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安楽国に生まれんと願ず

 『浄土論』に曰わく、世尊、我一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生まれんと願ず。かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし、とのたまえり。

(教行信証・真仏土巻「浄土論」引用部分)

 形ある世界は生滅を繰り返す。これを無常という。形がない世界は生滅がない。これを常という。形がないから空間としては無辺際、時間としては永遠です。これを「虚空」という。世界のあり方としては、すべては無常であるが、無常でありながら、どれほど変化しても「変化しないという本質」を失わないから無限に変化することができる。世界はこのような在り方をしている。無常敗壊の身を持つわれらは無常の世界しか知らないが、それは世界の一面しか見ていない。無常だけを見れば死に至る闇しかない。しかし、常を見れば不生不滅の世界、すなわち涅槃の光を見る。『浄土論』に「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」とは、天親菩薩は有相を超えた無相を見た。無相を見たので「世尊、我一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生まれんと願ず」と、初めて真実の帰依が生じた。これを菩薩初地の不退転地という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-10-31 05:18 | 教行信証のこころ | Comments(0)

未証浄心の菩薩

 「未証浄心の菩薩」とは、初地已上七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよく身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作す。かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず。作心をもってのゆえに、名づけて「未証浄心」とす。この菩薩、安楽浄土に生まれて、すなわち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見るとき、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し、と。龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生まれんと願ずるは、当にこのためなるべしならくのみと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 八地以上の大菩薩と、初地以上七地以前のもろもろの菩薩の違いを「作心をもってのゆえに」と端的に示している。信の一念に智慧をいただく。いただいた智慧あるゆえに仏になるということがどういうことかが分かる。それあるがゆえに、信の一念に初地不退の仏道に入るというのです。わずかな智慧の感触を確かめながら念仏するのが信後の念仏相続の始りです。「かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず」。初地以上七地以前の菩薩はまだ念仏三昧に入りきっていない。努力して仏のお心を思い出すからです。信の一念にいただいた智慧が念仏のお力によって深まり、智慧の働きが自在に働くようになるにつれ、努力しなくても念仏が称えられるようになる。ついには念仏に努力がなくなって、いつ、どこで、なにをしていても、仏のお心が離れなくなる。それを「念仏三昧に入る」とも「安楽浄土に生まれる」ともいいます。七地沈空の難という信仰の危機を乗り越えて、やがて菩薩八地の教化地に入る。それゆえに「龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生まれんと願ずる」と。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2018-10-30 05:23 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 「荘厳主功徳成就」は、「偈」に「正覚阿弥陀 法王善住持」のゆえにと言えり。これいかんが不思議なるや。正覚の阿弥陀、不可思議にまします。かの安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや。「住」は不異不滅に名づく、「持」は不散不失に名づく。不朽薬をもって種子に塗りて、水に在くに蘭れず、火に在くに燋がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし。何をもってのゆえに。不朽薬の力なるがゆえなり。もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意「三界に生まれて衆生を教化せん」と願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑生の火の中に生まるといえども、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず。何をもってのゆえに。正覚阿弥陀の善く住持を径るをもってのゆえにと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 「もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば」とは、念仏の行者が念仏三昧に入ったことを示しています。念仏三昧に入れば自利成就して「三界に生まれて衆生を教化せん」と願うので、これを菩薩八地の教化地というのです。また、「浄土の命を捨てて願に随いて生を得て」とは利他のための自利成就であることを示し、「三界雑生の火の中に生まるといえども」とは、教化の中にあっても念仏三昧が失われることがないことを教えています。これを喩えて、すなわち「不朽薬をもって種子に塗りて、水に在くに蘭れず、火に在くに燋がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし」と。このことから「ひとたび安楽浄土に生ずれば」とは、すなわち念仏三昧に入ったことを表し、念仏三昧に入るから菩薩八地の教化地といい、八地以上の大菩薩を還相の菩薩というのだということです。われらは菩薩の修行などしたことはないが、不思議の本願のお力により、このような功徳をいただく身にしていただけるのです。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-29 05:12 | 教行信証のこころ | Comments(0)

歎異抄・第十章(4)

