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一文不知

 何も解らぬ愚かな者であることを、それを知ることが信というものだ。自分が一文不知であることを知ることは、自分を無条件に信ずる。無条件に自分を信ずるという心が即ち如来を信ずる。如来を信ずることによって自分の分に安んずることを知らして頂く。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」181ページ) 

 『御文』に云わく、「それ、八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを智者とすといえり」と。人と生まれてきて、どうしても知りたいことがある。それさえ知れば、後はいつ死んでもいい。それを教えてくれる人があるなら命を差し出してもいい。心に余裕があって、世間のことに心引かれているうちは聴聞ではない。肝心なことは何も知らぬ愚かな者であるという深い懺悔なくして仏の前に出ることはできない。

 南無阿弥陀仏   
by zenkyu3 | 2019-01-31 05:20 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

信の一念

 乃至一念の信の一念のその時に、如来は一切の功徳を南無阿弥陀仏と我等にふり向けて下さる。“一念せん”と切ってしまうのだが、一念の時に南無阿弥陀仏の主となる。それであるから彼の国に生ぜんと願ずる。彼の国(浄土)に生ぜんと願ずれば、その時に(同時に)彼の国に生るることを得。そして命あらん限りその生活は往生の生活に於て不退転である。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」67ページ) 

 『本願成就文』に云わく、「諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん」と。求めるものがわかったから求めるということが成り立つ。だから、得生が願生であり、願生するは得生したことの証拠です。また、闇の中で一点の光を見たら、誰であろうと光に向かって歩き出す。目的地がわからずに歩き出す人はいない。だから、信を得たことを不退転という。

 南無阿弥陀仏    
by zenkyu3 | 2019-01-30 05:57 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

不断煩悩得涅槃

 妄念妄想があっても、本願の功徳である涅槃の心境を障えることは出来ない。涅槃の静かな心境は、生きている中にそういう境地がいつも自分の中にあって、どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない。煩悩を断ぜずして涅槃を得という静かな何ものにも障えられない境地がある。それを現在の生活の上に経験することができる。それが仏からたすけられたということである。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」96ページ) 

 『論註』に云わく、「荘厳清浄功徳成就は、偈に観彼世界相 勝過三界道のゆえにと言えり。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得れば、三界の繫業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得、いずくんぞ思議すべきや」と。浄土とは仏のお心のことです。仏のお心に照らされて煩悩が見えている心の状態を摂取不捨とも往生ともいいます。煩悩が見えるのはすでに煩悩を離れて仏のお心に立っているからです。煩悩具足のこの身から心が離れて煩悩の影響を受けない状態を「三界の繫業畢竟じて牽かず」といいます。

 南無阿弥陀仏   

by zenkyu3 | 2019-01-29 05:18 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

柔和忍辱の心

 心の中に満足があるから不平がない。野心がないから、人が自分をいじめたり困らせるようなことをしても、有難うございます-と。それを柔和忍辱の心という。口惜しいけど我慢する-それは忍辱行ではない。心に不平不満がないから、どんなに迷惑を受けても人の言いなりになっておるけれども、自分の主体性をちゃんと維持している。主体性を失うことはない。犯されることはない。犯すことも出来ない。そういう厳粛な主体性、それが忍辱行だ。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」141ページ) 

 『歎異抄』に云わく、「信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし」と。すべてのことは過ぎていく。生まれたように見えても、空に浮かんだ雲のように少しずつ形を変えながら、やがて気づけば消えてなくなっている。同じように、頭に湧いた思いや感情も手を出さずに放って置けばやがて消えてなくなっていく。消えてなくならないものはない。生まれたように見えてもなにも生まれていない。生まれていないから死んだということもない。ただ変わっていく。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-01-28 05:32 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

不退の位

 成仏といっても、問題は阿毘跋致(不退の位)である。不退の位は現生になければならぬ。人間に生まれたならば、人間の現生に於て正定聚不退転を得ることは、聖道門であれ浄土門であれ必要なことに違いない。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」61ページ) 

 『論註』に云わく、「謹んで龍樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに、云わく、菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。(中略)易行道は、いわく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり」と。不退転とは煩悩が見える。見えるとは離れる。離れるから煩悩の影響を受けない。煩悩の影響を受けないことを実地に経験すれば、いつでも煩悩を離れることができる。この経験をもって仏位に入る。

 南無阿弥陀仏  
by zenkyu3 | 2019-01-27 05:16 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

自信教人信

 念仏は人を通して生きている。人を離れて生きていることはない。念仏は皆平等であるが、信心は一人一人に引き受ける。本願を信じた人は、十方衆生とおっしゃるのを自分一人に引き受ける。自分に引きかけてお話なさるから聞く人が自分に引きかけて聴聞する。-これを自信教人信という。どこまでもどこまでも自分の信心を完成してゆくことが自ら教人信になる。教人信を目的としているのでない。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」190ページ) 

 『往生礼讃』に云わく、「仏世はなはだ値い難し、人信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。自ら信じ人を教えて信ぜしむ、難きが中に転た更難し。大悲、弘く普く化する、真に仏恩を報ずるに成る」と。わたしたちは人に教えられたくない。だから、善知識は口で教えを説かない。法を聞く身に置いて仏を拝む。わたしたちは仏を拝む善知識の背中を見て教えを受けてきた。

 南無阿弥陀仏   
by zenkyu3 | 2019-01-26 05:32 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 10

