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挟まれている身

 四〇、「無始流転の苦をすてて、無上涅槃を期すること」。この『和讃』初の句は御助けありたることの有難さ、第二句は御助けあろうずることの難有さ。第一句は過去に向うての喜び、第二句は未来当果に向うての喜びなり。よくよく思えば、過去に向うての喜びと、未来に向うての喜びとは、はさまれて居る身と聴聞すれば、いよいよ難有き事也。今この二句の意、第一句にかたよれば邪見に流るる恐れあり。第二句にかたよれば機なげきに陥る過あり。よくよく考うべき也。


(香樹院語録)

 竹内先生は会座でよく使っておられたが、「機なげき」という言葉は他ではまったく聞かない。自分の罪の深さを嘆くのであるが一向に懺悔にならないのは信心の智慧がないからです。智慧とは如来回向ですから仏の方から自分が見える。宿業の身、救われない姿を見せていただく。それは紛れもないわが身の事実、鏡に映ったありのままの現実だから否定しようがない。

 ありのままの自分を見せていただいてこそ救われる。なぜか、自分は誰かがわかったから。では、自分は誰か。煩悩具足の凡夫という古着をまとった未来仏である。無量劫よりの悪業の蓄積でできた身をもって生まれてきたのは仏になるためである。それがわかって救われた。過去は罪悪深重の凡夫、未来は仏。この間に挟まれた現在は、身は凡夫、心は仏。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-30 06:08 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

甘露法

 八三、病があれば、何を食うても味がない。病がなくなれば、食うものに皆な味がある。無明業障の病をやわらげてもろうたれば、甘露の味のある御法なり。

(香樹院語録)  

 心の問題は心から出てくる。心の問題とは「思い通りにしたい」貪欲と、「思い通りにならない」怒り。貪瞋煩悩に鼻面を引き回されてヒイヒイいって奴隷のような身の上なのに、そのことに気づいていない。気づいていないことが「無明」という病である。「思い」(心)を主人とも仰いで、「思い」を実現して心を喜ばしたい。心に完全に惑わされてしまっている。これを「無明業障の病」という。心を主人とするのではなく、心の主人にならなくてはならない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-29 06:00 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

悪性やみ難し

 二四、或る人、諸国渡りの同行を泊めて、夜酒を勧めたるに、伴の同行いと見苦しく乱酔す。主人之を見て、私の心の様を見せて下されたと喜ぶ。翌朝その同行前夜のことを侘びたれば、主人また、私への意見也と喜びぬ。然るにその夜もまた酒に乱れたれば、主人大に腹立して夜の明けるを待ちて放逐せり。後に至り主人つらつら我が先になせしことの淺ましかりしを悔いて、師に逐一申し上げたれば、稽古したことや、真似したことは、なかなか続かぬものじゃ との仰せなりき。まことに悪性は凡夫の自性なれば、止めようとて止められぬもの也。仏このものを助け給う也。

(香樹院語録)

 この主人、一度は「私の心の様を見せて下された」となったが、二度目は許せなかった。人の心に期待があるから無作法が許せない。われらは無量劫以来の悪業の蓄積(宿業)でできた身を持って生まれてきたのである。悪業で染め上がった身(と心)が五十年や百年の「稽古したことや、真似したこと」(自力の修行)できれいになるはずがない。

 出来もしないことを出来ると思うのは自分の心にたっぷりと期待があるからだ。自分の心を喜ばせるための人生だから自分の心に価値がないとなれば生きてる意味がわからなくなる。だから「まことに悪性は凡夫の自性なれば」なんて、そんなひどい心だとは認めたくない。よく考えても見よ、心の問題は心から出てくる。心に苦しめられているのではないか。


 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-28 06:37 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

楽々と仏になる

 二九八、安政五年正月十日参上したれば、もはや終焉ほど近くなり給いしと承り、御枕許にて御顔を見守りまいらせて居たれば、御側におりし長五郎が、此人は江州の了信で御座ります。 と申し上げぬ。その時師は御口の中にてかすかに、昔は命にかけて御求めなされた仏法を、今は楽々と足手を運ぶばかりで、我が身が仏になることをきくのなれば、よくよく聞いて帰られよ。 との仰せなりき。

(香樹院語録) 

 香樹院師は一月二十三日になくなる。「昔は命にかけて御求めなされた」とはお釈迦様のこと。「今は楽々と足手を運ぶばかりで」とは香樹院師の所。今までは「我が身が仏になる」ほどの大事が(わたしの所で)楽々と聞けたが、「もはや終焉ほど近くなり給いし」。もう直に聞けなくなるから「よくよく聞いて帰られよ」と。安政五年(1958)は井伊直弼が大老に就任、安政の大獄が起きた。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-27 06:32 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

