還相の菩薩

 『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えりと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 量深師に教えを乞う。すなわち、「涅槃というからと言うて、命終わらなければ涅槃の境地が解らぬことはない。生きている中は無上涅槃ではない。有上涅槃というか。無上涅槃のさとりは開けぬが、或る程度の涅槃のさとりは得る。現生に於て涅槃という一種の境地を得る。つまり無生法認というのは涅槃を知る智慧であるから、無生法認の智慧が開けて来れば或る程度の涅槃の境地に到達することが出来るのであることを教えて下さるのが浄土真宗の教えである。」

 「涅槃の静かな心境は、生きてる中にそういう境地がいつも自分の心の中にあって、どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない。煩悩を断ぜずして涅槃を得という静かな何ものにも障えられない境地がある。それを現在の生活の上に経験することが出来る。それが仏からたすけられたということである。」

 「いつ死んでも成仏間違いないのは、現生に於て既に往生している、現生に於て既に浄土往生の生活を営んでおるものであるが故に、仏様でないけれども仏様と等しい生活を他力の不思議で与えて下された。そういうものであるが故に、いつ命が終わっても大般涅槃間違いない確信確証を握っておるものである。こういうのが浄土真宗の教えの本当の精神である」と。(津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 いつでも、何度でも読み返すが、このように教えてくださる先生はいない。われらは「一声の念仏」しか知らない者ですが、一声の念仏には無量の功徳の蓄積がある。どのような功徳をこれから味わせていただけるのか、残りの人生の楽しみです。この頃、思い出すのは竹内先生の最晩年のお姿です。「生死に住せず、涅槃に住せず」と歩きながら呟いていた竹内先生のお姿をわたしは拝んでいた。仏がわたしのために送ってくださった先生だから。

 南無阿弥陀仏



by zenkyu3 | 2018-08-31 05:17 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 「道」は無碍道なり。『経』(華厳経)に言わく、「十方無碍人、一道より生死を出でたまえり。」「一道」は一無碍道なり。「無碍」は、いわく、生死すなわちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごとき等の入不二の法門は無碍の相なり。

(教行信証・行巻「論註」引用部分)

 生死も涅槃も心の状態を表す。迷うには迷う因縁があり、悟るには悟る因縁がある。温度によって水は氷にも蒸気にもなるように、心もまた因縁によって生死にもなり涅槃にもなる。生死なる「境」、涅槃なる「境」があるだけで「人」はない。すべては因縁生起で、因縁によって起きることが起きている。よって、生死といって嫌うことはなく、涅槃といって執着することもない。このようなことを「生死即涅槃」と言ったのです。心は生死にもなれば涅槃にもなるが、しかも心はいずれの跡も残さない。それゆえ「無碍の相」という。諸仏はみな、この「無碍道」を通って仏になったのです。他に道はないから「一道」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-26 05:42 | 教行信証のこころ | Comments(0)

ただ信仏の因縁をもって

 「易行道」は、いわく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば、水路に船に乗じてすなわち楽しきがごとし。

(教行信証・行巻「論註」引用部分)

 信の一念に智慧をいただくことを「即得往生」と言って「往生」と言わないのは、いただいた智慧がまだ線香の先ほどの火で、この智慧をはっきりさせる修行が始まったばかりだからです。今にも消えそうな線香の先ほどの明るさでも目指すべき方向が明らかになったので、後戻りしないという意味で「阿毘跋致」「不退転」といいます。なぜ、後戻りしないかというと「水路に船に乗じてすなわち楽しきがごとし」、あとは「仏願力」「智慧の働き」という大船に運ばれていくだけだからです。

 南無阿弥陀仏




by zenkyu3 | 2018-08-25 05:51 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 父王、仏に白さく、「念仏の功、その状いかんぞ」と。仏、父王に告げたまわく、「伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭栴檀あり。根芽ありといえども、なお未だ土を出でざるに、その伊蘭林ただ臭くして香ばしきことなし。もしその華菓を噉ずることあらば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽ようやく生長して、わずかに樹にならんと欲す。香気昌盛にして、ついによくこの林を改変してあまねくみな香美ならしむ。衆生見る者、みな希有の心を生ぜんがごとし。」

(教行信証・行巻「安楽集」引用部分)

 『観仏三昧経』からの引用。「念仏の功、その状いかんぞ」と、父の浄飯王の問いに対する釈尊のご化導です。道綽は以下のように注釈する。「言うところの「伊蘭林」は、衆生の身の内の三毒・三障、無辺の重罪に喩う。「栴檀」と言うは、衆生の念仏の心に喩う。「わずかに樹に成らんと欲す」というは、いわく、一切衆生ただよく念を積みて断えざれば、業道成弁するなり」と。

