これ近相なり

 「利行満足」とは、「また五種の門ありて、漸次に五種の功徳を成就したまえりと、知るべしと。何ものか五門。一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、五には園林遊戯地門なり」とのたまえり。この五種は、入出の次第の相を示現せしむ。入相の中に、初めに浄土に至るはこれ近相なり。謂わく大乗正定聚に入るは、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 曽我量深師に教えを仰ぐ。「われわれの信心の生活、仏法の生活、ほんとうの喜びの生活、明るい生活、それを往生という。だから、ここからどかへ行くというようなものではないんでしょう。常に身は娑婆世界に居るけれども、心は娑婆世界を超越しておる。往とは超越をあらわす。「死んで浄土に往生する」というてみても、そんな証拠はどこにもない。生きているうちに証拠がなければ、死んでからの証拠など、どこにもありません。証拠は自分の生活そのものにある。自分の生活そのものが証明するのである。」

 「信心決定した生活は、心が浄土に居るという生活。身は娑婆世界におるんだけれども、心は娑婆世界に縛られておらん、と思います。自由である。自由であって、心は常に平和である。証大涅槃ということはできないけれども、涅槃に近づいておる。そうでしょう。それを近門という。だから、わたくしは、往生は現生にある、成仏は未来にある、という。往生の終着点が成仏である。それを往生即成仏という。」(曽我量深著「正信念仏偈聴記」より)

 「往生」には二義があって、即得往生を「心の往生」といい、滅度を「身の往生」という。親鸞は「正定聚不退転」と教えてくれたから、量深師はそれを受けて、十八願の本願成就を「心の往生」とした。浄土思想上、初めて親鸞がそう言ったようでもあるが、親鸞がなにか特別なことを言ったというより、臨終と往生を正しく切り離したにすぎない。仏教は無生の生であるから、死後の生を説けばまったく仏教でなくなるからです。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-09-30 05:09 | 教行信証のこころ | Comments(0)

歎異抄・第二章(4)

 (3)弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々

(歎異抄・第二章)

 『教行信証』化身土巻に云わく、「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき」と。建仁元(1201)年、親鸞は二十九歳で機縁熟して法然に出遇い、元久二(1205)年には早くも『選択本願念仏集』の書写を許されている。親鸞はその喜びを以下のように語っている。「『選択本願念仏集』は、禅定博陸 月輪殿兼実・法名円照の教命に依って撰集せしむるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見る者諭り易し。誠にこれ、希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万といえども、親と云い疎と云い、この見写を獲るの徒、はなはだもって難し。しかるに既に製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。仍って悲喜の涙を抑えて由来を縁を註す」と。

 長いがあえて引用した。何度読んでも師をいただく喜びが感動的に伝わってきます。親鸞は生涯、この感動の中にいた。思うに、仏教とは仏心を伝えてきた伝統なのでしょう。しかも目に見えない仏心は人から人へと伝わっていく。知識なら叡山で十分に学んだ親鸞です。法然からなにかを教えてもらったということはなかったでしょう。しかし、仏だけを見たことがなかった。親鸞は法然を見たのではなく法然に仏を見た。だから、すぐに法然から親鸞へと仏心が伝わったのです。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-09-29 05:48 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第二章(3)

 (2)親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

(歎異抄・第二章)

 (前回の続き) 親鸞は二十年の叡山の修業では信心を得られなかった。得られなかったが、法然を訪ねる頃には「総じてもって存知せざるなり」という大疑団に至っていた。日の出前が一番暗い。そういう状態で法然を尋ねた。尋ねたのは必然でしょう。だから、最後に一言、法然から「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と言っていただくだけでよかった。法然の一言で信の一念を突破した。こんな言葉は法然から初めて聞いたわけではない。むしろ、今まで聞き飽きるほど聞いていた。しかし、機縁が熟すとはこういうことなのでしょう。だから、親鸞は生涯、法然のこの一言に感動して生きてきた。いまもそれを思い出し「よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と言い放つ。「親鸞におきては」と最初に名乗りを上げ、あなたたちは命懸けで法を聞いてきただろうかと、弟子たちに厳しく問いかけるのです。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-09-28 05:24 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第二章(2)

 (2)親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

(歎異抄・第二章)

 第二章は法然から親鸞への南無阿弥陀仏の相承を伝える重要な章です。外形的には南無阿弥陀仏の相承といいますが、内面的には師から弟子になにが伝わったのかというと、仏心が伝わった。師の仏心と弟子の仏心が互いに照らし合って、師も役目を果たせたと喜び、弟子もまたお念仏申す身にしていただいたと喜ぶ。このような師資相承がありありと感動的に、しかも親鸞の口から語られているのが第二章です。親鸞は法然との五十年も昔の邂逅を思い出しながら関東の弟子たちと対面しているのです。まるで劇の一幕を見るように感動的で、作者の筆力はすばらしい。第一章の総説を別にすれば、親鸞との出遇いをこの書の最初に持ってきた。作者がいかに大切にしてきた思い出かということがわかります。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-09-27 05:44 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第二章(1)

 (1)おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。

(歎異抄・第二章)

