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精神主義 3

 精神主義は自家の精神内に充足を求むるものなり。故に外物を追ひ他人に従ひて、為に煩悶憂苦することなし。而して其の或は外物を追ひ、他人に従ふ形状あるも、決して自家の不足なるが為に追従するものたるべからず。精神主義を取るものにして、自ら不足を感ずることあらんか、其の充足は之を絶対無限者に求むべくして、之を相対有限の人と物とに求むべからざるなり。

(清沢満之『精神主義』3/11)

 満たされない心は外に物質的な満足を求めて心の空洞を埋めようとする。いずれ泡のように消えてしまうもののためにあなたは人生を浪費している。なによりそのことに気づいていない。生きていることの空しさ、やがて来る死の恐怖に対してまったく無力で、ただ流されるがままに死の滝壷に落ちて行く。それは誰の問題でもない。あなた一人の問題だ。

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2019-02-28 05:39 | 清沢満之に学ぶ | Comments(0)

精神主義 2

 此の如き無限者の吾人精神内にあるか、精神外にあるかは、吾人一偏に之を断言するの要を見ず。何となれば彼の絶対無限者は、之を求むる人の之に接する所にあり。内とも限るべからず、外とも限るべからざればなり。吾人は只だ此の如き無限者にせざれば、処世に於ける完全なる立脚地ある能はざることを云ふのみ。而して此の如き立脚地を得たる精神の発達する条路、之を名けて精神主義と云ふ。

(清沢満之『精神主義』2/11)

 この肉体はわたしではない。わたしは物質で出来ているわけではないからです。よって、肉体の要請は本質的なことではない。肉体を維持するためだけの人生で終われば、それはなんら本質的な生き方ではない。心の奥の方から、気づけよ、気づけよとあなたを呼ぶ声がある。あなたはすっかり忘れているかも知れないが、心はあなたを一度も忘れたことがない。

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2019-02-27 05:34 | 清沢満之に学ぶ | Comments(0)

精神主義 1

 吾人の世に在るや、必ず一つの完全なる立脚地なかるべからず。若し之なくして、世に処し、事を為さむとするは、恰も浮雲の上に立ちて技芸を演ぜんとするものゝ如く、其の転覆を免るゝ事能はざること言を待たざるなり。然らば吾人は如何にして処世の完全なる立脚地を獲得すべきや。蓋し絶対無限者によるの外ある能はざるべし。

(清沢満之『精神主義』1/11)

 物質的な満足を得ても心が満たされないのは、それが本当に求めている生活ではないと心が感じるからでしょう。家族と平和に暮らしていても、ここは自分がいるべき本当の場所だろうかと感じてしまう。生まれてきた理由を探すのも生まれる前を心が知っているからではありませんか。わたしは誰か。なぜ、いま、ここにいるのか。この問いに答えが見つからなければ、心はいつまでも惨めなままです。

 南無阿弥陀仏  

 ※精神主義は満之が唱えた主義。明治における文明開化主義の物質万能の功利性にたいして、満之自身が人生に処する態度を明らかにした言葉。この論文は明治三十四年二月雑誌「精神界」に発表されたものである。(東本願寺刊『清沢満之の精神主義』より)

 ※本文は東本願寺刊『清沢満之の精神主義』より引用させていただきました。善及

by zenkyu3 | 2019-02-26 05:36 | 清沢満之に学ぶ | Comments(0)

独立者

絶対他力の大道 7

 七 独立者は常に生死巌頭に立在すべきなり。殺戮餓死固より覚悟の事たるべし。既に殺戮餓死を覚悟す。若し衣食あらば之れを受用すべし。尽くれば従容死に就くべきなり。而して若し妻子眷属あるものは、先ず彼等の衣食を先にすべし。即ち我が有る所のものは我を措いて先ず彼等に給与せよ。その残る所を以て我を被養すべきなり。ただ我死せば彼等如何して被養を得んと苦慮すること勿れ。此には絶対他力の大道を確信せば足れり。斯く大道は決して彼等を捨てざるべし。彼等は如何にかして被養の道を得るに到るべし。若し彼等到底これを得ざらんか、是れ大道彼等に死を命ずるなり。彼等之を甘受すべきなり。ソクラテス氏曰く、我セラリーに行きて不在なりしとき、天、人の慈愛を用いて彼等を被養しき。今我れ若し遠き邦に逝かんに、天、豈に亦た彼等を被養せざらんやと。

