございました。自分ではメールができないので久しぶりに帰省した娘に打ってもらっています。73歳の男性です。毎日貴ブログを拝見いたしております。本当にありがとうございました。

法の魔障なり、仏の怨敵なり
2019-04-21
by zenkyu3 | 2019-05-24 05:48 | コメント欄から | Comments(2)

ひそかに愚案を回らして

 ひそかに愚案を回らして、ほぼ古今をかんがうるに、先師口伝の真信に異ることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸いに有縁の知識に依らずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱すことなかれ。故親鸞聖人の御物語の趣き、耳の底にとどまるところ、いささか之をしるす。ひとえに同心の行者の不審を散ぜんがためなり。

(歎異抄・前序 -76)

 さて、今回も一通り『歎異抄』を読んでみました。『歎異抄』を読むことがわたしの人生だったので、とくに今回は人生の棚卸しのような気持ちでしたが、肝心なことをまだ言い残しているような気分です。ご信心は生きて働いてくださっているので、つねに新しい気づきが出てくる。だから、お聖教は何度読んでも飽きるということがないのです。言うまでもなく、仏教は仏心を伝えてきた伝統です。目に見えない仏心は言葉で伝えるしかないけれど、どんなにお聖教を読んでも仏と心通じなくてはお聖教を本当の意味で読んだことにはならない。言葉の先にある目に見えない仏心を感得することが大切です。もし、あなたが『歎異抄』に魅力を感じる人なら、まずは「自見の覚悟」を捨て、親鸞と唯円の真意を深く窺って信境を開いていってほしい。(終わり)

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-05-23 05:04 | 歎異抄を読む | Comments(0)

この順次生に仏になりて

 いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなり。

(歎異抄・第五章 -75)

 量深師云わく、「還相回向は何も命終らなければ還相回向はないというわけでもない。一応の教えから言えば往相は現生である。還相は未来であるということになるが、併しまた還相も、現生に生きているうちに何もないわけではないので、自分がそういうことをするというわけでないが、現生に於いて念仏の徳、即ち信心の徳、そういう御利益が現れて来る」(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」86ページ) と。仏のお心と心通じると念仏が自然と出てくる。念仏が仏のお姿です。だから、信心の人の念仏を聞いて念仏を称える人が生まれるのは「念仏のお徳」であって念仏称えた人の手柄ではない。第六章にも「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり」とお示しいただいている。「わたし」が悟り「わたし」が救うのが自力の信念かも知れないが、仏道に「わたし」はない。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-05-22 05:17 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりしてよからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。

(歎異抄・第十三章 -74)

 仏教では「殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見」を身口意の三業がつくる「十悪」という。こうならないようにしようではなく、これがわたしたちの現実の姿なのだということです。自らの利益や感情を満足させるために人を傷つけ殺すことは平気だし、他人の持っている財産を狡猾に、ときに乱暴に盗み取って自分の財産とする。性的な満足が得たくて夜昼なく異性を物色して回る野卑な姿は獣のようだ。人の一生は金儲けと性的な満足のためにあると言ってよい。口からは自分をよく見せるための両舌と、人を貶めるための悪口が汚水のようにとめどなく流れ出てくる。本人はなにも気付いていない。世間では身業と口業が「外」、貪欲・瞋恚・邪見の意業が「内」と分けるが、信心の智慧に照らされれば意業もまた隠しようのない「外」となる。「外なる身口意の十悪」を照らして懺悔させるのが「内なる仏心」の働きです。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-05-21 05:49 | 歎異抄を読む | Comments(2)

 いかにいわんや、戒行恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。

(歎異抄・第十五章 -73)

 竹内先生は「わたしは死んだ、と言った人はいない」と言われた。生き物であるわれらは生まれる前を知らないし、死んだ後のことも知りようがない。体の臓器の一部でしかない頭脳が描いた夢のストーリーがなんであれ、それが金持ちの夢であったとしても、夢見の悪い盗っ人の夢であったとしても、頭脳にすればどちらでもかまわない。たとえて言えば、頭脳は茶を入れる器、どんな茶を入れようと器に文句はない。死とともにどんな夢も終わる。だから、生きているうちに「ああ、夢を見ているんだなぁ」と気づかせていただけたら、それが頭脳の働きを超えた不思議の仏智です。「一切の衆生を利益せん」智慧の働きがはっきりと働きを現した時を「さとりにてはそうらえ」と言うのでしょう。「わたし」が仏になるなんて話ではない。「わたし」も「わたしの人生」もただの夢、頭の中の内容物でしかない。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-05-20 05:24 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と。

