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(歎異抄・第一条・その五)

  (1)弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
  すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

  (2)弥陀の本願は老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。

  (3)そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。

  (4)しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。
  悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

  (歎異抄・第一条)

  ゆえに第一条の本文をみると、はじめの一段は行である。念持である。
  念持の行体について信心為本をあきらかにし、信の意義をあきらかにして、
  信をとおして念持の行が成就して現生不退の益をうるのが第一条のおこころとする。

  第二条は「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
  すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」を、くわしくのべるのが第二条である。

  「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。
  そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」。
  この意義をあきらかにするのが第三条である。

  第四条から第八条までは「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、
  念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、
  弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」。
  「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」、
  この最後の一句を詳述するのが第九条である、と香月院師は述べておられる。

  (歎異抄聴記104ページ)

 曽我量深師の『歎異抄聴記』を読んでいます。わたしは学問をしたことがありませんが、量深師の著書を読むたびに「学問とはすごいものだ」と、ただただ感心しています。この書も何度読んだか忘れましたが、読むだけで楽しい本はそうないと思います。ぜひとも読んでみてください。以上、第一条を読み終わりました。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-31 06:09 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

現生不退の自証の内面

(歎異抄・第一章・その四)

  しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、
  念仏にまさるべき善なきゆえに。
  悪をもおそるべからず、
  弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

  (歎異抄・第一章)

  第一条を拝読すると、「しかれば本願を信ぜんには、
  他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。
  悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々」、
  これが現生不退の自証の内面をえがきだしたのである。
  これ以外に現生不退ということはない。現生不退とはなんぞ。
  これが現生不退の自覚自証である。これが現生不退の心境である。
  この意義を『歎異抄』一部ぜんたいにわたってあきらかにされた。
  これが『歎異抄』が今日、求道のひとびとがみな『歎異抄』を尊重し、
  『歎異抄』にひかれ、『歎異抄』に解決をうることは、
  『歎異抄』によって現生正定聚の智眼をひらかせてもらえるからである。

  (歎異抄聴記17ページ)

 悪とはわたしの心のことです。悪は価値がない。わたしの心に執着するから、なんとしても善にしたい。心の善し悪しにこだわる。心を価値あるものと思いたい。自分の心に執着するから悪を畏れる。心に執着するがゆえに自我を見る。しかし、我執が落ちればもともと無我、すなわち仏です。よって「悪をもおそるべからず」とは我執が落ちた。わたしの心から仏の心へと主体が転じた。もともと仏だったから必ず仏になるとわかった。すなわち、仏が仏になるから「現生不退」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-30 06:02 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

罪悪深重

(歎異抄・第一条・その三)

  そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。

  (歎異抄・第一条)


  罪悪深重とは罪悪を感じる感じが深いことである。
  底知れない如来の大慈悲心の中に自分の罪悪を感じる。
  この罪悪は宿業であり宿悪である。
  すべてこの宿業に悩まされている苦悩の衆生をすてずして、
  この苦悩の衆生をたすける。
  苦悩の衆生に南無阿弥陀仏の名号を回向する。

  南無阿弥陀仏を回向して、そして南無阿弥陀仏の主として、
  万善万行恒沙の功徳の主として、
  そしてそれによってわれらの罪もさわりも、あっても消滅する。
  それは個人としてはいかなる罪も犯しているようであるが、
  しかしながらすべての罪も罪悪も宿業である。
  善悪は宿業であると知らしていただいたところにおたすけがある。

  (歎異抄聴記98ページ)

 仏はあちら、彼岸に在す。われらはこちら、此岸にいる。仏の眼はあちらからこちらをご覧になる。人の眼はこちらからあちらを見る。此岸に居るから此岸は見えない。人の眼では見えない此岸を仏の眼で見せていただく。宿業とはわが身の事実だから自分では見えない。見えない宿業を仏から見せていただいた。「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」、すなわち「悪人」と教えていただいた。自分の心を見えるようにしていただいたので、これを回向という。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-29 06:16 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

