<   2018年 08月 ( 26 )   > この月の画像一覧

還相の菩薩

 『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えりと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 量深師に教えを乞う。すなわち、「涅槃というからと言うて、命終わらなければ涅槃の境地が解らぬことはない。生きている中は無上涅槃ではない。有上涅槃というか。無上涅槃のさとりは開けぬが、或る程度の涅槃のさとりは得る。現生に於て涅槃という一種の境地を得る。つまり無生法認というのは涅槃を知る智慧であるから、無生法認の智慧が開けて来れば或る程度の涅槃の境地に到達することが出来るのであることを教えて下さるのが浄土真宗の教えである。」

 「涅槃の静かな心境は、生きてる中にそういう境地がいつも自分の心の中にあって、どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない。煩悩を断ぜずして涅槃を得という静かな何ものにも障えられない境地がある。それを現在の生活の上に経験することが出来る。それが仏からたすけられたということである。」

 「いつ死んでも成仏間違いないのは、現生に於て既に往生している、現生に於て既に浄土往生の生活を営んでおるものであるが故に、仏様でないけれども仏様と等しい生活を他力の不思議で与えて下された。そういうものであるが故に、いつ命が終わっても大般涅槃間違いない確信確証を握っておるものである。こういうのが浄土真宗の教えの本当の精神である」と。(津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 いつでも、何度でも読み返すが、このように教えてくださる先生はいない。われらは「一声の念仏」しか知らない者ですが、一声の念仏には無量の功徳の蓄積がある。どのような功徳をこれから味わせていただけるのか、残りの人生の楽しみです。この頃、思い出すのは竹内先生の最晩年のお姿です。「生死に住せず、涅槃に住せず」と歩きながら呟いていた竹内先生のお姿をわたしは拝んでいた。仏がわたしのために送ってくださった先生だから。

 南無阿弥陀仏



by zenkyu3 | 2018-08-31 05:17 | 教行信証のこころ | Comments(0)

海の性一味にして

 また性と言うは、これ必然の義なり、不改の義なり。海の性一味にして、衆流入るもの必ず一味になって、海の味、彼に随いて改まざるがごとしとなり。また人身の性不浄なるがゆえに、種種の妙好色香美味、身に入りぬれば、みな不浄となるがごとし。安楽浄土は、もろもろの往生の者、不浄の色なし、不浄の心なし、畢竟じてみな清浄平等無為法身を得しむ。安楽国土清浄の性成就したまえるをもってのゆえなり。

(教行信証・真仏土巻「論註」引用部分)

 『行巻』の御自釈に云わく、「海と言うは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水と成る、これを海のごときに喩うるなり。良に知りぬ、経に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」と言えるがごとし」と。すなわち、有相は不浄であり、無相は清浄であるがゆえに「空」という。「空」に入れば、すべてが清浄に改まることを「衆流入るもの必ず一味になって」と、安楽浄土を「海」に喩えているのです。

 浄土とは「空」であるから「無相」といい、無相だから「清浄」といい、有相の寂滅であるから「涅槃」といいます。よって、浄土の三種荘厳の方便は「空」に入れたい。しかし、凡夫のわれらに「空」といってもわからないから有相の浄土が説かれている。有相から無相に入れる善巧方便です。だから「空」とは思議を超えた不可思議の領域を指している。「こっちへ来い」と仏は呼び、釈尊は「あちらへ行け」と励ます。そうではあるけれど、浄土という場所があるのではなく、思議に縛られた心が不可思議に転じて、思議から心が自由になる。この「転ずる」という体験を得させたくて「十八願」があるのです。「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」というのもそういうことです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-30 05:11 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 また『論』(論註)に曰わく、「荘厳清浄功徳成就」は、「偈」に「観彼世界相 勝過三界道」のゆえにと言えり。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得れば、三界の繫業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得、いずくんぞ思議すべきや。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 『浄土論』に云わく、「彼の世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし」と。浄土とはなにか。「究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし」、すなわち「空」のことを「浄土」というのでしょう。「三界の道に勝過」した処を指して「空」という。思議を超えて不可思議に触れると「三界の道」が見える。思議から不可思議に立ち位置が転じて「思議」が見える。これが「空」です。見えることを「智慧」という。すなわち、空に触れると智慧が生じる。この菩薩の悟りを「即得往生」といい、この体験を得させたくて「十八願」がある。