 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

(歎異抄・第十章)

 『御消息』に云わく、「無上仏ともうすはかたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめて弥陀仏とぞききならいて候う。みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなり」と。(『末燈鈔』第五通より一部抜粋)

 『自然法爾章』は、正嘉二(1258)年十二月十四日、親鸞八十六歳のおり、関東から上京した弟子の顕智が、善法坊僧都御坊、三条富小路の坊にて、いくつかの疑問点についてお尋ねし、それについてのお答えを、顕智が聞き書きしたものです。目に見えない智慧の働き「不可称不可説不可思議」が自在に働きだせば、すべてをお任せしてなんの疑いもない。「この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり」。すべての議論が終わった。問いはない。疑いもない。行き着くべきところに行き着いた親鸞の最晩年の心境を伝えています。この『御消息』を唯円も読んでいたことでしょう。これで前半の「御物語十か条」を終わります。

 南無阿弥陀仏

*9月18日~31回

by zenkyu3 | 2018-10-28 05:25 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十章(3)

 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

(歎異抄・第十章)

 『御消息』に云わく、「他力と申すことは、弥陀如来の御ちかいの中に、選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを、他力と申すなり。如来の御ちかいなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人のおおせごとにてありき。義ということは、はからうことばなり。行者のはからいは自力なれば、義というなり。他力は、本願を信楽して往生必定なるゆえに、さらに義なしとなり」と。(『親鸞聖人血脈文集』第一通より一部抜粋)

 「はからいなし」とはどういうことかといえば、信の一念にいただいた智慧が長い念仏生活の末、自在に働きを現し出すようになると、仏のお心を思い出すのに努力がいらなくなる。いつ、どこにいても、なにをしていても仏のお心が離れないからです。つまり、親鸞が「憶念の心つねにして」(冠頭讃)と讃えた念仏三昧に入る。これを「はからいなし」といいます。また、「不可称不可説不可思議」とは、測ることができない、説くことができない、思うことすらできないということで、「形がない」「目に見えない」ことを表し、智慧の働き、仏力、仏心のことをいいます。よって、第十章を意訳すると「念仏に努力はいりません。仏が称えさせてくださるからです」となりますが、さらに踏み込んで「わたしがないのが念仏です。仏が称える念仏だから」と読めば第十章の趣旨がよりはっきりする。第十章の眼目は「念仏三昧」だからです。念仏三昧は念仏の極まり、自利の成就であり、菩薩八地の教化地に入ることです。この書の作者は「無義をもって義とす」を第十章にもってくることで仏道の到達点を示したのです。

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2018-10-27 05:08 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十章(2)

 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

(歎異抄・第十章)

 前十章中、第二章と第九章がとくに長文で際立っている。第二章は「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と、親鸞自ら、法然からの南無阿弥陀仏の相承を語ったもので、対面する関東の弟子たちを圧倒して迫力がある。唯円はこの時初めて親鸞を見た。また、第九章は「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と、これは親鸞に信心を認めてもらった感動を唯円自身が伝えるものです。思えば、前序に「幸いに有縁の知識に依らずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや」とあるが、第二章は法然から親鸞へ、第九章は親鸞から唯円へと法が伝わったことを明らかにするものです。仏心は人から人へと伝わる。この世に生まれて師をもつ喜びにまさるものはない。

 南無阿弥陀仏  


by zenkyu3 | 2018-10-26 05:46 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十章(1)

 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

(歎異抄・第十章)

 前半の「御物語十か条」の最終章です。前十章を俯瞰すると、第一章は「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」、すなわち信の一念に浄土の門が開いて念仏の行者が浄土に向けて歩みだす。仏道の入口です。第七章は「無碍の一道」、智慧の念仏に育てられながら仏への道を歩み続ける仏道の途中です。そして、第十章が「無義をもって義とす」、一切にはからいのない安楽、仏道の到達点です。この三章をもって仏道の全体を明らかにしています。さらに細かく見れば、教行信証の四法からして、第一章は「教」、第二章は「行」、第三章は「信」、そして、第四章、第五章、第六章は「証」に配当される。また、続く第七章、第八章、第九章は「悪をもおそるべからず」の現生不退の内面を明らかにし、第十章に仏道の到達点を示した。実によく考えられている。

