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依経段・弥陀章(5)

 (原文)
 普放無量無辺光 無碍無対光炎王
 (読み方)
 あまねく、無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、
 (正信偈-6)

 依経段は『大無量寿経』に依って、とくに弥陀章は「如来浄土の因果」を述べている。すなわち「法蔵菩薩因位時」から「重誓名声聞十方」までが因を、「普放無量無辺光」から「一切群生蒙光照」までが果を述べる。法蔵菩薩が因位の修行により光の仏、果位の阿弥陀仏になったことを物語る。すなわち、①無量②無辺光③無碍④無対⑤光炎王⑥清浄⑦歓喜⑧智慧光⑨不断⑩難思⑪無称光⑫超日月光を「十二光仏」といい、智慧のお徳がお名前になっている。

 南無阿弥陀仏



by zenkyu3 | 2018-04-30 06:08 | 正信偈の教え | Comments(0)

依経段・弥陀章(4)

 (原文)
 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
 (読み方)
 五劫、これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。
 (正信偈-5)

 『歎異抄』に云わく、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と。これは親鸞の信心の表白です。唯円によれば親鸞は常にそう仰っていた。「そくばくの業」が見える智慧を廻向して救うのが仏のお慈悲です。仏のお慈悲に引かれて歩む人生は、大切なものを一つずつ捨てて、最後は念仏一つになって往生する。

 南無阿弥陀仏



by zenkyu3 | 2018-04-29 06:01 | 正信偈の教え | Comments(0)

依経段・弥陀章(3)

 (原文)
 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
 (読み方)
 無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
 (正信偈-4)

 『高僧和讃』に云わく、「釈迦弥陀は慈悲の父母/種種に善巧方便し/われらが無上の信心を/発起せしめたまいけり」と。仏となる種であるわれらの「信心仏性」はぶ厚い煩悩に覆われて働きを失ったまま心の奥深くに眠っている。眠ったままの「智慧と慈悲の働き」「信心仏性」を目覚めさせようというのが釈尊が『大無量寿経』を説いたお心なのでしょう。一切衆生悉有仏性、阿弥陀仏はわれらの内なる仏性であるから、仏の呼び声は内から聞こえる。

 無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-04-28 06:04 | 正信偈の教え | Comments(0)

依経段・弥陀章(2)

 (原文)
 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
 (読み方)
 諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
 (正信偈-3)

 「覩見」とは「よく見る」こと。因位の法蔵菩薩はなにを見たかというと、事実を「ありのまま」に見た。われらはいろんなことに執着を持っていて、好きな事実と嫌いな事実に分けることに慣れてしまっているから、よい事実、悪い事実が初めからあるように思い込んでいる。この思い込みが苦悩の根底にある。仏教が教えているのは善悪、好嫌の分別をする前の「ありのままの事実」に立脚することです。簡単なことだが、執着がそれを難しくする。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-04-27 06:01 | 正信偈の教え | Comments(2)

依経段・弥陀章(1)

 (原文)
 法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
 (読み方)
 法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、
 (正信偈-2)

 聴聞を始めた頃、竹内先生から「仏とは智慧と慈悲の働きである」と教えていただいた。「働き」とは目に見えない。「万有引力の法則」も目に見えないが、その働きは誰もが知っている。同じように、仏とお呼びする「働き」もまた「法則」であるから一切の衆生に平等に働く。どのように働くかといえば、念仏を称えさせ、さとりの智慧を開き、仏へと育てる。その働きの具体的な現れを四十八あげて法蔵菩薩の「本願」と説いたのが『大無量寿経』です。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-04-26 06:06 | 正信偈の教え | Comments(0)

総讃(帰敬偈)

 (原文)
 帰命無量寿如来 南無不可思議光
 (読み方)
 無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。
 (正信偈-1)

 ご祝儀袋をいただいたら、当然、中には紙幣が入っていると思う。お念仏をご祝儀袋に例えれば、中には「信心」という紙幣が入っていなければならない。なぜなら、念仏で往生するのではなく、信心の智慧で往生するからです。さて、帰敬偈です。「南無阿弥陀仏」は仏のお名前で、お名前に救われたことがあるから「お名前を称(たた)える」報恩行がある。「無量寿」は慈悲、「不可思議光」は智慧を表し、慈悲と智慧のお徳をもって「仏」と申し上げる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-04-25 09:07 | 正信偈の教え | Comments(0)

