それ弥陀如来の御文

  それ、信心をとるというは、ようもなく、
  ただもろもろの雑行雑修自力なんどいうわろき心をふりすてて、
  一心にふかく弥陀に帰するこころのうたがいなきを、真実信心とはもうすなり。
  かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、
  かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、
  この機を、光明をはなちてひかりの中におさめおきましまして、
  極楽へ往生せしむべきなり。
  これを、念仏衆生を摂取したまうということなり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第五帖・第十五通)

 御文はどれも「信心を取れ」と言っている。どの御文も蓮如の信体験に裏打ちされていることは間違いない。蓮如はいつ自分が信心を取ったかを明らかにしていないし、善知識が誰かにも触れていない。まして、蓮如の信体験の実際がどのようだったかは誰も知らない。それでもここに「一心にたのみ、一向にたのむ衆生」とあるは、苦労して信を聞きとげた蓮如自身の姿であったのだろうし、「かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして」とあるは、仏さまに見守っていただいていたことをわたしは知らずにいたが、いま、そのことを初めて知った、と。その喜びは蓮如自身の体験だったに違いない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-28 06:05 | 御文を読む | Comments(0)

出家発心の御文

  『和讃』にいわく、
  「弥陀の報土をねがうひと 外儀のすがたはことなりと
  本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」(高僧和讃)といえり。
  「外儀のすがた」というは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。
  つぎに「本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」というは、
  かたちはいかようなりというとも、
  またつみは十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなれども、回心懺悔して、ふかく、
  かかるあさましき機をすくいまします、弥陀如来の本願なりと信知して、
  ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにして、わすれざるを、
  本願たのむ決定心をえたる、信心の行人とはいうなり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第一帖・第二通)

 南無とはわたし、阿弥陀仏は仏さま。南無阿弥陀仏は仏さまとわたしが一緒の姿を現す言葉です。仏さまがわたしを憶念するから、わたしが仏さまを憶念する。仏さまがわたしを忘れないから、わたしは仏さまを忘れない。このことを「憶念の心つねにして」といいます。いつも仏さまと二人暮らしだから、いつでも、どこでも念仏が自然に出てくる。わたしがわたしでいられるのはいつも仏さまに憶われているからで、自分が誰なのかを見失わないのはいつも仏さまに見守っていただいているからです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-27 06:18 | 御文を読む | Comments(0)

ある人いわくの御文

  古歌にいわく
  うれしさを むかしはそでに つつみけり 
  こよいは身にも あまりぬるかな


  「うれしさをむかしはそでにつつむ」といえるこころは、
  むかしは、雑行・正行の分別もなく、
  念仏だにももうせば、往生するとばかりおもいつるこころなり。

  「こよいは身にもあまる」といえるは、
  正・雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうえに、
  仏恩報尽のために念仏もうすこころは、おおきに各別なり。
  かるがゆえに身のおきどころもなく、おどりあがるほどにおもうあいだ、
  よろこびは、身にもうれしさが、あまりぬるといえるこころなり。
  あなかしこ、あなかしこ。  

  文明三年七月十五日  (以上、一部抜粋)

  (御文・第一帖・第一通)

 文中、「かるがゆえに身のおきどころもなく、おどりあがるほどにおもうあいだ、よろこびは、身にもうれしさが、あまりぬるといえるこころなり」とは、蓮如上人ご自身の信体験の告白であろうと思われる。「①正・雑の分別をききわけ、②一向一心になりて、③信心決定のうえに、④仏恩報尽のために念仏もうす」とは、まさに信心を獲得するプロセスを極めて簡便に述べたと言っていい。

 すなわち、「①正・雑の分別をききわけ」とは聴聞の深まりとともに、念仏一つになっていく信仰の姿であり、「②一向一心になりて」とは深く心の深層に降りていく信仰の深まりを示している。この頃には、右も左も、なにがわからないかもわからない疑いの塊になっている。長い瞑想状態が一瞬に弾けて「③信心決定」の体験を得るのです。一帖目第一通、最初の御文に蓮如は「身のおきどころもなく、おどりあがる」自らの信楽体験を示したのです。文明三(1471)年、親鸞滅後二百十年、蓮如五十七歳の御文です。いつ信を得たかはわからない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-26 06:01 | 御文を読む | Comments(2)

安心の一義の御文

  帰命というは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、
  阿弥陀仏後生たすけたまえと、一向にたのみたてまつるこころなるべし。
  このゆえに、衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
  これによりて、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆえに、
  「南無阿弥陀仏」の六字のすがたは、すなわちわれら一切衆生の、
  平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第五帖・第九通)