(清沢満之『絶対他力の大道』7/7)

 量深師の教えを仰ぐ。「成仏といっても、問題は阿毘跋致(不退の位)である。不退の位は現生になければならぬ。人間に生まれたならば、人間の現生に於て正定聚不退転を得ることは、聖道門であれ浄土門であれ必要なことに違いない」(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」61ページ) と。満之は文中、真宗用語を一切使っていないが、伝えていることは「不退の位」のことです。文字通りの自己との血みどろの格闘の末、信を確立した。我の強い人だから闘いは熾烈にならざるを得ない。その勝利宣言とも言うべき言葉が第一節冒頭の「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり」であり、本節の「独立者は常に生死巌頭に立在すべきなり」なのでしょう。この宣言をもって満之の生涯は閉じてしまったが、それは新しい人生の始りでもあった。(『絶対他力の大道』を読む・終わり)

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2019-02-25 05:24 | 清沢満之に学ぶ | Comments(0)

修養の方法

絶対他力の大道 6

 六 何をか修養の方法となす。曰く、すべからく自己を省察すべし、大道を知見すべし。大道を知見せば、自己に在るものに不足を感ずることなかるべし。自己に在るものに不足を感ぜざれば、他にあるものを求めざるべし。他にあるものを求めざれば、他と争ふことなかるべし。自己に充足して、求めず、争はず、天下、何れの処にかこれより強勝なるものあらんや、何の処にか之れより広大なるものあらんや。かくして始めて人界にありて、独立自由の大義を発揚し得べきなり。此の如き自己は、外物他人のために傷害せらるるものに非ざるなり。傷害せらるべしと憂慮するは、妄念妄想なり。妄念妄想は之れを除却せざるべからず。

(清沢満之『絶対他力の大道』6/7)

 第四節で、満之は「蓋し爾自ら不足ありと思ひて苦悩せば、爾は愈々修養を進めて、如来の大命に安んずべきことを学ばざるべからず」と、信心の道を示した。それを受け、本節では「何をか修養の方法となす」かと。すなわち「すべからく自己を省察すべし」と「内観の念仏」を勧めている。内観とは仏の眼でもって自分の心を見ることです。内観を実践すれば「大道を知見すべし」。仏の方からわたしが見える。わたしが見えれば「自己に在るものに不足を感ずることなかるべし」。自らの境遇を宿業と受け入れて、なんの疑いもない。「かくして始めて人界にありて、独立自由の大義を発揚し得べきなり」と、満之は自ら経験したことを克明に記録している。一切の饒舌を排した満之の文章からは信を確立するまでの血の出るような格闘の日々が伝わってくる。

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2019-02-24 05:21 | 清沢満之に学ぶ | Comments(0)

自分の禀受

絶対他力の大道 5

 五 無限他力、何れの処にかある。自分の禀受において之を見る。自分の禀受は無限他力の表顕なり。之を尊び之を重んじ、以て如来の大恩を感謝せよ。然るに自分の内に足るを求めずして、外物を追い、他人に従い、もって己を充たさんとす。顛倒にあらずや。外物を追ふは貪慾の源なり。他人に従ふは瞋恚の源なり。

(清沢満之『絶対他力の大道』5/7)