偈前の文

 (原文)
 爾者帰大聖真言閲大祖解釈信知
 仏恩深遠作正信念仏偈曰
 (読み方)
 しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、
 (教行信証・行巻)

 二十九年前、練馬の真宗会館で聴聞を始めるまで『正信偈』を知らなかった。知らぬ者には漢字の羅列でしかない『正信偈』になにが書かれているか、それを学ぶことが聴聞の始まりでした。思えば懐かしい。さて、「大聖の真言」とは釈尊の説かれた『大無量寿経』のこと、「大祖の解釈」とはインド・中国・日本の七高僧の教えのことです。六十行、百二十句の漢文で書かれた『正信偈』が「依経段」と「依釈段」で構成されることを予告しています。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-04-25 06:00 | 正信偈の教え | Comments(0)

(このブログのこと)

 カテゴリに「正信偈の教え」を追加しました。六十行、百二十句からなる『正信偈』を一日一行ずつ読んでまいります。『正信偈』は親鸞聖人の教えのエッセンスであり、背景には漢文で書かれた『教行信証』一巻六部があります。字句解説の力量などとてもないことを予め白状しておきます。善及
by zenkyu3 | 2018-04-25 05:54 | このブログのこと | Comments(0)

帖外ブログ・其の二十三

一、無執着の心には自も他もない。だから、平等性智といい、無縁の大悲という。

二、執着するものがないから諸行無常といい、執着する自分がないから諸法無我という。

三、業を見て人を見ないのが信心の智慧である。業に主体はなく、意思もない。

四、執着しないのではない。執着するものがないのである。それゆえ無執着という。

五、信心とは結局なにかといえば、大切なものを一つずつ捨ててゆく。最後は念仏一つ。

六、生まれてきたことの意味を証明したいとは、夢の中でさらに夢をみるような話しだ。

七、悩み苦しんだは厭い離れよのご親切であった。さもなくば法を聞かずに終わった。

八、人としてすべきことをして死ぬ。これなら人らしいといえるのではないか。

九、せっかく念仏していながら信心がわからずに終わったら、悔いが残るのではないか。

十、念仏を称え、智慧を開き、仏になる。そうなるようになっているから法則という。

南無阿弥陀仏

平成三十年四月二十四日

善及記す


by zenkyu3 | 2018-04-24 07:19 | 帖外ブログ | Comments(2)

会員からのお便り (10)

 毎朝、鏡をみる。寝ぼけた、情けない顔がある。しかめっ面をしても、満足な顔にはならない。学生の頃、鏡の前で顔をしかめては、気に入った顔になるまで鏡をながめている友達がいたが、どの顔が自分にふさわしいかを一生懸命さがしているようで、ユーモラスな光景だった。最近は、男が化粧しても怪しまない風潮で、美しくなりたいという願望は、女性の専売ではなくなったが、化粧をしていない自分の顔を見るとゾッとするという女性もいると聞く。

 自分自身の心の動きを見ていると、どうも私は自分の本当の顔は何か、と真剣に考えてみることに本能的な不安を隠している。化粧をしていない素顔を見てゾッとする女性があるとすれば、自分の本性を見たら、私の場合、泡を吹いて卒倒するかもしれない。それは、化粧の下の素顔に怖れをもつあの女性と同じ心理かな。

 ただ、自分の本性を深く掘り下げていく勇気をもった方々が、心の底の深いところで発見するのは、自己中心的で、他人にはやたら批判的、平気で嘘をつき、人にはへつらい、打算、欲望、ものおしみと、なんとも惨めな自己の現実で、私にはとても正視に耐えられないものです。

 仏は、我々を「煩悩具足の凡夫よ」と正しく呼び出されますが、人は誰も自分のことだと思わないみたいです。一片の真実もないこの身の事実を受け入れるということが、どのようにして人に可能となるのだろうか。

 1992.07.15


by zenkyu3 | 2018-04-24 06:14 | 会員からのお便り | Comments(0)