 栴檀の香気が伊蘭林の臭さを改変するという喩えをもって「念仏の心」が「三毒・三障、無辺の重罪」を浄化すると教えています。念仏とは言っても、念仏はただ称えるのではなく、智慧の中で称える念仏でなければならない。智慧とは心が見えるということですから、念仏するほどに自分の心が見えてくる。心が見える程に心への執着が落ちる。執着が落ちると心が浄化される。心が浄化されると智慧がはっきりする。これが「一声の念仏」の功徳です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-24 05:02 | 教行信証のこころ | Comments(0)

回向に二種の相あり

 回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまうなり。還相は、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往・もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがために、とのたまえり。

(教行信証・信巻「論註」引用部分)

 仏のお育てには二つの方向があります。一つは自らが智慧を深めて行く方向であり、二つは得た智慧を他に伝える方向です。心が深く内に向かう前者を「往相」といい、内に決着して心が外に向かう後者を「還相」といいます。さらに言えば、いただいた智慧がはっきりして内に決着することを「かの土に生じ已りて」といい、浄土に入り終れば、今度は浄土から出て「生死の稠林に回入し」、有縁の衆生に智慧を説いて「共に仏道に向かえしめたまう」。すなわち「教化地」に至るのです。

 また、信の一念に「智慧」をいただくことを「往生」とは言わず「即得往生」というのは、いただいた智慧がまだ線香の先ほどの火で、この智慧をはっきりさせる修行が始まったばかりだからです。今にも消えそうな線香の先ほどの明るさでも智慧は智慧ですから、信心の人は「必定の菩薩」と称えられるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-21 05:20 | 教行信証のこころ | Comments(0)

他利利他の深義

 他利と利他と、談ずるに左右あり。もしおのずから仏をして言わば、宜しく利他と言うべし。おのずから衆生をして言わば、宜しく他利と言うべし。いま将に仏力を談ぜんとす、このゆえに利他をもってこれを言う。当に知るべし、この意なり。

 (教行信証・行巻「論註」引用部分)

 おおよその大意です。「利他」について。利他とは仏が衆生を利益する。仏の方からすれば衆生が「他」となる。「他利」について。他利とは仏が衆生を利益する。衆生からすれば仏が「他」となる。どちらも「仏が衆生を利益する」という意味では同じだが、今は仏力を語るのだから、仏を中心にする。仏から見れば衆生が「他」となるのだから「利他」というのが仏力を語るのに相応しい、と。

 親鸞は『教行信証』証巻の最後にこう述べている。「宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまえり」と。「他利利他の深義」というは、自力聖道門はわたしの方から仏を見る。しかし、他力浄土門は仏の方からわたしを見る。主体が「わたし」から「仏」へと転換した。これを「深義」という。この大転換を果たしたのが曇鸞大師であると親鸞は讃えているのです。「わたしから」仏を見るのではなく「仏から」わたしを見る視線を獲得したい。仏からわたしが見えることを「智慧」というからです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-17 05:23 | 教行信証のこころ | Comments(0)

是心作仏、是心是仏

 『論の註』に曰わく、かの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、発無上菩提心を要す、とのたまえるなり。

 また云わく、「是心作仏」は、言うこころは、心よく作仏するなり。「是心是仏」は、心の外に仏ましまさずとなり。譬えば、火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもってのゆえに、すなわちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなわち火となるがごときなり。

(教行信証・信巻「論註」引用部分)

 「この心、作仏す。この心これ仏なり」は『観経』の第八像観に典拠があります。「この心」とは「無上菩提心」、すなわち「智慧」のことで、智慧の働きを「これ仏なり」と示しています。智慧の働きを「木、火のために焼かれて、木すなわち火となるがごときなり」と喩え、煩悩の木を焼き尽くすのが智慧の火の働きであると教えています。すなわち、信の一念に智慧を得て、智慧の働きにより心と物への執着が落ちていく。この方向が仏への道で、執着が落ちて行くほどに智慧の働きがはっきりして、さまざまな功徳を受けるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-16 05:11 | 教行信証のこころ | Comments(0)