 量深師の教えを仰ぐ。「宿業は、ただ宿業と成り立たぬものであって、宿業は、如来の本願に乗託し如来の本願に救われておる所に、救わるべからざる自己を発見する。救わるべからざる宿業の自己を見出だしたことは、救いを得ている証拠である」(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」239ページ)と。与えられた境遇を「宿業」と受け入れるところに本当の心の自由がある。自分に求め、人生に求める心にすれば、自分と人生を諦めることは死ぬに等しい。だから、一度は心に死んで、すでになに不足なく与えられていたことに気づけば、そこに新しい人生が開けてくる。

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2019-02-23 05:18 | 清沢満之に学ぶ | Comments(0)

爾の苦悩

絶対他力の大道 4

 四 請ふ勿れ、求むる勿れ、爾、何の不足かある。若し不足ありと思はゞ、是れ爾の不信にあらずや。如来は爾がために必要なるものを、爾に賦与したるにあらずや。若し其の賦与において不充分なるも、爾は決して此れ以外に満足を得ること能はざるにあらずや。蓋し爾自ら不足ありと思ひて苦悩せば、爾は愈々修養を進めて、如来の大命に安んずべきことを学ばざるべからず。之を人に請ひ、之を他に求むるが如きは、卑なり、陋なり。如来の大命を侮辱するものなり。如来は侮辱を受くることなきも、爾の苦悩を奈何せん。

(清沢満之『絶対他力の大道』4/7)

 満之は言う、「請ふ勿れ、求むる勿れ、爾、何の不足かある」と。すでに何の不足もなく与えられている境遇に対して不足を訴えることを「人生問題」という。あたかも人生の被害者のように自ら思い振る舞っているが、なにも問題のないところに問題を起こしているのです。「だから、蓋し爾自ら不足ありと思ひて苦悩せば、爾は愈々修養を進めて、如来の大命に安んずべきことを学ばざるべからず」と。これが仏教です。問題を解決するのではない。元々、問題などなかったと知れと、そう満之は言う。人生とはどんなものだと思ったかは知らないが、いま置かれている境遇以外にどんな人生があったというのだろうか。

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2019-02-22 05:14 | 清沢満之に学ぶ | Comments(0)

生死以外に霊存するもの

絶対他力の大道 3

 三 我等は死せざる可からず。我等は死するも尚ほ我等は滅せず。生のみが我等にあらず。死も亦た我等なり。我等は生死を並有するものなり。我等は生死に左右せらるべきものにあらざるなり。我等は生死以外に霊存するものなり。然れども生死は我等の自由に指定し得るものにあらざるなり。生死は全く不可思議なる他力の妙用によるものなり。然れば我等は生死に対して悲喜すべからず。生死尚ほ然り。況んや其の他の転変に於てをや。我等は寧ろ宇宙万化の内に於いて彼の無限他力の妙用を嘆賞せんのみ。

(清沢満之『絶対他力の大道』3/7)

 量深師の教えを仰ぐ。「信心の智慧は、無生法忍をさとるのが信心の智慧である。生死は肉体にある。我々の心は無生無滅のものである。心が物の奴隷になっていると、心も身体と同じ様に生も死もあるが、心が独立して身体を支配することが出来るなら無生無滅である、それを無生法忍という」(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」95ページ)と。

 さて、文中で満之が「我等は生死以外に霊存するものなり」と言っているのは「無生無滅の仏心」のことです。「我等は死せざる可からず」というは肉体のことであり、「我等は死するも尚ほ我等は滅せず」というは仏心のことです。色や形のある物質(肉体)は生滅を避けられない。しかし、仏心は色も形もないので生滅がない。無生無滅の仏心がそれぞれの身の上に現れて「信心」となるのです。満之はすでに仏心に立っているので「我等は生死に左右せらるべきものにあらざるなり。我等は生死以外に霊存するものなり」と、その信心を表明した。

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2019-02-21 05:08 | 清沢満之に学ぶ | Comments(0)