 『年表』によれば、建長四(1252)年、親鸞八十歳の項に「親鸞、書状により関東の「造悪無碍」の風儀を制止」とあり、建長四年八月十九日付けのご消息には以下のようにあります。「煩悩具足の身なれば、こころにもまかせ、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいうまじきことをもゆるし、こころにもおもうまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにあるべしともうしおうてそうろうらんこそ、かえすがえす不便におぼえそうらえ」「師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなずりなんどしあわせたまうよしきこえそうろう。あさましくそうろう。すでに、謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。」(『親鸞聖人御消息集・広本』第一通より一部抜粋)

 第二章の歴史的な背景です。親鸞が育てた関東教団の中に「造悪無碍」の異義が広まり、信心に動揺が出てきた。そのような人たちの中に、京都に登って親鸞聖人から直に教えを聞こうという人が出てきたのでしょう。上京した人たちの中に、歎異抄の作者、若い頃の唯円がいたとされるのです。唯円は初めて親鸞を見たわけだから、その印象は生涯、深く記憶に刻まれていたに違いない。第二章には直に聞いた者にしか書けない迫力がある。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-09-26 05:39 | 歎異抄を読む | Comments(0)

信不具足

 また言わく、信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて思より生ぜざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん、これを名づけて「信不具足」とす、といえり。

(教行信証・信巻「涅槃経」引用部分)

 信には二つある。一つは聞いて信ずる。二つは真意がわかって信ずる。真意がわからないのは教えを聞いていない。だから、よく真意を聞いて信を取れという。また、信には二つある。一つは仏を見る。二つは信心の人を見る。信心の人を見ないのは仏を見ない。だから、善知識を仰いで信を取れという。

 南無阿弥陀仏 

by zenkyu3 | 2018-09-25 05:30 | 教行信証のこころ | Comments(0)

聞不具足

 『涅槃経』に言わく、いかんが名づけて「聞不具足」とする。如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じて、未だ六部を信ぜず。このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受持すといえども、読誦に能わずして他のために解説するは、利益するところなけん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受け已りて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす、とのたまえり。

(教行信証・信巻「涅槃経」引用部分)

 お聖教は信心を伝えている。お聖教にわからないところがあるのは信心がないからだ。だから、まずはよく聞けと。また、わかったふりをして法を説いても、信心がわかっていないのだから、誰も信心を取らない。だから、まずはよく聞けと。また、信心もわからず、ただ、名聞、利養、勝他のために法を説くは他を惑わすだけだから、まずはよく聞けというのです。

 南無阿弥陀仏 


by zenkyu3 | 2018-09-24 05:33 | 教行信証のこころ | Comments(0)

歎異抄・第一章(5)

 (3)しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

(歎異抄・第一章)

 次は第三節、第一章の最後です。「しかれば」は結論を示す。第一章の結論を示そうとする。「本願を信ぜんには」とは信の一念に智慧をいただけば、ということ。「他の善も要にあらず」とは乃至一念に念仏の行が確立した。そして、「悪をもおそるべからず」とは現生不退の生活の内面を端的に表現する。本当にすばらしい言葉です。すなわち、悪とは煩悩のことです。われらは煩悩に完全に支配され、煩悩と一体化し、煩悩を自分の心として生きている。だから、煩悩を捨てるのは自分を捨てることだし、自分を捨てるのは死ぬことと同じだ。だから、信の一念をなかなか突破できない。親鸞は『愚禿鈔』にこう述べている。「本願を信受するは、前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。即得往生は、後念即生なり」と。自心に死んで仏心に蘇る。煩悩を離れ煩悩を見る智慧を得たから、二度と煩悩とは一体化しない。煩悩から離れて、煩悩の影響を受けない心の生活を「悪をもおそるべからず」というのです。「悪をもおそるべからず」は現生不退の生活の内面、すなわち「摂取不捨の利益」です。ここに初めて、仏への道、無碍の一道が開けた。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2018-09-23 05:07 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第一章(4)

 (2)弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。

(歎異抄・第一章)

 次は第二節です。第一節では、弥陀の本願とは智慧を与えて救う働きであると教えていただきました。仏の定義です。仏とは智慧であり、智慧は光であり、光は照らすものを選ばないから「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず」と言います。また、光は見えるようにする。見えなかったものが見えるのは光が生じたからです。光の中でなにが見えたか。見たくない自分の心が見えた。自分の心の実際を見せていただいた。だから「罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」という。われらは自分が誰だかわからずに苦しんできた。これを生死流転という。自分がわかれば迷うことはない。そうでしょう。よって、自分の心が見えたことが救われたことです。智慧を与えて救うので如来回向という。これが十八願のおこころです。だから「ただ信心を要とすとしるべし」という。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-09-22 05:48 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第一章(3)

 (1)弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

(歎異抄・第一章)

 十八願文のおこころを引いた上で、付け加えるように、十八の本願成就して信心をいただいたことの意味を「すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」と示したことはとても重要です。ちなみに「摂取不捨」とは『観経』に「一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」とあることに依拠し、親鸞は現生十種の益の六番目に心光常護の益を挙げている。仏教において光明とは智慧(悟り)のことですから、第十八願の本願成就とは信の一念に智慧が生じた。そのことを「摂取不捨の利益にあずけしめたまう」と言うのです。やがて智慧が働きを現し、さまざまな「利益」を受ける身となるでしょう。仏へと育てていただくのです。因位の智慧を得て果位の仏となることがはっきりしたので、信心の人に開けてくる境地を「現生不退」といいます。一番最初に一番大切な結論を示すのは仏教にふさわしく、見事な書き出しです。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-09-21 05:24 | 歎異抄を読む | Comments(0)