善及に改めます

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2004年4月、ネット上で文章を書き始めたのは五十才、そのときの名は濁川(だくせん)でした。今使っている全休(ぜんきゅう)に改めたのは2010年9月です。七年が経過しました。今日から「善及」(ぜんきゅう)に名を改めることにしました。とくに意味はありません。

南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-26 06:04 | このブログのこと | Comments(2)

  一 「日比しれるところを、善知識にあいてとえば、徳分あるなり。
  しれるところをとえば徳分ある、といえるが、殊勝のことばなり」と、
  蓮如上人、仰せられ候う。
  「知らざる処をとわば、いかほど殊勝なることあるべき」と、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書82条)

 試みに現代語訳。いつも聞いているからよく知っていると思っていることほど、信心の人に会って改めて聞いてみると、その味わい方がまったく違っていて、得るところが多いのであると、そういう言葉がある。知っていることをさらに深く掘り下げて聞くことの大切さを教えていて、とてもいい言葉だと思う。聴聞は勉強ではない。知らないことを聞いて知識が増えたからといって、それがなんだろうと、蓮如上人は言われました。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-24 06:33 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 信心というは、弥陀を一念、御たすけそうらえとたのむとき、
  やがて御たすけあるすがたを、南無阿弥陀仏ともうすなり。
  総じて、つみはいかほどあるとも、
  一念の信力にて、けしうしないたまうなり。(以上、一部抜粋)

  (蓮如上人御一代記聞書3条)

 蓮如上人の言葉。「御たすけそうらえとたのむとき」信心が得られる。「やがて(すぐに)御たすけある」という。なにから「助けてほしい」のか。それはあなただけしか知らない。「たのむ」のは助ける力があるからです。すでに仏は助けるとお約束している。「たのむ」だけでいい。無始劫以来、無量無数の衆生が救われてきた。いま、現に在(ましま)す。あなたを助けない、あなたを助ける力がないということはない。たのむだけなのに、なぜ、あなたはたのまないのか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-22 09:19 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

無生の生とは

  一 無生の生とは、極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、
  極楽の生は無生の生というなり。

  (蓮如上人御一代記聞書36条)

 三界を経巡るには経巡る主体が必要だが、そもそも主体がないから生まれたということがない。生まれたということがないから死ぬということがない。すべては因縁が因縁し、因縁が結び、因縁が解(ほど)けるだけのことだ。このように知ることを無生法認という。無生法認は信心の智慧だから、信心の人は(心は)すでに無生無滅の涅槃(浄土)の中にいる。いまさら死んで生れる処などない。死んで生れる処がないので「無生の生」という。極楽に生まれるとも、仏になるともいう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-21 06:15 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 蓮如上人、兼縁に対せられ、仰せられ候う。
  「たとい、木の皮をきるいろめなりとも、なわびそ。
  弥陀をたのむ一念をよろこぶべき」由、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書110条)

 蓮如上人が息子の蓮悟に言った言葉。「たとえ木の皮を着るような貧しい生活でも侘しく思うことはない。信の一念を経験した身であることを喜ぶべきである」と。生まれたら死ぬだけの命です。経済的な豊かさを誰もが当たり前の様に求めているが、生きるためにしたことは生きるためにしたことでしかない。命が大切なのは命より大切なことをするための命だからです。命より大切なことがない人生は空しい。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-19 06:12 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

回向というは

  一 「回向というは、弥陀如来の、衆生を御たすけをいうなり」と、
  おおせられそうろうなり。

  (蓮如上人御一代記聞書37条)

 竹内先生の下で聴聞を始めた頃は、歎異抄を読んでいた程度で、真宗教義はまったく知らなかった。そこで初めて教えていただいたことが「仏とは智慧を与えて救う働きである」ということだった。勿論のこと、なんのことだかまったくわからない。何年かして、わたしが真宗のことが少し分かった気がしたのは〈他力回向〉いうことを理解できるようになってからだったように思う。他力回向ということがわかればお聖教がよく読めるようになる。