宇宙万有の千変万化

絶対他力の大道 2

 二 宇宙万有の千変万化は、皆な是れ一大不可思議の妙用に属す。而して我等はこれを当然通常の現象として、毫も之を尊崇敬拝するの念を生ずることなし。我等にして智なく感なくば、即ち止む。苟も智と感とを具備して、此の如きは、蓋し迷倒ならずとするを得むや。一色の映ずるも、一香の薫ずるも、決して色香其の者の原起力に因るに非ず。皆な彼の一大不可思議力の発動に基づくものならずばあらず。色香のみならず、我等自己そのものは如何。其の従来するや、その趣向するや、一も我等の自ら意欲して左右し得る所のものにあらず。ただ生前死後の意の如くならざるのみならず、現前一念における心の起滅、また自在なるものにあらず。我等は絶対的に他力の掌中に在るものなり。

(清沢満之『絶対他力の大道』2/7)

 善導の『散善義』に云わく、「二者深信。深心と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得と信ず」と。信心を説けば必ず「二種深信」になる。「絶対他力の大道」は七つの短い文章で構成されている。満之は真宗用語をまったく使わないが、説かれていることは「二種深信」です。機と法、わたしと仏の二つがはっきりする。わたしとは「罪悪生死の凡夫」であり、「罪悪生死の凡夫」と解ったことがすなわち仏です。

 さて、第二節ですが、文中に「其の従来するや、その趣向するや、一も我等の自ら意欲して左右し得る所のものにあらず」とあります。これが「出離の縁あることなし」です。われらはまさに「宇宙万有の千変万化」の一部で、なに一つとっても意志の自由になるものはない。「生前死後の意の如くならざるのみならず、現前一念における心の起滅、また自在なるものにあらず」と。つまりは「罪悪生死の凡夫」とは「宿業の自覚」であったのであり、「すべては宿業である」と「此の現前の境遇」を素直に受け入れるところに本当の心の自由が開けてくる。これが「二種深信」の主旨であったのであり、満之も「絶対他力の大道」と題されたこの文章でこれを伝えようとしている。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-02-20 05:05 | 清沢満之に学ぶ | Comments(0)

此の現前の境遇

絶対他力の大道 1

 一 自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。只だ夫れ絶対無限に乗託す。故に死生の事、亦た憂ふるに足らず。死生尚ほ且つ憂ふるに足らず、如何に況んや之より而下なる事項においてをや。追放可なり。獄牢甘んずべし。誹謗擯斥許多の凌辱豈に意に介すべきものあらんや。我等は寧ろ、只管絶対無限の我等に賦与せるものを楽しまんかな。

(清沢満之『絶対他力の大道』1/7)

 わたしは誰か。これがわからない。満之は言う。「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり」と。「絶対無限の妙用」とは「本願力」のこと。「絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾に」だから、「自分は誰か」と探し求めて、求めに求めて求め疲れ、疲れ果てて、「自分が誰かなど分かるはずもない」となった時、はからずも「仏の方から自分が見える」ということが起きる。それが「任運に法爾に」ということ。なに、他に求め回らなくても、いま、このまま、ありのままの事実のそのままが「自己」を証明している。今、現に与えられているところの「此の現前の境遇」以外に「自己」などないと決着した。「此の現前の境遇」を受け入れると同時に「此の現前の境遇」を超越した。だから、満之は「死生の事、亦た憂ふるに足らず」とはっきり言えた。満之は真宗用語を一切使っていないが、この短い文章は実に簡潔に「機の深信」を伝えている。

 南無阿弥陀仏  

 ※「絶対他力の大道」は、満之の日記「臘扇記」(明治三十一年八月起筆、同三十二年四月擱筆)に記されていたものを整理してまとめ、明治三十五年六月「精神界」に上記の題で発表されたものである。(東本願寺刊『清沢満之の精神主義』より)

 ※本文は東本願寺刊『清沢満之の精神主義』より引用させていただきました。善及

by zenkyu3 | 2019-02-19 05:17 | 清沢満之に学ぶ | Comments(0)