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 浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき。

(歎異抄・第四章 -23)

 仏でもないただの凡夫がなにをもって人を救えると思うのか。われらは善知識に出遇って信心をいただいたという経験がある。しかし、善知識から信心をいただいた訳ではない。仏にお育ていただいている善知識の凡夫の姿に仏の働きを見た。仏を見て仏を信じたのであり善知識を信じたのではない。自力宗には聖者も指導者もいるが真宗には凡夫しかいない。親鸞が身をもってそれを示しておられる。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-03-31 05:38 | 歎異抄を読む | Comments(0)

善導の金言にたがわず

 聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいしことを、いままた案ずるに、善導の、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)という金言に、すこしもたがわせおわしまさず。

(歎異抄・後序 -22)

 『散善義』に云わく、「二者深信。深心と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得と信ず」と。機の深信とは自分が誰かがわかった。法の深信とは自分が仏になることがわかった。唯円はここに二種深信のうち機の深信しか取り上げていない。このことは第十六章に「一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし」とあるように、法義をいくら学んでも廻心懺悔なくして信に入ることはないことを示唆している。機の深信こそが信心の入口であり、機の深信を学ぶために『歎異抄』がある。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-03-30 05:42 | 歎異抄を読む | Comments(0)

故聖人の御ものがたりに

 右条々はみなもって信心のことなるよりおこりそうろうか。故聖人の御ものがたりに、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおおかりけるなかに、おなじく御信心のひとも、すくなくおわしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして、御相論のことそうらいけり。

(歎異抄・後序 -21)

 二十代の半ばから四十年、ほぼ毎日『歎異抄』を読み続けている。読み始めた理由は実に簡単で「信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめてこれをしるす」(後序)と書いてあったからです。「正しい信心を明らかにする」とはっきり宣言している。このようなお聖教は他にあるでしょうか。とくに著者・唯円には「先師口伝の真信に異ることを歎き」(前序)と、具体的に異義八ヶ条を挙げ「真信に異なる」権仮方便(十九願)を厳しく糾弾しています。真実の信心(十八願)が剥き出しになった危険性ゆえに「外見あるべからず」(後序)と、著者はこの書を門外不出にする。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-03-29 05:01 | 歎異抄を読む | Comments(0)

善人なおもて往生をとぐ

 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。

(歎異抄・第三章 -20)

 心の中で考えていることは恥ずかしくて口にはできない。口にはできないことが心の中に溢れている。しかし、そんなものは心の表面のことでしかない。心の深層はもっとひどい。智慧光は心の深層を照らす。悪性を見れば善人ではいられない。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-03-28 05:35 | 歎異抄を読む | Comments(0)

あやまって学問して

 学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく。あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。

(歎異抄・第十二章 -19)

 仏教は哲学ではない。学問は人の心を救わない。救われるとはなにか。自分の心に縛られて自分が誰かもわからなくなった。だから、救われるとは自分の心から自由になる。自由とは離れる。自分の心を否定するのではない。肯定するのでもない。否定も肯定も執着であるから、ただ離れる。離れるから自分の心が見える。自分の心が見えて救われる。この体験が仏教であり、体験するのに学問はいらない。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-03-27 05:05 | 歎異抄を読む | Comments(2)

 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

(歎異抄・第一章 -18)

 『観経』(第九真身観)に云わく、「一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。その光明・相好および化仏、具に説くべからず。但、当に憶想して、心眼をして見せしむべし。この事を見れば、すなわち十方一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもってのゆえに念仏三昧と名づく」と。仏がわたしをみそなわす。その瞬間、わたしは仏の眼になる。仏の方からわたしが見える。仏のお心の中にわたしを発見する。これが「摂取不捨」という信体験です。地球全体が大気に包まれているようにわたしは仏のお心という大気の中に生活している。そのご利益は「往生の生活」であり、智慧のお育てを受けて仏への道を歩ませていただいている。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-03-26 05:31 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

(歎異抄・第一章 -17)

 闇の中に光を見る。針の先ほどの光でも光は光、光があるということを知った。そうすれば光に向かって歩いていける。闇とは煩悩であり、光とは智慧です。智慧とは仏であり、成仏とは智慧の完成です。十八願に云わく、「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ」と。すなわち、「往生をばとぐるなりと信じて」とは欲生我国であり、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」とは乃至十念です。信の一念に智慧が生じて成仏が定まった。これを「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」という。第一章は十八願そのままの展開です。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-03-25 05:35 | 歎異抄を読む | Comments(0)

 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

(歎異抄・第一章 -16)

 第一章は信仰の入口です。「救われない」という深い自覚があればこそ「たすけられまいらせて」という信仰上の救済がある。自分ではどうすることもできないから「助けてください」とすがる。しかし「助けてください」とは死んでも言えないものです。死んでも言えないことが言えたから「たすけまいらせて」ということが起きたのでしょう。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-03-24 05:07 | 歎異抄を読む | Comments(0)

古親鸞のおおせごと

 これさらにわたくしのことばにあらずといえども、経釈のゆくじもしらず、法文の浅深をこころえわけたることもそうらわねば、さだめておかしきことにてこそそうらわめども、古親鸞のおおせごとそうらいしおもむき、百分が一、かたはしばかりをも、おもいいでまいらせて、かきつけそうろうなり。

(歎異抄・後序 -15)

 唯円は親鸞の言葉を口述筆記したわけではない。自らの信心の深まりにしたがって故親鸞の言葉を何度も何度も思い出し、生涯にわたって何度も何度も聞き直していたに違いない。師匠の言葉とはそういうものです。そして、今も信心の要となっている言葉を「耳の底にとどまるところ、いささか之をしるす」(前序)といってまとめたのが『歎異抄』だったのでしょう。だから、なにも今さら過去の記憶を手繰り寄せて回顧録を書いたというわけではない。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-03-23 05:34 | 歎異抄を読む | Comments(0)

苦悩の旧里はすてがたく

 久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。

(歎異抄・第九章 -14)

 肉体に縛られた心は死を恐れる。肉体と一体化しているので肉体ととも死ぬと思っているからです。しかし、もとより心は形がない。形のないものは不壊であるから死ぬということがない。そもそも生まれたということがないから死ぬということがない。肉体に縛られていた心が信の一念に肉体から解脱すれば心は不生不滅を自覚する。それゆえ、不死を自覚した心は肉体の死とともに仏になる。元々仏だから必ず仏になる。必至滅度を親鸞は「かの土へはまいるべきなり」と表現しているのです。浄土の往生は「無生の生」であるから改めて生まれる場所などないが、浄土の方便をもって仏教の真実を伝えようとしている。

 南無阿弥陀仏 

by zenkyu3 | 2019-03-22 05:15 | 歎異抄を読む | Comments(0)