また五種の門ありて

 「利行満足」とは、「また五種の門ありて、漸次に五種の功徳を成就したまえりと、知るべしと。何ものか五門。一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、五には園林遊戯地門なり」とのたまえり。この五種は、入出の次第の相を示現せしむ。入相の中に、初めに浄土に至るはこれ近相なり。謂わく大乗正定聚に入るは、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。浄土に入り已るは、すなわち如来の大会衆の数に入るなり。衆の数に入り已りぬれば、当に修行安心の宅に至るべし。宅に入り已れば、当に修行所居の屋宇に至るべし。修行成就し已りぬれば、当に教化地に至るべし。教化地はすなわちこれ菩薩の自娯楽の地なり。このゆえに出門を園林遊戯地門と称すと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 「利行満足」とは自利利他の菩薩行が完成していく方向を明らかにしています。「初めに浄土に至るはこれ近相なり」とは初めて智慧を得たことをいいます。悟りに近づいたから「近門」です。すなわち「如来の大会衆の数に入る」から「大会衆門」といい、ここで浄土の門をくぐり、さらに進んで母屋に入ったので「宅門」といいます。さらに修行は進んで、仏のおられる奥座敷へと進んできたので「屋門」という。奥座敷に至れば仏にお会いして修行が終わったので、浄土から出て衆生済度に出かける。これを「園林遊戯地門と称す」と。自利利他の菩薩行が完成して、やがて仏となる。われらは菩薩の修行など一度もしたことがないが、これらのことが不思議にも「智慧の働き」、すなわち「念仏の功徳」で成就されるのです。なお、竹内先生は「屋門」について、こうお話しされました。すなわち「奥座敷までお伺いしたところ、仏さまは衆生済度に出かけておられて、お留守であった」と。これも大切な教えですので、ここに書き記しておきます。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-08-15 05:25 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 問うて曰わく、何の義に依って往生と説くぞや。答えて曰わく、この間の仮名の人の中において、五念門を修せしむ。前念と後念と因と作る。穢土の仮名の人・浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異を得ず。前心・後心またかくのごとし。何をもってのゆえに。もし一ならばすなわち因果なけん。もし異ならばすなわち相続にあらず。この義、一異を観ずる門なり。『論』の中に委曲なり。

 (教行信証・行巻「論註」引用部分)

 前回の記事の最後、「天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがごときにはあらざるなり」の続きです。すなわち、「願生」とは智慧を得た菩薩が智慧を完成させて仏の悟りの境地に至りたいと願うことで、凡夫が死んだ後に別の安楽世界に生まれたいと願うというような話ではないと、そういう展開でした。そこで、では「往生」とはどういうことかと新たな問いが立てられます。おおよそ大意は以下の通りです。

 穢土とは煩悩が見る迷いの世界、浄土とは智慧が見る悟りの世界のことです。どちらも心が造って心が住む心の世界で、象徴的に「場所」として表現されていますが、そう方便するのは煩悩に縛られている心を「前心」、智慧を得た心を「後心」と区別して煩悩を離れ悟りを求める心を起こさせたい諸仏菩薩の願いがあるからです。よって「往生」とは、智慧を「因」として開けてくる「果」としての悟りの世界がはっきりしたこと、すなわち「因」としての智慧が完成したことを「往生」というのだということです。「この義、一異を観ずる門なり」と。

 また、「仮名の人」とはどういうことかといえば、凡夫が驚き恐れないように、仮に「人」があるかのように説いただけで、穢土にも浄土にも「人」はない。心だけがあって心の所有者としての「人」を妄想しないのが「空無我」の仏教だということです。知るべし。

 南無阿弥陀仏




by zenkyu3 | 2018-08-14 05:40 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 問うて曰わく、大乗経論の中に処処に「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」と説きたまえり。いかんぞ天親菩薩、願生と言うや。

 答えて曰わく、「衆生無生にして虚空のごとし」と説くに、二種あり。一つには、凡夫の実の衆生と謂うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて有らゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと。

 天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがごときにはあらざるなり。

(教行信証・行巻「論註」引用部分)

 大乗の経論は「無生」と教えているのに、なぜ天神菩薩は「願生」というのか。そういう問いが立てられています。答えて言うに、そもそも「無生」には二つの意味がある。一つには「生死はない」ということであり、二つには「すべては因縁生である」ということです。よって、天神菩薩が「願生」というのは、死後に生まれる「場所」があったり、そこに生まれる「人」があったりというような話ではないと、そんな趣旨でしょうか。

 「凡夫の実の衆生と謂うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし」とは、人がいて、その人が生まれたり死んだりすると考えるのは頭の中のことでしかなく、頭が考えたことが実際にあると頭が間違って認識しているにすぎない。頭の中のことはどこまでも頭の中のことでしかないと、頭を超えた処から頭の中を見渡すのが正しい認識で、このような認識は心が見せる世界に執着している限り到達できない菩薩の悟りです。

 また、「諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとし」とは、すべては因縁生であるから実体がない。生まれたように見えて生まれたものがなく、死んだように見えて死んだものがない。このように知ることを「無生法忍」といいます。因縁無自性空の智慧を得ることで開けてくる悟りの境地を「初地不退」といい、すべての諸仏菩薩は一切衆生をこの境地に入れたいと願って善巧方便するのです。(続く)

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-13 05:27 | 教行信証のこころ | Comments(0)