 さて、蓮如上人の言葉です。どうやって仏は衆生を助けるかといえば、智慧を回向して助ける。あなたはあなたの心に縛られている。心に執着するから心に縛られる。子に執着して子に引摺り回されるように、心に引摺り回されて、心が造るあらゆる苦悩をなめることになる。だから、助けるとは、あなたの心からあなたを助け出す。自分の心に執着して心に狂っていることに気づかせる。それが智慧の回向です。あなたは自分の心を仏の眼で見る。心を見ると心が心を離れる。これが「助かる」ということです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-17 06:06 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

自然法爾のこと

*1 信心獲得の獲得について。獲得の獲は菩薩の位で悟るので獲といい、獲得の得は果位に至って悟るので得といいます。弥勒に等しいと称えられる凡夫のさとりは如来回向の信心で、信心の中身は仏のさとりと因果同質のさとりなので、信心獲得といいます。また、名号について。南無阿弥陀仏という仏のお名前は因位におけるさとりのお名前を名とお呼びし、果位におけるさとりのお名前を号とお呼びします。因位の信心をいただいた凡夫の姿が南無阿弥陀仏なら、凡夫の果位に至っての姿も南無阿弥陀仏。因位も果位も因果同質のさとりなので名号といいます。さて、果位の仏のさとりが因位のわたしに届くことを自然法爾といいますが、その自然法爾ということについて。

*2 自然法爾ということ。まず、自然について。自然の自は自ずからという意味の言葉です。わたしの意志に関係なく、あちら側から働いてくるお力がある。自ずからとはそういう意味が含まれている。次に、自然の然もまた、自ずからそうなるという意味の言葉で、自ずからそうなるというのは、こちら側、わたしの意志ではなく、あちら側、つまり如来のお誓いだから、自ずからそうなるというのです。如来のお誓いはわたしの意志に関係なく働くから、そのことを自然というのです。

*3 次いで、法爾について。法爾というは如来のお誓いのことだから、自ずから働くので法爾といいます。法爾は如来のお誓いだから、わたしの意志とはまったく関係なく働く。わたしの意志とはまったく関係がなく働くから、わたしの努力はなにもいらない。すでに法のお力が働いてくださっていて、わたしを救う働きを現してくださったので、わたしはもうなにもすることがない。だから、わたしはなにもしない。このゆえに「他力には義なきを義とす」(法然上人のお言葉)と教えていただいております。

*4 さて、改めて自然について。自然とは元々、自ずからそのようになるという意味の言葉です。弥陀仏のお誓いとは、わたしの努力をすべて捨てて、南無阿弥陀仏と頼んだとき、その者をわが心の中に迎え入れようとのお約束ですから、頼んだ者は必ず救われるのです。救われた証拠には、善悪、好き嫌いを言う心がなくなります。わたしの意志に関係なく、弥陀仏のお誓いは必ず成就してわたしを救うので、自ずからそうなるという意味で、弥陀仏のお誓いを自然というと教えていただいております。

*5 弥陀仏のお誓いの内容はなにかと言えば、わたしをこの上ない仏にしようとお約束されたことです。この上ない仏とは目に見えない救いの働きのことをいいます。働きは目に見えない。目に見えないから自ずから然りです。形あるものは物であり心ではない。さとりの智慧は目に見えない。見えないから救いの働きという。形なくして働く救いの働きを、それと教えるために阿弥陀仏のお姿になって現れてくださった。そのお姿を拝して、救われよと、そうお聞きしております。

*6 救いの働きである弥陀仏のお誓いがすでにわたしにかけられている。法爾に自然に働くという道理の道筋がのみ込めたら、あとは、弥陀仏のお誓いを信じるばかりです。汝を救うというお約束なのだから、われらには信じてお任せする一事しかない。それが「義なきを義とす」ということです。信じて念仏するだけで仏になる。こんな不思議なことはありません。それで仏智の不思議と申し上げます。愚禿親鸞八十六歳。

