念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、
  またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、
  いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、
  「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」。

  (歎異抄・第九条)

 第九条について、曽我量深師のご教授にまさるものはない。「これをみると、念仏についての倦怠期、念仏はあいもかわらぬものだという倦怠期にはいった。はじめのうちは非常にありがたい。第二条のように「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」というご化導を聞くと、なにかしらぬが全身ことごとく光につつまれた。

 内にも光、外にも光、光の中に光がある。それがなれるといつのまにやら「念仏もうしそうらえども」と「ども」となる。お義理、惰性で念仏申す。念仏に張り合いがない、勇みがない、勇猛心がなくなってくる。これがつまり菩薩のうえでいえば、七地沈空の難である。これは菩薩のある倦怠期である」。少し長いが引用した。(曽我量深著『歎異抄聴記』259ページ)

 念仏には「踊躍歓喜」という体験があります。この体験により智慧を得るのです。我執の繋縛から解き放たれるので踊躍歓喜する。しかし、この体験も喜びだけで終わってしまえば願力自然が働き出ない。身に働く願力がわからないと踊躍歓喜の感動もやがてただの記憶になって我執を強くするだけに終わる。


 踊躍歓喜の体験は一度しかないから、ここでもう一度、信の一念を体験的に思い出して、智慧がしっかりと働き出すのを確認しなくてはならない。唯円はこのことに直面したのです。しかし、願力自然が働き出しさえすれば七地沈空の難を越えて、二度と退転することはない。これもまた信心が深まって行くお育てのプロセスです。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-31 06:05 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  念仏は行者のために、非行非善なり。
  わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。
  わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。
  ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、
  行者のためには非行非善なりと云々

  (歎異抄・第八条)

 「無碍の一道」は転悪成善の働きに導かれるので悪(煩悩)と善(悟り)の間を往ったり来たりする。煩悩から離れれば悟り、煩悩に巻き込まれたら迷いです。巻き込まれては離れ、離れてはまた巻き込まれる。これを生涯にわたり無数に繰り返して、少しずつ「自力」を離れ「他力」に近づいていく。そうして「わがはからい」が起こらなくなったところを指して「はからいなし」「他力」というのです。それが到達点としての第十条、「義なしを義とす」であり、親鸞聖人の最晩年の境地「自然法爾」です。このことはすでに述べました。

 なお、親鸞聖人に以下のようなご消息があります。「『宝号経』にのたまわく、弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり。名号はこれ、善なり、行なり。行というは、善をするについていうことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず、行にあらざるなり。かるがゆえに、他力ともうすなり」(末燈鈔・第二十二通)。親鸞聖人が唯円にこのような話をされたことが何度もあったのでしょう。『歎異抄』は親鸞聖人の言葉を伝えるだけでなく、教行信証の四法に対応して、見事に編集されています。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-30 06:01 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  念仏者は、無碍の一道なり。
  そのいわれいかんとならば、信心の行者には、
  天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。
  罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、
  無碍の一道なりと云々

  (歎異抄・第七条)

 さて、「故聖人の御ものがたり」の十回目です。前回までに、第一条から第六条までを教行信証の四法に対応する形で位置づけしました。次は第七条、八条、第九条の三ヶ条です。この三ヶ条は第一条の第三段「悪をもおそるべからず」の展開で、信後の念仏生活の実際です。最初に、第一条が仏道の入口、第七条が仏道の途中、第十条が仏道の到達点と概観しましたが、第七条、八条、第九条は仏道の途中になります。

 信の一念に生ずる智慧の働き、すなわち転悪成善の働きに導かれる「無碍の一道」を一言で言えば「悪をもおそるべからず」です。悪とは煩悩のことです。われらは煩悩に一体化し、一体化していることに気づかないほどに支配されている。煩悩と一体化していることに初めて気づくのが「信の一念」です。煩悩に縛られているから煩悩を畏れる。無量劫より煩悩に縛られてきているので煩悩に従う習慣がなかなか取れない。煩悩はそのままに煩悩から完全に離れる歩みが「無碍の一道」です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-29 05:58 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  親鸞は弟子一人ももたずそうろう。
  そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、
  弟子にてもそうらわめ。
  ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、
  わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。

  (歎異抄・第六条)

 われらはいま現に仏のお育てをいただいて仏への道を歩ませていただいている者であり、仏ではない。そもそも「一切衆生悉有仏性」ですから、われらは煩悩の身に深く埋められた仏性の目覚めによって救われるのです。この仏性を目覚めさせていただくのに力があるのが「釈迦弥陀の善巧方便」であり、たとえ「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」であっても、最後は善知識の存在です。


 信心をいただくのになぜ善知識の存在が必要かというと、仏心は人から人へと伝わるものだからです。「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひと」(弟子)だから「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひと」(師匠)がわかる。仏心と仏心とが相照らすので、最後は善知識の仏心を見て救われる。それゆえ「自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなり」と。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-28 05:57 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  親鸞は父母の孝養のためとて、
  一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
  そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第五条)

 命は一つです。一つが無数に別れても一つの命であることに変わりはない。無量無辺、無数の因と無量無辺、無数の縁とが結ばれて、無量無辺、無数の命の形を現しているけれど、みな一つの命を生きている。たまたま父母兄弟として出会っても、それは現世だけの縁で、縁が解かれてしまえば、また新しい因縁で別の姿に形を変えていく。だから「一切の有情」(縁)はあっても救うべき「父母」(人)はない。


