善及に改めます

e0361146_21095342.jpg


2004年4月、ネット上で文章を書き始めたのは五十才、そのときの名は濁川(だくせん)でした。今使っている全休(ぜんきゅう)に改めたのは2010年9月です。七年が経過しました。今日から「善及」(ぜんきゅう)に名を改めることにしました。とくに意味はありません。

南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-26 06:04 | このブログのこと | Comments(2)

無明のさけにえいふして

  もとは、無明のさけにえいふして、

  貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ、
  このみめしおうてそうらいつるに、
  仏の御ちかいをききはじめしより、
  無明のえいも、ようようすこしずつさめ、
  三毒をもすこしずつこのまずして、
  阿弥陀仏のくすりをつねにこのみめす身となりて
  おわしましおうてそうろうぞかし。

  (親鸞聖人御消息集・広本・第一通)

 試みに現代語訳。かつて、まだ仏法を聞く前のみなさんは、自分の心がどのようかの反省もなく、ただ、心にまかせて、これが欲しい、あれが嫌いと、放佚無慙な生き様で、決して心の内側に目が向くことはありませんでしたね。それが仏の御促しにより法を聞くようになってからは、自分の心を見ることが少しはできるようになり、欲しい心や、怒り腹立ちの心とも少しは距離が取れるようになってきたのでした。法を聞く楽しみもわかりかけてきたところです。

 さて、無明の酒に酔うということ。無明とは心を見て自分だと思うことです。心は貪瞋煩悩でできているから、あなたは心にたえまなく命令されて、ああなりたい、こうしたいと欲張り、そうならないのは人が悪いと、怨み、憎み、嫉妬して、いつも怒りにまみれた生活に明け暮れしている。怒りに巻き込まれて、常に大小の罪悪を造り続けているが、そんな心の現実にすら気づいていない。放佚無慙な生活しか知らない。

 それもこれも元はと言えば、心を見て自分だと思う無明から始まっている。心を中心とし、心を最大の価値として、心が望むことを実現することが生きる意味だと信じ込んでいるから、心に自分をすっかり奪われてしまっている。心が主人で、あなたはただ心に命令されるだけの人でしかない。心はただの因縁生起で、思いや感情は雲のように湧いたり消えたりしているだけなのに、あなたはいつまで、そんな心を相手にしているのか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-25 06:18 | ご消息集のこころ | Comments(0)

  一 「日比しれるところを、善知識にあいてとえば、徳分あるなり。
  しれるところをとえば徳分ある、といえるが、殊勝のことばなり」と、
  蓮如上人、仰せられ候う。
  「知らざる処をとわば、いかほど殊勝なることあるべき」と、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書82条)

 試みに現代語訳。いつも聞いているからよく知っていると思っていることほど、信心の人に会って改めて聞いてみると、その味わい方がまったく違っていて、得るところが多いのであると、そういう言葉がある。知っていることをさらに深く掘り下げて聞くことの大切さを教えていて、とてもいい言葉だと思う。聴聞は勉強ではない。知らないことを聞いて知識が増えたからといって、それがなんだろうと、蓮如上人は言われました。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-24 06:33 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 信心というは、弥陀を一念、御たすけそうらえとたのむとき、
  やがて御たすけあるすがたを、南無阿弥陀仏ともうすなり。
  総じて、つみはいかほどあるとも、
  一念の信力にて、けしうしないたまうなり。(以上、一部抜粋)

  (蓮如上人御一代記聞書3条)

 蓮如上人の言葉。「御たすけそうらえとたのむとき」信心が得られる。「やがて(すぐに)御たすけある」という。なにから「助けてほしい」のか。それはあなただけしか知らない。「たのむ」のは助ける力があるからです。すでに仏は助けるとお約束している。「たのむ」だけでいい。無始劫以来、無量無数の衆生が救われてきた。いま、現に在(ましま)す。あなたを助けない、あなたを助ける力がないということはない。たのむだけなのに、なぜ、あなたはたのまないのか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-22 09:19 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