(歎異抄・第九章 -72)

 『教行信証』に云わく、「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」(信巻)と。第九章は「信巻」の御述懐と同じく後念相続の内面を明かしている。唯円は信心を得たら悩みがなくなってスッキリするように思っていたが、意に反して、ますます救われない自分の心のありのままが見えてきた。これで信心をいただいたと言えるのだろうかと不安になって親鸞に訴え出た。師匠から信心を否定されるかもしれないのだから余程勇気が要ったであろう。親鸞はなんと言ったか。「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」。唯円はびっくりした。「それが信心をいただいた証拠なのだよ」と親鸞は言ったのです。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-05-19 05:22 | 歎異抄を読む | Comments(0)

諍論をくわだてて

 当時、専修念仏のひとと、聖道門のひと、諍論をくわだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりというほどに、法敵もいできたり。謗法もおこる。これしかしながら、みずから、わが法を破謗するにあらずや。

(歎異抄・第十二章 -71)

 十五年前、ネット上に文章を書き始めた頃、好んで議論を挑んでくる人が多かった。わたしに正しい信心を教えようとでもいうのだろうか。今では匿名性に隠れた冷かしはなくなったけれど、来訪者も四分の一くらいに減った。信心がわかりたければ、わかっていそうな人を探して、その人の話をひたすら聞く。議論は知らない者同士がするのであって、知っている人と知らない人の間に議論は成り立ちえない。自分の心の問題を議論して解決しようというのだろうか。信心のことは勝ち負けではない。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-05-18 05:14 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 仏法のかたに、施入物の多少にしたがいて、大小仏になるべしということ。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。

(歎異抄・第十八章 -70)

 異義八ヶ条・その八「施入物」。聞法の道場は金儲けの場所ではない。金で売り買いできる信心とは一体どのような信心か。「すべて仏法にことをよせて世間の欲心もあるゆえに、同朋をいいおどさるるにや」と、いとも簡単にこの章は終わる。多くの説明はいらないということでしょう。さて、最後に、野田明薫の〈先師の言葉〉から。「物なくて僧が授くるまねすれば、受けとるまねを門徒するなり」。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-05-17 05:35 | 歎異抄を読む | Comments(0)

ついには地獄におつべし

 辺地の往生をとぐるひと、ついには地獄におつべしということ。この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。学生だつるひとのなかに、いいいださるることにてそうろうなるこそ、あさましくそうらえ。

(歎異抄・第十七章 -69)

 異義八ヶ条・その七「辺地」。願力は地球の引力のように目に見えないが常にわれらに働いている。願力が働いていながら願力を自覚していないから「辺地」という。弥陀仏の願力は無辺際であるから願力からこぼれるということはない。それをこぼれると思うのは本人の勝手だが「地獄に堕ちる」と人を脅すとは指導僧にあるまじき所行だと唯円は批判している。「みずから他力の信心かくるのみならず、あやまって、他をまよわさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあわれむべし、弥陀の本願にあらざることを」(第十二章)と実に手厳しい。本人に信心がないのはともかくも、親鸞の教えにないことを述べてはいけない。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-05-16 05:11 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、かならず回心すべしということ。この条、断悪修善のここちか。

(歎異抄・第十六章 -68)

 異義八ヶ条・その六「自然」。この章のテーマは「自然」です。「はらをもたて」は意業、「あしざまなることをもおかし」は身業、「同朋同侶にもあいて口論をもして」は口業で、身口意の三業が配置されている。異義者は「人の行為は自然のことだから、その都度、反省すれば罪も消えて心もきれいになる」と主張している。しかし、すべてが「自然」(しぜん)なら主体も責任も成り立たない。行為に責任を感じないのは無慙無愧で人ではない。懺悔がなければ廻心もまたない。このような考え方は「天然外道」といって仏教ではない。このような異義に対して唯円は仏教における「自然」(じねん)を明らかにする。すなわち「信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし」と。願力は地球の引力のように常にわれらに働いているが、その働きをわれらは自覚しないで生活している。この願力自然の働きを初めて自覚することを「信心さだまりなば」というのです。「しかるを、自然ということの別にあるように、われものしりがおにいうひとそうろうよし、うけたまわる。あさましくそうろうなり」と、唯円は念仏称えながら「天然外道」を主張する異義者を厳しく批判している。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-05-15 05:40 | 歎異抄を読む | Comments(0)