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2018-10-25 05:05 | 歎異抄を読む | Comments(0)

このゆえに常とす

 また言わく、善男子、一切有為はみなこれ無常なり。虚空は無為なり、このゆえに常とす。仏性は無為なり、このゆえに常とす。虚空はすなわちこれ仏性なり、仏性はすなわちこれ如来なり、如来はすなわちこれ無為なり、無為はすなわちこれ常なり、常はすなわちこれ法なり、法はすなわちこれ僧なり、僧すなわち無為なり、無為はすなわちこれ常なり。

(教行信証・真仏土巻「涅槃経」引用部分)

 無常は変化する。変化に終わりはなく、変化するから生まれたり死んだりするように見える。対するに、常は変化しない。変化しないから常という。大切なことは、無常と常は別々にあるのではなく、どれほど変化しても変化しないという本性を失わないから常というのだということです。変化しないという本性を失わないから自在に変化することができる。これを常という。だから、常を虚空といい、無為といい、如来といい、仏性という。常を離れて無常はなく、無常を離れて常もない。よって、変化しない常を知れば、変化する無常に安住できる。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-10-24 05:16 | 教行信証のこころ | Comments(0)

七地沈空の難

 問うて曰わく、もしすなわち等しからずは、また何ぞ菩薩と言うことを得ん。ただ初地に登れば、もってようやく増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に上地の菩薩と等しと言うや。答えて曰わく、菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんとす。その時にもし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須らく畢竟平等と言うべし。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 初地に登れば、いずれ仏に等しい等覚の位に至るのに、なぜ、ことさらに七地以前と八地以上とに区別するのか、という問いが立てられています。思うに、八地以上の「法性生身の菩薩」と七地以前の「未証浄心の菩薩」との違いは、信の一念にいただいた智慧が自在にその働きを現し出しているかどうかの違いなのでしょう。初地の菩薩は「智慧」がなにかが感触としてわかった。確かに経験的にはわかったが、智慧がまだ自在に働き出していないから、本当の意味で、智慧の働き、つまり「願力自然」「他力」がどのようなものかがまだわかっていない。その信心は観念にとどまっていて、なにより「安心」がない。もし、念仏せずに、観念の悟りに満足してしまえば、智慧は働きを失って、その信仰はやがて哲学化する。「菩薩の死」です。信の一念に智慧を得たら、智慧を掘り下げるように、信の一念を思い出しながら、信の一念に立ち返り立ち返り念仏することが大切です。そうすれば「七地沈空の難」を越え、やがて念仏三昧が完成して菩薩八地の教化地に入る。すなわち「安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつる」というのです。

*以前の記事を一部加筆して再掲載しました。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-23 05:15 | 教行信証のこころ | Comments(4)

歎異抄・第九章(5)

 (4)「踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々

(歎異抄・第九章)

 第九章の「その後」について。唯円は親鸞のご化導により「七地沈空の難」を越えた。どのように越えたか。唯円はご化導の受け止めを後半の第十六章に「信心さだまりなば」(信後の念仏相続は)と語っている。すなわち、「信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずしてただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします」と。

 思うに、煩悩を気にするのは、わたしが煩悩を起こしている、煩悩に責任があると思うからです。しかし、煩悩も菩提もそもそもが因縁生ですから、起こす〈わたし〉なくして煩悩は起き、因縁尽きれば〈わたし〉に関係なく消えていく。煩悩が起きたり消えたりすることに〈わたし〉はまったく関与していない。それどころか、そもそも〈わたし〉がいない。よって、「わがはからわざるを自然ともうすなり」とは、〈わたし〉はいるが「はからわない」ようにするのだというのではなく、そもそも初めから「はからう」〈わたし〉がいない。だから「わがはからわざる」というのです。〈わたし〉がないから「自然」といい、〈わたし〉がないから「仏」という。

 南無阿弥陀仏 

*9月18日~27回

by zenkyu3 | 2018-10-22 05:16 | 歎異抄を読む | Comments(0)