疑蓋無雑の信心

(歎異抄・第一条・その二)

  弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。
  ただ信心を要とすとしるべし。

  (歎異抄・第一条)

  すべて如来の本願にまかせて念仏申す信心、
  疑蓋無雑の信心、一点の凡夫自力の機のはからいをもすてて

  如来の本願に随順する純粋の信心を要とすと仰せられるのである。
  なぜ信心をもって肝要とするかというと、罪悪深重である。
  ただ信心だけはいっさいの自力の機のはからいをすてて、
  自力無効としてもっぱら深く如来をたのむ信心、
  それに対して罪悪深重という。
  本願を深く信ずる人はやはり深く自分の罪悪を信ずる。

  (歎異抄聴記96ページ)

 「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(後序)とは機の深信、信心の智慧です。救われない身と知ったことが智慧の回向で、救われない身と知ってわれらは救われる。生死流転とは、心に執着するゆえに主体としての“わたし”を妄想したが、我執さえ落ちてしまえば本来は無我、もともと仏です。流転する主体がないのだから生死はない。我執からなんとか離れさせたいというのが弥陀仏のお骨折りです。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-28 06:11 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

念持の大道

(歎異抄・第一条・その一)


  弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
  すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

  (歎異抄・第一条)

  善導大師の『定善義』の「念仏衆生摂取不捨」のお釈のところに、
  「衆生起行して、口に常に仏を称すれば、仏すなわちこれを聞きたまう。
  身に常に仏を敬礼すれば、仏すなわちこれを見たまう。
  心に常に仏を念ずれば、仏すなわちこれを知りたまう。
  衆生仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまう。彼此の三業相捨離せず」とある。
  摂取はすなわち憶念である。不捨というのは、「彼此の三業相捨離せず」。

  われわれは、念仏をとおして如来の憶念を感ず。
  念仏とは憶念。われわれは名号において、名号即称名において如来の憶念を感ずる。
  感ずることはすなわち如来を憶念することである。
  すなわち「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」、
  すなわちの時に摂取不捨の利益にあずけしめてくださる。
  かくして総じて念持の大道を示された。

  (歎異抄聴記94ページ)

 まことに尊い。よくよく味わってほしい。「念仏とは憶念。われわれは名号において、名号即称名において如来の憶念を感ずる。感ずることはすなわち如来を憶念することである」と。このままが信心の内容です。仏の心と心通じ合う、その一瞬に仏の方からわたしが見える。わたしが見えることを「智慧」といいます。智慧を回向されたのです。わたしが見えたことが救われたことです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-27 06:15 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

二種深信

  「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。
  また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
  曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。
  二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、
  疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。

  (教行信証・信巻「観経疏」引用部分)


 二種深信は信心の内容です。救われないと知る智慧はわたしの中にはない。わたしの中にないのだから「回向」という。救われないと知ることが救われたことである。はっきりしている。わたしの本心はどこまでも「この心のままで」救われたい。それは無理だと二種深信が教えている。救われないのはわたしの心、救うのは仏の心。わたしの心は地獄行きと決まっている。わたしの心が成仏するのではない。仏の心が成仏する。ここがはっきりするのが二種深信。仏の心が成仏する。だから「必至滅度」という。仏が仏になるのだから間違いない。それゆえ「他力」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-26 06:17 | 教行信証のこころ | Comments(0)

先師の口伝の真信

(歎異抄・漢文序)


  ひそかに愚案を回らしてほぼ古今をかんがうるに、

  先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、
  さいわいに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや。

  (歎異抄・漢文序)

  この先師口伝の真信とは、これすなわち機法二種深信である。
  善導大師の『散善義』ならびに『往生礼讃』に二種深信をあきらかにしてある。
  『歎異抄』に信心というは、二種深信のことである。
  信心とはなんであるかといえば、定散自力の心行に対して、
  ほんとうに無善造悪の機に念仏往生の誓願をいただく、これが二種深信である。