 信の一念に獲得した線香の先ほどの明るさの智慧でも智慧は智慧、智慧が完成する「往生」「成仏」に向けて正しい修行が始まったので「不退転」といいます。「またかの浄土に生まるることを得れば、三界の繫業畢竟じて牽かず」とは智慧があると煩悩が見える。煩悩が見えると煩悩の影響を受けない。これが「智慧の功徳」で、この功徳あるために智慧の完成に向けた菩薩の修行が進むのです。以上をまとめると、浄土は「空」であるから「無相」といい、無相だから「清浄」といい、有相の寂滅であるから「涅槃」といいます。信の一念に「涅槃の一分」を見るので、必ず仏になるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-29 05:12 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 「道」は無碍道なり。『経』(華厳経)に言わく、「十方無碍人、一道より生死を出でたまえり。」「一道」は一無碍道なり。「無碍」は、いわく、生死すなわちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごとき等の入不二の法門は無碍の相なり。

(教行信証・行巻「論註」引用部分)

 生死も涅槃も心の状態を表す。迷うには迷う因縁があり、悟るには悟る因縁がある。温度によって水は氷にも蒸気にもなるように、心もまた因縁によって生死にもなり涅槃にもなる。生死なる「境」、涅槃なる「境」があるだけで「人」はない。すべては因縁生起で、因縁によって起きることが起きている。よって、生死といって嫌うことはなく、涅槃といって執着することもない。このようなことを「生死即涅槃」と言ったのです。心は生死にもなれば涅槃にもなるが、しかも心はいずれの跡も残さない。それゆえ「無碍の相」という。諸仏はみな、この「無碍道」を通って仏になったのです。他に道はないから「一道」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-26 05:42 | 教行信証のこころ | Comments(0)

ただ信仏の因縁をもって

 「易行道」は、いわく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば、水路に船に乗じてすなわち楽しきがごとし。

(教行信証・行巻「論註」引用部分)

 信の一念に智慧をいただくことを「即得往生」と言って「往生」と言わないのは、いただいた智慧がまだ線香の先ほどの火で、この智慧をはっきりさせる修行が始まったばかりだからです。今にも消えそうな線香の先ほどの明るさでも目指すべき方向が明らかになったので、後戻りしないという意味で「阿毘跋致」「不退転」といいます。なぜ、後戻りしないかというと「水路に船に乗じてすなわち楽しきがごとし」、あとは「仏願力」「智慧の働き」という大船に運ばれていくだけだからです。

 南無阿弥陀仏




by zenkyu3 | 2018-08-25 05:51 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 父王、仏に白さく、「念仏の功、その状いかんぞ」と。仏、父王に告げたまわく、「伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭栴檀あり。根芽ありといえども、なお未だ土を出でざるに、その伊蘭林ただ臭くして香ばしきことなし。もしその華菓を噉ずることあらば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽ようやく生長して、わずかに樹にならんと欲す。香気昌盛にして、ついによくこの林を改変してあまねくみな香美ならしむ。衆生見る者、みな希有の心を生ぜんがごとし。」

(教行信証・行巻「安楽集」引用部分)

 『観仏三昧経』からの引用。「念仏の功、その状いかんぞ」と、父の浄飯王の問いに対する釈尊のご化導です。道綽は以下のように注釈する。「言うところの「伊蘭林」は、衆生の身の内の三毒・三障、無辺の重罪に喩う。「栴檀」と言うは、衆生の念仏の心に喩う。「わずかに樹に成らんと欲す」というは、いわく、一切衆生ただよく念を積みて断えざれば、業道成弁するなり」と。

 栴檀の香気が伊蘭林の臭さを改変するという喩えをもって「念仏の心」が「三毒・三障、無辺の重罪」を浄化すると教えています。念仏とは言っても、念仏はただ称えるのではなく、智慧の中で称える念仏でなければならない。智慧とは心が見えるということですから、念仏するほどに自分の心が見えてくる。心が見える程に心への執着が落ちる。執着が落ちると心が浄化される。心が浄化されると智慧がはっきりする。これが「一声の念仏」の功徳です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-24 05:02 | 教行信証のこころ | Comments(0)