*7 この文書は、正嘉二(1258)年十二月十四日、親鸞聖人の御歳八十六歳のおり、関東から上京した弟子の顕智が、善法坊僧都御坊、三条富小路の坊にて、いくつかの疑問点についてお尋ねし、それについてのお答えを、顕智が聞き書きしたものです。(以上、善及訳)

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-08 06:17 | 仏からの道・資料集 | Comments(0)

 この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。愚禿親鸞八十六歳


 正嘉二歳戊午十二月日、善法坊僧都御坊、三条とみのこうじの御坊にて、聖人にあいまいらせてのききがき。そのとき顕智これをかくなり。


(末燈鈔・第五通)

 救いの働きである弥陀仏のお誓いがすでにわたしにかけられている。法爾に自然に働くという道理の道筋がのみ込めたら、あとは弥陀仏のお誓いを信じるばかりです。汝を救うというお約束なのだから、われらには信じてお任せする一事しかない。それが「義なきを義とす」ということです。信じて念仏するだけで仏になる。こんな不思議なことはありません。それで仏智の不思議と申し上げます。愚禿親鸞八十六歳。

 この文書は、正嘉二(1258)年十二月十四日、親鸞聖人の御歳八十六歳のおり、関東から上京した弟子の顕智が、善法坊僧都御坊、三条富小路の坊にて、いくつかの疑問点についてお尋ねし、それについてのお答えを、顕智が聞き書きしたものです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-07 06:13 | ご消息集のこころ | Comments(0)

 自然というは、もとよりしからしむということばなり。弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききて候う。ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。無上仏ともうすはかたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめて弥陀仏とぞききならいて候う。みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり。


(末燈鈔・第五通)

 さて、改めて自然について。自然とは元々、自ずからそのようになるという意味の言葉です。弥陀仏のお誓いとは、わたしの努力をすべて捨てて、南無阿弥陀仏と頼んだとき、その者をわが心の中に迎え入れようとのお約束ですから、頼んだ者は必ず救われるのです。救われた証拠には、善悪、好き嫌いを言う心がなくなります。わたしの意志に関係なく、弥陀仏のお誓いは必ず成就してわたしを救うので、自ずからそうなるという意味で、弥陀仏のお誓いを自然というと教えていただいております。

 弥陀仏のお誓いの内容はなにかと言えば、わたしをこの上ない仏にしようとお約束されたことです。この上ない仏とは目に見えない救いの働きのことをいいます。働きは目に見えない。目に見えないから自ずから然りです。形あるものは物であり心ではない。さとりの智慧は目に見えない。見えないから救いの働きという。形なくして働く救いの働きを、それと教えるために阿弥陀仏のお姿になって現れてくださった。そのお姿を拝して、救われよと、そうお聞きしております。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-06 06:15 | ご消息集のこころ | Comments(0)

 自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむるということばなり。然というはしからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。法爾というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。法爾はこのおんちかいなりけるゆえに、すべて行者のはからいのなきをもって、この法のとくのゆえにしからしむというなり。すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり。


(末燈鈔・第五通)

 自然法爾ということ。まず、自然について。自然の自は自ずからという意味の言葉です。わたしの意志に関係なく、あちら側から働いてくるお力がある。自ずからとはそういう意味が含まれている。次に、自然の然もまた、自ずからそうなるという意味の言葉で、自ずからそうなるというのは、こちら側、わたしの意志ではなく、あちら側、つまり如来のお誓いだから、自ずからそうなるというのです。如来のお誓いはわたしの意志に関係なく働くから、そのことを自然というのです。

 次いで、法爾について。法爾というは如来のお誓いのことだから、自ずから働くので法爾といいます。法爾は如来のお誓いだから、わたしの意志とはまったく関係なく働く。わたしの意志とはまったく関係がなく働くから、わたしの努力はなにもいらない。すでに法のお力が働いてくださっていて、わたしを救う働きを現してくださったので、わたしはもうなにもすることがない。だから、わたしはなにもしない。このゆえに「他力には義なきを義とす」(法然上人のお言葉)と教えていただいております。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-05 06:29 | ご消息集のこころ | Comments(0)