 御文はどれを読んでも同じようなことが書いてあって退屈してしまう。きっと、そうなのでしょうが、御文には仏法の核心中の核心、大切なことしか書いていないともいえる。たとえば「たのみたてまつるこころ」です。みな「たのむ」のは簡単なことのように思っているが「一向にたのみたてまつるこころ」にはなれないと知るべきでしょう。なぜ、なれないかと言えば、阿弥陀仏を「たのむ」ことは「自分の心」への執着を捨てることだからです。自分の心と一体化してしまっているから、執着を捨てることの意味すらわからないに違いない。

 その前にある「もろもろの雑行をすて」にも注目してほしい。どういうことかといえば、信仰から逃げようとするわたしに逃げ道がどんどんなくなって、信仰が深まっていく姿です。自分で退路を断つことはできないから、これは仏のお育てです。聴聞の深まりとともに、どんどん心が追い詰められていく。すっかり追い詰められて、この頃は念仏一つになっている。右も左もわからなくなって、最後は二者択一になる。仏を選ぶか、自分を選ぶか。ここまで来て、ようやく「たのむ」です。仏を選ぶ。すべて仏のお育てです。

 「阿弥陀仏後生たすけたまえと、一向にたのみたてまつるこころ」になるのは永劫にわたる仏のお育てですから、「南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のたすけまします」のは当然といえば当然です。たのませるのが仏なら、たすけるのも仏、すべて仏のお育てです。親鸞は信心を取った喜びを「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証・総序)と言いましたが、よくぞよくぞ、逃げ回ってばかりいたわたしを救ってくださった。わたしにすれば「たまたま」だが、仏にすれば救わんとして救った。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-25 06:07 | 御文を読む | Comments(2)

浄土のさとり

(歎異抄・第五条・その二)

  わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、
  念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
  ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、
  六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、
  神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々

  (歎異抄・第五条)

  浄土のさとりは、無生無滅のさとり、本来のさとり、常住の世界を感得する。
  われわれは無常の世界を顛倒して常住と執するのを自力という。
  その無常感に即して無常を無常と感ずる。
  そこにその無常の彼岸に常住の世界を感ずる。それが浄土のさとりである。
  だから、自分のほうより常住の世界をさとろうと、
  がらにない傲慢な自力のはからいをすてて、
  如来の大願業力にしたがって常住のさとりを開く。
  如来の願力の中に常住の世界を感得していくのが横超の道である。

  (歎異抄聴記225ページ)

 永遠から声がする。われを呼ぶ声がする。声に呼ばれてここまで歩んで来た。声の主は誰であろうか。それを尋ねての聴聞であった。聴聞は機の深信で我執の太い綱を磨り減らす。しかし、我執の綱は切れない。我執を落とそうとする努力がすでに我執であったと気づくまでが大変である。永遠から呼ぶ声に耳を澄ませているうちに、やがて声の主と心がつながる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-24 06:07 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

三世因果の理

(歎異抄・第五条・その一)

  親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
  そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第五条)

  「そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」。
  これは三世因果がでている。三世因果とは、仏法以外にない。
  この三世因果というのは、仏教のひとつの歴史観。
  今日、三世因果といっても、だれもほとんどうけつけないと思う。
  人間の理知を主とする学問では、絶対に了解できない。
  やはり宿業本能にかえって、三世因果という深い広大無辺の世界というものがある。
  
  「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」。これがつまり仏の大慈悲心。
  「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」という因縁をもって、
  仏とわれわれとのあいだに深いつながりを持つ。
  「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」ということを、
  三世因果の理をすなおにうけとることは、まことにすなおな宿善開発の人にして、
  はじめてできることで、なかなかすなおにうけとれない。

  (歎異抄聴記217ページ)

 「一切の有情」とは身体に蓄積された煩悩悪業のことです。命が受け継ぐ身体には無量の煩悩悪業の蓄積がある。この煩悩悪業の蓄積ゆえに、あらゆる命の個体が幾度も幾度もいろいろの生きものに姿を変えて生まれ変わってくる。この煩悩悪業が「世々生々の父母兄弟」です。永劫に尽きぬ無量の煩悩悪業の蓄積「一切の有情」がある限り仏の救いの事業に終わりはない。


 すでにわれらは仏に救われた。よって、仏となれば「一切の有情」を救うことができる。三世にわたる仏の救済事業はわれわれが救われたことですでに証明されている。現在の「一切の有情」はどこから来たか。現在の「一切の有情」は救われずに何処へ行くか。「三世因果という深い広大無辺の世界というものがある」という量深師の言葉にうなずかざるを得ない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-23 06:04 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