無生の生とは

  一 無生の生とは、極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、
  極楽の生は無生の生というなり。

  (蓮如上人御一代記聞書36条)

 三界を経巡るには経巡る主体が必要だが、そもそも主体がないから生まれたということがない。生まれたということがないから死ぬということがない。すべては因縁が因縁し、因縁が結び、因縁が解(ほど)けるだけのことだ。このように知ることを無生法認という。無生法認は信心の智慧だから、信心の人は(心は)すでに無生無滅の涅槃(浄土)の中にいる。いまさら死んで生れる処などない。死んで生れる処がないので「無生の生」という。極楽に生まれるとも、仏になるともいう。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-21 06:15 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  如来の誓願を信ずる心のさだまる時と申すは、
  摂取不捨の利益にあずかるゆえに、
  不退の位にさだまると御こころえ候うべし。
  真実信心さだまると申すも、金剛信心のさだまると申すも、
  摂取不捨のゆえに申すなり。
  さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。
  これを、不退のくらいとも、正定聚のくらいにいるとも申し、
  等正覚にいたるとも申すなり。

  (御消息集・善性本・第二通)

 我は闇であり、闇を破る光は外からやって来る。自力は自分の心が光を発すると勘違いする。光は外からやって来るから必ず他力である。我が見えることを智慧といい、我が見えたことが救われたことである。それゆえ智慧を光といい、光を阿弥陀仏とお呼びする。光の中に闇はない。光は照らすものを選ばないから摂取不捨という。

 我が見えたら、それが光である。我が見えたのは光が届いたからである。闇の中で針の先ほどの光でも光は光である。光の方向を目指して歩き出すから不退転といい、光だけの世界を信じるから「無上覚にいたるべき心のおこると申すなり」という。未来とは光を見つけて、そちらに向かって歩みだすことをいう。あなたに未来はあるか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-20 09:15 | ご消息集のこころ | Comments(0)

  一 蓮如上人、兼縁に対せられ、仰せられ候う。
  「たとい、木の皮をきるいろめなりとも、なわびそ。
  弥陀をたのむ一念をよろこぶべき」由、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書110条)

 蓮如上人が息子の蓮悟に言った言葉。「たとえ木の皮を着るような貧しい生活でも侘しく思うことはない。信の一念を経験した身であることを喜ぶべきである」と。生まれたら死ぬだけの命です。経済的な豊かさを誰もが当たり前の様に求めているが、生きるためにしたことは生きるためにしたことでしかない。命が大切なのは命より大切なことをするための命だからです。命より大切なことがない人生は空しい。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-19 06:12 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

回向というは

  一 「回向というは、弥陀如来の、衆生を御たすけをいうなり」と、
  おおせられそうろうなり。

  (蓮如上人御一代記聞書37条)

 竹内先生の下で聴聞を始めた頃は、歎異抄を読んでいた程度で、真宗教義はまったく知らなかった。そこで初めて教えていただいたことが「仏とは智慧を与えて救う働きである」ということだった。勿論のこと、なんのことだかまったくわからない。何年かして、わたしが真宗のことが少し分かった気がしたのは〈他力回向〉いうことを理解できるようになってからだったように思う。他力回向ということがわかればお聖教がよく読めるようになる。