果の中に因を説く

 また性と言うは、これ聖種性なり。序めに法蔵菩薩、世自在王仏の所にして無生忍を悟る。そのときの位を聖種性と名づく。この性の中にして四十八の大願を発して、この土を修起したまえり。すなわち安楽浄土と曰う。これ、かの因の所得なり。果の中に因を説く。かるがゆえに名づけて性とす。

(教行信証・真仏土巻「論註」引用部分)

 心が心を離れて心を見る。このようなことが起きる。この一瞬、心は見られる心から見る心に転ぜられる。見る心を「仏」といい、見られる心を「煩悩」という。「性」というのは、心を離れて心を見れば、みな等しく「無生忍」という「智慧」が生じるので「性」というのです。「この性の中にして」建立された浄土の方便であるから、方便を信じれば必ず「性の中」に入ることができる。諸仏菩薩の願いはみな等しく、衆生をして「性」に入れ、涅槃の因となる「無生忍」を得させたい。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-23 05:15 | 教行信証のこころ | Comments(2)

いかんが不如実修行とす

 しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり。いかんが不如実修行と名義不相応とする。いわく如来はこれ実相の身なり、これ物の為の身なりと知らざるなり。

(教行信証・信巻「論註」引用部分)

 念仏し聴聞しても信が得られないのはなぜか。それは「如来とはなにか」がわかっていないからです。いわく「如来はこれ実相の身なり、これ物の為の身なり」と。意訳すれば「如来とは智慧の働きであり、智慧は煩悩を浄化して仏にする働きである」となります。智慧の働きを自覚することを「如実修行相応」という。

 諸法は因縁生で、いま起きていることはすべて因縁の仮和合で実体はない。求めても得るものがないから執着のしようがない。執着がなければ事実をあるがままに見る。あるがままの事実を「実相」といいます。よって、実相を見る智慧のことを「実相の身なり」といい、智慧は煩悩の身に現れて救いの働きを示すので「これ物の為の身なり」という。
 
 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-22 05:57 | 教行信証のこころ | Comments(0)

回向に二種の相あり

 回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまうなり。還相は、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往・もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがために、とのたまえり。

(教行信証・信巻「論註」引用部分)

 仏のお育てには二つの方向があります。一つは自らが智慧を深めて行く方向であり、二つは得た智慧を他に伝える方向です。心が深く内に向かう前者を「往相」といい、内に決着して心が外に向かう後者を「還相」といいます。さらに言えば、いただいた智慧がはっきりして内に決着することを「かの土に生じ已りて」といい、浄土に入り終れば、今度は浄土から出て「生死の稠林に回入し」、有縁の衆生に智慧を説いて「共に仏道に向かえしめたまう」。すなわち「教化地」に至るのです。

 また、信の一念に「智慧」をいただくことを「往生」とは言わず「即得往生」というのは、いただいた智慧がまだ線香の先ほどの火で、この智慧をはっきりさせる修行が始まったばかりだからです。今にも消えそうな線香の先ほどの明るさでも智慧は智慧ですから、信心の人は「必定の菩薩」と称えられるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-21 05:20 | 教行信証のこころ | Comments(0)

法性法身と方便法身

 何がゆえぞ広略相入を示現するとならば、諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。このゆえに広略相入して、絯ぬるに法の名をもってす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他にあたわず。

 (教行信証・証巻「論註」引用部分)

 たとえば、引力は目に見えない。目に見えないが万物に平等に働いて、しかも、変わらぬ法則がある。同じように、智慧の働きも目に見えない。目に見えないが一切衆生に平等に働いている。働いてはいるが働きを自覚しないと智慧は働きを現さない。そこで、働きを経験した釈尊が智慧の働きを人類に伝えるために、智慧の働きをお名前にする。この場合、目に見えない智慧の働きを「法性法身」といい、仏のお名前を「方便法身」という。だから「この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず」という。お名前から智慧の働きに触れることが「自利」であり、智慧の働きに育てられるから「利他」ができる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-18 05:56 | 教行信証のこころ | Comments(0)