大聖世尊の御文

  それ、倩人間のあだなる体を案ずるに、
  生あるものはかならず死に帰し、
  さかんなるものはついにおとろうるならいなり。
  さればただいたずらにあかし、いたずらにくらして、
  年月をおくるばかりなり。
  これまことになげきてもなおかなしむべし。
  このゆえに、上は大聖世尊よりはじめて、
  下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。
  しかればまれにも、うけがたきは人身、あいがたきは仏法なり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第三帖・第四通)

 死ねば終わりと本心ではそうなのでしょう。だから、因果が三世にわたるとも知らずにこの世と命を楽しんでいる。しかし、どこか満足がないのはなぜだろうか。生きている間は家族や仲間と賑やかにやってきたが、独来独去、死ぬときは一人で死んでいく。さぞかし寂しかろう。だが、誰もあなたを助けられない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-22 06:04 | 御文を読む | Comments(2)

御浚えの御文

  そもそも、今度一七か日報恩講のあいだにおいて、
  多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定し給えるよしきこえたり。
  めでたく本望これにすぐべからず。
  さりながら、そのままうちすて候えば、信心もうせ候うべし。
  細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせといえる事ありげに候う。 (以上、一部抜粋)


  (御文・第二帖・第一通)

 一度の報恩講で同時にたくさんの念仏者が生まれるとは今では考えられないような仏法興隆の時代です。「大略信心を決定し給えるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず」と、それをさも当然のように受け止める蓮如の口振りが凄い。どんな報恩講であったか想像もつかない。信心を取る体験は踊躍歓喜といって本人にははっきりとした体験であるが、一と月もすると興奮が冷めて、それがどんな体験だったかもわからなくなる。

 わからなくなった後、その微妙な感触を壊さないように、その感触を思い出し確かめるように聴聞が始まるのです。そのことがあるので蓮如は「細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせ」と指導するのでしょう。体験は二度は起きない。一度きりの信体験を確かめ確かめ、体験を言葉にする作業が生涯にわたって続くのです。針の先ほどの光だった智慧が少しずつ光を増していく。その自信のプロセスがそのまま教人信になるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-17 06:01 | 御文を読む | Comments(0)

浄土門の慈悲

(歎異抄・第四条)

  慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。
  聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
  しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
  浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、
  大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
  今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、
  存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
  しかれば、念仏もうすのみぞ、
  すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

  (歎異抄・第四条)

  第四条は、聖道門の慈悲と浄土門の慈悲に差別あり。
  文章からいえばそうなっているが、内容、帰趣からいえば、
  念仏大悲、念仏こそ大悲の行であることをのべたのである。
  別にわれらがこちらから慈悲をおこなうのではない。
  われわれが慈悲心をおこしてものを救うことはできないことで、
  むしろわれわれ自身、慈悲の対象であることを痛感するところに、
  おのずから他人を感化することができる。自信教人信である。
  自信のほかに教人信なし、自信おのずから教人信である。
  この文章は別にむずかしくない。

  (歎異抄聴記199ページ)

 人が念仏に遇って救われていくというような大事業は仏だけのお仕事です。われらは救われる者であって救う者ではない。自らも救えなかった者がなんで人を救えようか。人にはみな仏のお心がかけられているのであって、わたしが口挟むような場面はどこにもない。どこまでも自信があるばかりで、自信の人を見て、それを法縁として念仏称える人があれば、それもまた仏のお仕事、仏のお手柄で、わたしの手柄などどこにもない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-16 06:01 | 歎異抄聴記を読む | Comments(2)

大信心は仏性なり

  信心よろこぶそのひとを  
  如来とひとしとときたまう
  大信心は仏性なり
  仏性すなわち如来なり

  (浄土和讃)

  釈迦弥陀は慈悲の父母
  種種に善巧方便し
  われらが無上の信心を
  発起せしめたまいけり

  (高僧和讃)

  信心の智慧は、無生法認をさとるのが信心の智慧である。
  生死は身体にある。われわれの心は無生無滅のものである。
  心が物の奴隷になっていると、心も身体と同様に生も死もあるが、
  心が独立して身体を支配することが出来るなら無生無滅である、
  それを無生法認という。

  (津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)


 身体は物質です。身体を自分だと思って身体に縛られている心は身体が滅べば自分も死ぬと恐れる。しかし、身体の色や性別、特徴は違っても、一個一個の身体には「仏性」という仏の心が埋め込まれている。身体が生まれ死んでも仏性は一つです。仏性は永遠に一つで、その働きは変わらない。この身体に深く埋め込まれた仏性を呼び覚まそうというのが弥陀の本願です。身体は仏性を納めておく箱で大切にしなくてはならないが、わたしは箱ではなく仏性です。わたしがわたしを取り戻すために聴聞しているのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-15 06:00 | 曽我量深師の言葉 | Comments(0)