 三界、何に依って起こるや。各自の業により起こる。今見るが如き人間世界は自分の業より顕われたり。地獄界へ往けば、その人の業から地獄界が顕われ、天上界へ生ずれば、その人の業から天上界が顕わるること、鏡中の影の如し-と聞くにつけても、未来、いかなる影を映写するや。六道はわが心の影なり。経には「三界は唯だ一心なり。心の外に別の法なし」と釈尊説き置き給えるものを。惶るべきはわが心なり。げに憑むまじきはわが心なり。六道に生ずるにあらず。わが心、六道を生ずるなり。わが心、三界を生じて、その中にわが心住するなるぞかし。明け暮れにただ善悪二業を作り、寝ても覚めても善心・悪心を起こす。善心・善業より悪趣あらわれて、わが身をその間に置く時もあり。あらわすものはわが心なり。あらわすものはわが心なり。そもそも、いかにせば三界・六道・二十五有の迷城をあらわすことなきに至るべきか。わが心に頼みてなりとも、忘るまじきはただ念仏せよの御一言。

(野田明薫『先師の言葉』84-5)

 『二河白道』に云わく、「また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。竹内先生はこのところをよく暗唱された。法を聞くことにすっかり馴れて求めることを忘れてしまっているお弟子さんを叱っているのです。しかし、耳なれ雀になってしまったらもう法は聞こえない。機の深信がなくなっているからです。以上で「邪師・邪教・邪思惟を離れる事」を終わります。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-01-25 05:51 | 先師の言葉から | Comments(0)

今生限りのことなり

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 9

 今生の間こそ保護者も後援者もありたれ。今生の間こそ妻子を頼りにし財宝を力ともして、とにもかくにも過ごしたれ。いよいよ、それにもこれにも別れては只の一人となりて、無限無限の世界々へ、あてどもなくゆくえも知れず、紛れ行くこそ悲しけれ。親子というも今生限りのことなり。妻子・兄弟・夫婦というも今生限りのことなり。知音・近付きというも今生限りのことなり。人間同志の交際というも今生限りのことなり。いま今生を離れては、そも何を頼りにし、なにを力とせん。世界は無限と聞く。時も無限と聞く。知るに由なく施すに術なし。いかがはせん、いかがはせん。この時に当って、言うべからざる寂寥生じ、極まりなき恐怖起こる。大師の『散善義』に曰く「無人空迥の沢というは、即ち、常に悪友に随って、真の善知識に値わざるに喩うるなり」とあり。

(野田明薫『先師の言葉』84-4)

 『二河白道』に云わく、「この人すでに空曠の迥なる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競い来りてこの人を殺さんと欲す」と。われらの回りにいるのは煩悩の毒に狂った群賊悪獣であり、正気の人はいない。誰一人仲間となる者はない。これを「只一人」という。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-01-24 05:22 | 先師の言葉から | Comments(2)

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 8

 家内・眷属と申すも束の間の夢でこそあれ。その内には一人死し二人死して、やがては散り散りに別れ行き、ついにはかいくれ知れずになり果てても、悲しむものもなければ、別に怪しむ者もなしという有様なり。無始・無終に亘りて真の一人にてある面々が、ある因縁によって結びつけられ、一家団欒の楽しみも夢を過ぎ、因縁尽きぬれば散り散りになりて、各々に元の真の一人に立ち還るなり。あわれさ言わん方なし。わびしさ言語に絶えたり。思いしれや、わが身は今日も過去も未来も真の只一人なることを。天地の間に真の只一人にてあるところのわが身には、頼る処もなく、縋る処もなく、只見る「浩々茫々」たる無辺際なる世界の中に放たれたる一塵埃の如し。身寄りも更にあらざれば、一人として知己あることなし。

(野田明薫『先師の言葉』84-3)

 『大経』(下巻)に云わく、「人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来りて、行に当り苦楽の地に至り趣く。身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし」と。「真の只一人なる」ことの恐ろしさから逃げ回っているうちにやがて死がやってくる。「独生独死独去独来」、死を前にすれば誰もがそれを知るが、それでは遅い。平生に「真の只一人なること」を知れ、と明薫師は教えている。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-01-23 05:38 | 先師の言葉から | Comments(0)

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 7

 闇から闇への一人旅は死して彼の世ばかりのことにあらず。今日、現在がやはり一人旅の最中なり。不慮の縁に逢着するひとも逢着せざる人も、やはり独り旅寝の草枕。人生五十年を一夜として、当ても果てしもなく、旅路を急ぐ孤客なりしことを確かめん。自身は永遠に自身にして、他は悠久に他なることも、世の諸人の過去・今生・未来が面々各々に絶対に孤立せる如くに、吾れもまた絶対に孤立せるものなることをも、いよいよ確実にせん。してみれば、わが身は無始の昔より真の一人にして、無終の末かけて真の一人なり。この真の一人の運命やいかに。いずくよりいずくへ往かんとする者ぞ。「世間悤悤として憀頼すべきものなし」。父母・妻子・兄弟・親族ありといえども、いま出立となったら、わが手となり足となる者あることなし。方角立たず行方も定めぬ旅路に「身独空立」と、只一人なるべし。いざ出立とならずとも、今日・只今が只一人なるべし。

(野田明薫『先師の言葉』84-2)

 『大経』(下巻)に云わく、「身独り空しく立ちてまた依るところなし。寿命終わり尽きて諸悪の帰するところなり」と。竹内先生はよく言われた。「仏は一人一人救う。決して、まとめて救うのではない」と。一人になるのは寂しい。だから、世間の喧騒に紛れて孤独を忘れようとする。仲間との繋がりを求め、組織や集団に媚び諂う。家族をつくれば寂しくないかと思えば、家族といても寂しい。「身独空立」はこの身の事実、仏と出遇うまでは存在することの寂しさ、空しさは決して癒えない。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-01-22 05:28 | 先師の言葉から | Comments(2)