人気ブログランキング |

<   2019年 04月 ( 30 )   > この月の画像一覧

 聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。

(歎異抄・後序 -53)

 「大切の証文」その二です。「善悪」とは分別知です。自分の心の善悪を分別して、悪を善にしようと努力する「断悪修善のここち」(第十六章)です。自分の心に執着し深く一体化しているから自分の心が造る災厄に巻き込まれて苦悩を受ける。自分の心が人生苦を造っている事実をしっかり認識しなくてはならない。「ただ念仏のみぞまことにておわします」とは、仏のお心を基準として自分の心を基準にしてはならないと、そう教えている。自分の心を離れること、これが悟りの体験です。仏教には「悟り」がなくてはならないが「大切の証文」は悟りの智慧を伝えている。それゆえ『歎異抄』は正統的な仏教書として成り立っている。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-04-30 05:35 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいし。

(歎異抄・後序 -52)

 「大切の証文」その一。誰に聞かせるともなく、口からもれ出てくる独り言のような言葉です。唯円はこの言葉を憶念して生きていたに違いない。だから、唯円にとっては「つねのおおせ」なのでしょう。なんとも言えずしみじみとする。わたしは「そくばくの業をもちける身にてありける」ことを知らなかった。自分が誰かがわからず苦しんだ。それを「そくばくの業をもちける身にてありける」と教えていただいたのです。この身の事実「煩悩具足の凡夫」に落ち着くことができた。まこと「本願のかたじけなさよ」。目に見えないお心を親鸞は唯円に伝え、唯円はまた親鸞の言葉を現代のわたしたちに伝えた。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」。親鸞のこのお言葉があることで『歎異抄』は「信心の書」になった。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-04-29 05:26 | 歎異抄を読む | Comments(0)

大切の証文ども

 おおよそ聖教には、真実権仮ともにあいまじわりそうろうなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちいるこそ、聖人の御本意にてそうらえ。かまえてかまえて聖教をみみだらせたまうまじくそうろう。大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせそうろうて、目やすにして、この書にそえまいらせてそうろうなり。

(歎異抄・後序 -51)

 「大切の証文」は唯円が残した親鸞の言葉の中でも最も大切な言葉であることを示すために『歎異抄』の中にはあえて収めず、「そえまいらせてそうろう」という形を取っている。編集の妙です。唯円が展開した信心の書『歎異抄』が真実であり、決して方便に堕していないことを親鸞の金言をもって担保させているのです。だから「信心とはなにか」「真実とはなにか」がわかりたければ、これを「目やす」にしろというのです。一つは「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」です。これが「信心」です。二つは「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」です。これが「信心の智慧」です。まさに「大切の証文」というに相応しく、親鸞のこの金言あるがゆえに『歎異抄』は『歎異抄』として成り立っている。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-04-28 05:10 | 歎異抄を読む | Comments(0)

順次生のさとりをいのる

 おおよそ、今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真言・法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをいのる。

(歎異抄・第十五章 -50)

 「行」とは自分の心を磨いて仏になろうという努力です。自分の心に執着して一体化しているから、煩悩をいくら磨いても仏にはならないという当たり前のことがわからない。始めから成就しようのない努力をしている。今生になにも得るものがないから、空しく「順次生のさとりをいのる」ことになる。知るべし。

 南無阿弥陀仏 

by zenkyu3 | 2019-04-27 05:04 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 上人のおおせにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる。いわれなき条々の子細のこと。

(歎異抄・中序 -49)

 「異義八ヶ条」の各章は表題をつけると内容が覚えやすい。第11章「念仏」、第12章「学問」、第13章「宿業」、第14章「滅罪」、第15章「さとり」、第16章「自然」、第17章「辺地」、第18章「施入物」。以上、参考まで。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-04-26 05:18 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

(歎異抄・第十章 -48)