 法然以前の旧仏教は鎮護国家、死者儀礼としての宗教であったが、法然以後は「個の救済」としての新仏教にはっきりと生まれ変わった。「某親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」(改邪鈔)という言葉も死者儀礼を否定する親鸞の態度をはっきりと示している。「不退というは、仏にかならずなるべきみとさだまるくらいなり」(尊号真像銘文)。「必ず」と言えた親鸞聖人にとり成仏はすでに問題ではなくなっている。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-27 05:54 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、
  大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
  今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、
  存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
  しかれば、念仏もうすのみぞ、
  すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

  (歎異抄・第四条)

 さて、「故聖人の御ものがたり」の七回目です。前回までに、第一条、第二条、第三条は教行信証の四法の「教行信」に相当することを述べました。第四条、第五条、第六条は「証」(慈悲)に相当します。第四条は「還相回向」について述べ、第五条は最も身近な人への救済感情として「父母の孝養」について、第六条は法を伝えるべき「弟子」について述べています。それぞれの条々が実によく考えて配分配列されています。


 では、利他行はいつか。第四条に「いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり」とあり、第五条には「この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」とあることから、親鸞聖人は「利他行」は仏になってから後のことだとはっきりしています。われらは仏に救っていただくだけの凡夫であり、救う仏ではない。第四条はこれだけをはっきりさせている。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-26 06:09 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、
  生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、
  願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、
  他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。

  (歎異抄・第三条)

 第二条は行の確立です。「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」。これほど感動的な言葉はない。親鸞は法然からご法義を学んだのではない。法然という目の前に生きた仏を見て疑いの闇が一度に晴れたのです。仏心は人から人に伝わるです。

 第三条は第一条の第二段「弥陀の本願は老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」の展開です。ちなみに「悪人」とは「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」との自覚を持った人のことです。自覚は「智慧」です。信の一念に「智慧」が生じるので煩悩が見える。見えるは離れること。離れるから見える。この智慧は「信の一念」に生じるので「ただ信心を要とすとしるべし」との親鸞聖人のご化導です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-25 06:05 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
  よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
  念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、
  また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。

  (歎異抄・第二条)

 第一条は歎異抄全体の総説であり、教行信証の四法の「教」に相当すると前回述べました。続く第二条と第三条は「行信」に相当します。ちなみに親鸞聖人は『教行信証』の信巻に「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」と述べて、称名念仏には必ず信心(の智慧)の裏打ちがあることを明らかにしています。智慧あるがゆえに信後の「無碍の一道」(転悪成善の働き)が開けてくることはすでに述べました。

 第二条は師の法然から弟子の親鸞への「南無阿弥陀仏」の相承を伝えています。外形的には南無阿弥陀仏の相承ですが、内面的に師から弟子になにが伝わるかというと「仏心」が伝わる。善知識は仏の御はからいでお念仏申すお方ですから、仏のお心がお姿になってわたしの前におられる。時と機がそろえば仏が「よきひと」に会わしてくださるのです。師の仏心とわたしの仏心が互いに照らし合って、師も役目を果たせたと喜び、弟子もお念仏申す身にしていただいたと喜ぶ。このことが第二条に感動的に語られています。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-24 06:34 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  (1)弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
  すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

  (2)弥陀の本願は老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。
  そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。

  (3)しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。
  悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

  (歎異抄・第一条)

 さて、「故聖人の御ものがたり」の四回目です。もう一度、第一条にもどります。第一条は内容的に三段に別れていて、第一段の「信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」は第二条の行に展開され、第二段の「ただ信心を要とす」は第三条の信に展開されています。また、第三段の「念仏にまさるべき善なきゆえに」は第四条から第六条の証(浄土の慈悲)に展開され、「悪をもおそるべからず」は第七条から第九条の無碍の一道に展開されています。このようなことから、第一条が「故聖人の御ものがたり」十ヶ条の総説であることが明らかです。

 親鸞聖人は『教行信証』(証巻)に「それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。かるがゆえに、もしは因もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざることあることなし」と述べています。それに倣えば、第一条は歎異抄全体の総説ともいうべき位置にありますから「教」に相当すると言えます。そうすると第二条は「行」に相当し、第三条は「信」、第四条から第六条までは「証」(浄土の慈悲)と、そのように並んでいます。著者唯円の意図が窺えるのではないでしょうか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-23 05:55 | 歎異抄の読み方 | Comments(0)

  「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第十条)

 今回は第十条です。第一条は信心獲得のこと。これは仏道の入口。浄土の門が開いて念仏の行者が浄土に向けて歩みだす。第七条は智慧の働きのこと。智慧の念仏に育てられながら仏への道を歩み続ける。仏道の途中です。最後は第十条、はからいなし。仏道の到達点です。「無義をもって義とす」で十ヶ条を締めくくっています。唯円は意図を持って親鸞聖人のお言葉を並べています。

 さて、「無義をもって義とす」についてですが、親鸞聖人八十六歳の文章『自然法爾章』の末尾にはこうあります。「この道理(注;自然法爾のこと)をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなり」と。第十条と同じ趣旨のことが書かれています。

 「義」とは「自力のはからい」のことで「無義」とは「自力のはからいがない」、つまり願力自然が働いて自力の入る余地がまったくなくなってしまった。すべてが他力になったという意味になります。親鸞聖人が到達した最晩年の心境を表しています。転悪成善の働きに育てられてきた「無碍の一道」の到達点が「無義をもって義とす」の言葉で表されているのです。凡心から仏心へと主体が完全に移行しました。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-22 06:25 | 歎異抄の読み方 | Comments(4)