  (歎異抄聴記15ページ)

 竹内先生は「仏は救われない者を救う」とよく言われた。救われない者は救われないとの自覚がない。自覚がないことが救われないということです。自覚があればすでに救われている。救われないままに救われている。救われない者に救われないとの自覚を与えて救うのが仏です。「無善造悪の機に念仏往生の誓願をいただく、これが二種深信である」といえば難しいが「仏は救われない者を救う」(働きである)といえばわかる。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-25 06:42 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

  一 勧修寺の道徳、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、

  蓮如上人、おおせられそうろう。
  「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。
  自力の念仏というは、念仏おおくもうして仏にまいらせ、
  このもうしたる功徳にて、仏のたすけたまわんずるようにおもうて、となうるなり。
  他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり。
  そののち念仏もうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと、
  おもうこころをよろこびて、南無阿弥陀仏に自力をくわえざるこころなり。
  されば、他力とは、他の力というこころなり。
  この一念、臨終までとおりて往生するなり」と、おおせそうろうなり。

  (蓮如上人御一代記聞書1条)

 竹内先生が蓮如について語るのを聞いたことがない。あまり好きではなかったのだと思う。「親鸞には嘘がない。だから、ついていける」と言っていたことを思い出します。初めて御文を読んだとき「蓮如には懺悔がない」と思った。いわば、蓮如は教化者として弟子や門徒衆の方を見ている。だから、わたしたちは自ずと蓮如の顔ばかりを見ることになる。一方、親鸞はといえば、親鸞はいつも頭を低くして仏の方を仰いでいる。だから、わたしたちは必然、親鸞の頭の後ろと背中だけを見ることになる。

 例えていえば、蓮如は決して間違いをしない偉大な教師のようだが、親鸞は研究室の片隅で黙々と勉強している一学究のようです。困ったらいつでも相談に乗ってくれる威張らない先輩のようだと、そんな勝手な印象を持っている。さて、時期が来たようなので、今回で『蓮如上人御一代記聞書』を読むシリーズを終わりにします。「他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり」。お聖教のすべてはこの「一念のおこるとき」だけを伝えようとしています。これからも共に聴聞してまいりましょう。善及

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-24 06:17 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 「信をとらぬによりて、わろきぞ。ただ、信をとれ」と、仰せられ候う。
  善知識の、「わろし」と、仰せられけるは、信のなきことを、「わろき」と、仰せらるるなり。  
  しかれば、前々住上人、ある人を、「言語道断、わろき」と、
  仰せられ候うところに、その人、申され候う。
  「何事も、御意のごとくと存じ候う」と、申され候えば、仰せられ候う。
  「ふつとわろきなり。信のなきはわろくはなきか」と、仰せられ候うと云々

  (蓮如上人御一代記聞書186条)

 聴聞の目的は信を取ることだから、蓮如上人は「信をとらぬによりて、わろきぞ。ただ、信をとれ」と弟子を叱る。信を取る以外に聴聞する理由はないから、蓮如上人、ある弟子を「言語道断、わろき」と厳しく叱ったら、この弟子、師匠に口答えした。「何事も、御意のごとくと存じ候う」と。信が取れないのは師匠のせいだと言わんばかりだ。「お前はまったくわかっていない」と、蓮如上人はがっかりした。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-23 06:25 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

仏法をあるじとし

  一 「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といえり。
  「仏法のうえより、世間のことは時にしたがい、相はたらくべき事なり」と云々

  (蓮如上人御一代記聞書157条)

 仏法を学ぶために生きている。世間のことが邪魔になって仏法が学べないようではなんのために生きているかわからない。仏法を学ぶ邪魔にならないように、世間のことはそこそこ適当に処すべきです、と。意訳するとこんな感じでしょうか。われらは信を取るために聴聞している。聴聞して信を取ることだけが生きる意味だと、この法語は訴えている。人生の意味を見つけるために仏法を学ぶのではない。仏法を学ぶことが人生の意味です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-22 06:12 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(2)