 意訳すれば「念仏とは願力自然のはたらきであるから、はたらきにお任せすれば、自ずと仏への道を歩ませていただけるのである」と、そのような意味です。さて、第十六章で唯円はこう述べていました。「信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします」と。第十章の親鸞の言葉を解説したような内容です。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-04-25 05:51 | 歎異抄を読む | Comments(0)

わがこころのよくて

 これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし。

(歎異抄・第十三章 -47)

 われらは与えられてくる事実を生きている。事実を選ぶことは出来ず、生きている事実以外に「わたし」も「わたしの人生」もない。思いや感情という事実を起こしている「わたし」というものはなく、事実が起きてから「わたし」が起こしたと、後から「わたし」が出てくる。ここにトリックがある。「なにごともこころにまかせたることならば」、思いや感情を起こしたり起こさなかったり出来るはずであるが、現実にはそれは不可能だ。「わたし」という主体はないからです。それを親鸞は「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と示している。仏教の無我説です。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-04-24 05:04 | 歎異抄を読む | Comments(0)

悪人成仏のためなれば

 煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。

(歎異抄・第三章 -46)

 煩悩を「悪」といい、煩悩具足の凡夫を「悪人」という。「生死」とは自分の心のことで、不生不滅の仏心に触れると自分の心を離れるので「生死をはなれる」という。煩悩はそのままに、煩悩から離れて、煩悩から自由になることを「悪人成仏」と言うのです。「行」とは自分の心を仏にしようとする努力ですが、煩悩に騙されているから、煩悩は仏にはならないという当たり前のことがわからない。わからないから初めはみな自力の修業をする。自分の心を絶対にしたい。だから、煩悩は仏にはならないと諦めるまで努力は終わらない。よって、他力には「行」はない。捨てるのに努力はいらないからです。努力をやめる。これほど簡単なことはないが、簡単なことが一番難しい。努力をやめるとどうなるか。「煩悩具足の凡夫」という、至極あたり前の事実に落ち着く。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-04-23 05:34 | 歎異抄を読む | Comments(0)

ながく生死をへだてける

 『和讃』にいわく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまわざれば、六道に輪回すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。

(歎異抄・第十五章 -45)

 「生死」とは自分の心のこと。「生死をへだてける」とは自分の心を離れる。不生不滅の仏心に触れて自分の心を離れることを「信心のさだまるとき」という。自分の心は煩悩でできているから煩悩を滅するには死ぬしかない。だから「生死を離れる」という。離れるのだから自分の心はそのままです。しかし、仏のお心の中にあるから自分の心の影響を受けない。自分の心は外です。それを「弥陀の心光摂護して」と言ったのです。煩悩はそのままなので「かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや」と唯円は注意している。「信心さだまる」は仏道の出発点、「さとる」は仏道の到達点。二つを混同しては仏道が成り立たない。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-04-22 05:50 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといいおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みずから他力の信心かくるのみならず、あやまって、他をまよわさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあわれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

(歎異抄・第十二章 -44)

 親鸞のつねの仰せに「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(後序)とあります。唯円が「聖人のつねのおおせ」と伝える親鸞の言葉はこれだけで『歎異抄』の中でもひときわ輝いている。仏のお心と直につながるのが信心だとの仰せです。思うに、親鸞は叡山二十年の学問と修業でもって信心を得たのではない。叡山を下り、学問の道を捨てて信心を得た。知識につながっても救いはないことを身をもって証明した。だから「南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり」(第二章)。自分がかつていた場所に救いはないぞと、道に迷う弟子たちにはっきり言った。すなわち「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。それなのに「いまの世には学文して、ひとのそしりをやめ、ひとえに論義問答むねとせんとかまえられそうろうにや」と唯円は歎く。親鸞の時代、唯円の時代、それが現代であれ、どの時代の学者も知識があって信心がない。知識で救われるのではない。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-04-21 05:30 | 歎異抄を読む | Comments(2)