 さて、蓮如上人の言葉です。どうやって仏は衆生を助けるかといえば、智慧を回向して助ける。あなたはあなたの心に縛られている。心に執着するから心に縛られる。子に執着して子に引摺り回されるように、心に引摺り回されて、心が造るあらゆる苦悩をなめることになる。だから、助けるとは、あなたの心からあなたを助け出す。自分の心に執着して心に狂っていることに気づかせる。それが智慧の回向です。あなたは自分の心を仏の眼で見る。心を見ると心が心を離れる。これが「助かる」ということです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-17 06:06 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  さては、おおせられたる事、
  信の一念、行の一念、ふたつなれども、
  信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
  そのゆえは、行と申すは、
  本願の名号をひとこえとなえておうじょうすと申すことをききて、
  ひとこえをもとなえ、もしは十念をもせんは行なり。
  この御ちかいをききてうたがうこころのすこしもなきを信の一念と申せば、
  信と行とふたつときけども、行をひとこえするとききてうたがわねば、
  行をはなれたる信はなしとききて候う。
  また、信はなれたる行なしとおぼしめすべく候う。
  これみな、みだの御ちかいと申すことをこころうべし。
  行と信とは御ちかいを申すなり。

  (親鸞聖人御消息集・広本・第十四通)

 親鸞の仏教を一言でいうなら「本願力回向」で、主著『教行信証』(教巻)に「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」とあります。回向とはどういうことかといえば、行も信もその主体は、わたし、こちら側ではなく、あちら側、つまり仏にあるということです。そのことを親鸞は覚信坊への返書で「行と信とは御ちかいを申すなり」と述べているのです。行も信も起こす主体は仏であり、わたしではないということです。

 わたしが念仏を称えるのは、わたしが称えるのではなく「わがなをとなえられん」(十七願)との如来のお誓いの成就、すなわち仏がわたしに称えさせるのであり、わたしが仏を信ずるのは、わたしが信じたのではなく、「信心まことならば、もしうまれずは、仏にならじ」(十八願)との仏の御促しだったのです。ここに〈わたし〉から〈仏〉への主体の転換があります。主体の転換とは自我が空じられるということで、この身に主体はないとわかる。主体がないことを無我といい、仏というのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-16 06:21 | ご消息集のこころ | Comments(0)

  十七の願に、「わがなをとなえられん」とちかい給いて、
  十八の願に、「信心まことならば、もしうまれずは、仏にならじ」とちかい給えり。
  十七・十八の悲願みなまことならば、正定聚の願は、せんなく候うべきか。
  補処の弥勒におなじくらいに、信心の人は、ならせたまうゆえに、
  摂取不捨とはさだめられて候え。

  このゆえに、他力と申すは、行者のはからいのちりばかりもいらぬなり。
  かるがゆえに、義なきを義とすと申すなり。
  このほかにまたもうすべきことなし。
  ただ、仏にまかせまいらせ給えと、大師聖人のみことにて候え。

  (御消息集・善性本・第七通)

 はからいとは思慮分別ともいいますが、竹内先生は「自己保身の知恵」と言われた。いつも完璧に自己保身したいが、諸行無常、因も縁も一瞬も止まらない。だから完璧な保身など永遠に来ない。ただの観念に過ぎない。一生涯、自己保身にあくせくして、最後は、自己保身することの出来ない死に直面する。こんなはずではなかったと悔いても遅い。「取り返しがつかないとはこのことだ」と竹内先生は言われた。

 諸行無常、変化するものは真実ではない。涅槃寂静、永遠に不変なのは涅槃だけです。死んでしまえば涅槃も意味はない。生きているうちに涅槃に接するから、いまに浄土の光を見るから、仏からの道が開けたから、だから未来が明るい。これが現生不退です。死んだ後の話ではない。「前向きに生きるなんて言っているが、どっちが前だかわからない」とも竹内先生は言われた。

 思慮分別の滅する処を涅槃といいます。生きているうちは思慮分別はなくならない。思慮分別はこの身のすることだから、なくす必要もない。不断煩悩得涅槃、思慮分別はあっても相手にしなければ“ない”のと一緒だからです。しかし、涅槃(仏)に触れる瞬間を一度は経験しなければ、仏を信ずることはできない。だから「義なきを義とす」とは仏を経験した人の言葉です。さすれば、親鸞曰く「このほかにまたもうすべきことなし」と。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-15 06:09 | ご消息集のこころ | Comments(0)