これ、不退の密益なり

(このシリーズは今回で終了です)


  一 前々住上人、仰せられ候う。
  「一心決定のうえ、弥陀のおんたすけありたりというは、
  さとりのかたにて、わろし。
  たのむ所にてたすけたまい候う事は、歴然にも候えども、
  御たすけあろうずと云いて、しかるべき」の由、仰せられ候う云々
  「一念帰命の時、不退の位に住す。これ、不退の密益なり。
  これ、涅槃分なる」由、仰せられ候うと云々

  (蓮如上人御一代記聞書204条)

 試みに現代語訳。蓮如上人の言葉。いわく、信心决定の一念に「救われた」というのは、あたかも現在に悟りを開いたかのようでよくない。確かに、たのむ心の起きたとき、仏のお心が少しばかり明らかになるから「救われた」と喜ぶこともあるが、教えの上では「必ず救われる」と言った方がいい。というのも、現在に仏のお心をいただき、未来に仏になるというのが現生不退の教えの基本だからです、と。このように蓮如上人は言われました。

 さて、「これ、不退の密益なり。これ、涅槃分なる」について。信心とは、わたしの心に智慧が生じた事実であるから「救われた」という一面がある。また一方では、始めて無碍の一道が開け、ここから仏への道を歩み始めることができるようになったという一面があるわけです。つまり「必ず救われる」未来は「すでに救われた」という現在によって成り立っているということです。因位の信心が涅槃の一部なら、果位の悟りは涅槃の全開でしょうけれども、一部も全開も涅槃は涅槃、光には違いはない。だから、いつ死んでも仏と言える。これが救いの内容、不退の密益です。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-13 06:01 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 「総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。
  此の心にて、世間には、物もしならうなり。
  仏法には、無我にて候ううえは、人にまけて信をとるべきなり。
  理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり」と、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書160条)


 受け入れられない事実に直面すると「不条理だ!」と心が叫ぶ。事実が受け入れられないのは理屈や感情が事実より"上"にあって偉そうだからである。それを仏法では「邪見驕慢」といって嫌われる。仏のお慈悲は「理をまげて情をおる」。我慢の鼻っ柱をへし折る。こんなことは誰も望まないから、実に難信である。「人にはおとるまじき」と生存競争を生き抜いてきたが、おのれをよしとする我慢が基礎から崩壊するような事実に直面することがある。仏のお慈悲に心が向くかどうか、これもまた宿善である。縁のない人には縁がない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-12 06:03 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)