 一一四、学と云うは、我が身にその業の出来ることを、学と云う也。然るに、道を学び道を行うを学と思わずして、道の道理を究め、徒らに是非を争うを学と思う。ここが孔子の教ゆる、実の学と云う所にあらず。よりて学と云うは、之を師に聞くの初めより、其の教を受けとりてこれを身に行うて学ぶを、学とすと知るべし。

(香樹院語録)

 哲学と信仰は違う。哲学は知識、信仰は経験。知識は金のように所有して自分を誇る。頭がいいと自分を誇りたい人は知識のために法を学ぶ。新しい知識を喜ぶばかりで仏を経験したいとは思わない。救われないという心の渇きがないからだ。学ぶうち、それらしい説明ができるようになると、それが信心だと錯覚する。旅行のパンフを読んだことと旅行したことはまったく別物だが、読んだことが経験したことのように思い込む。そんな人はたくさんいる。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-26 06:25 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

 一六三、我等は親子夫婦の恩愛によりて、三界の繋縛を受けたるものなれば、今生に於ては割愛と云いて愛を切り捨てねばならぬことなれども、ただ浄土真宗は、妻子が可愛ければいよいよ聴聞して、恩愛のままにて往生する也。

(香樹院語録)

 この法語には「捨てられぬものを捨てよとは申されぬ」と題がついている。出家は身を捨てる。在家は心を捨てる。在家は身は捨てないから「親子夫婦の恩愛」はそのままである。そのままでいいというのが在家で、出家は煩悩を否定するから煩悩に捕らわれてしまう。あってもなくてもいいとなれば煩悩を相手にしない。煩悩はあっても煩悩の影響を受けないから「心を捨てる」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-25 06:25 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

心を責めよ

 一五三、赤尾の道宗は常に常に我が心よく聞け聞けと、われと己が心に油断してくれなといわれき。龍樹菩薩は不負心と教えたまいて、我が心に負けぬようにせねばならぬと示し給い、蓮如上人は我が心にまかせずして心を責めよとのたまう。然れば信を得ぬものも、また信を得ても煩悩強盛なるものは、自ら我が心を責めねばならぬ。

(香樹院語録) 

 自分の心の望むようにすることが「心の自由」のように思っているが、自分の心に騙されて、そのように思わされているだけのことです。自分の心の「下僕」になり下がって、心が喜びそうなことはなんでもしようというのでしょう。自分の心に縛られて「心の自由」を失っている。仏法は「自分の心の主(あるじ)」になる。信心の智慧をいただけば心を離れて心が見える。心を離れて心が本当に自由になる。これを「信を得る」という。心に心を許してはいけない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-24 06:20 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

法水は謙敬の谷に流る

 一三五、驕慢の高き嶺には、知恵の法水とどまらず。弥陀の大悲は悪人のためなれば、我が心に流れ込む知恵の水なり。この如来の法水入り満ちて、仏法の湿潤なき我が心を潤し給う。然れどもこの水は我慢心の嶺にはとどまらず。又曰く。謙とは自ら満たざるを云う。へりくだると和訓す。謙をまもれば、知恵も福徳も自ら我が身に集り来ること、低き所え水の集るが如し。我れもの識り顔のものには人が教えねども、謙りて尋ぬる時は、人は好んで教えてくれるから也。


(香樹院語録)  


 世間は俗で、仏法は聖です。はっきり区別しなくてはならない。聖は価値があり、俗は価値がないと決めることが信仰に入ることです。世間に価値はないのだから価値のないことで悩む必要はない。後生を明らかにするための短い命を大切にしたい。さて、驕慢は(世間では)自信ともいって、生存競争を生きる世渡りの知恵であるが、世間で通じる知恵も仏法の世界ではまったく役に立たない。世間は嘘とハッタリが効くが、仏はすべてをお見通しだ。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-23 06:29 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

一念とは仏の心なり

 一一八、伊勢四日市江戸屋にて御泊りの節、藤山藤七と云う同行参上して、私におきましては、一念の信一念の信と仰せらるれば、我等凡夫の一念のように、心得誤りておりました処、段々御聞かせをいただければ、如来様の一念であったと云うことが、ようよう此頃お知らせを蒙りまして御座ります、と申し上げる。師の曰く。そこえ気がついたか。

(香樹院語録)  

 「わかった」というのは(本当の)悟りではない。悟った「わたし」がいる。「わたし」が偉くて悟る。これは「無我」ではない。迷いを翻すのが悟りであって、迷いが迷いを翻すことはない。必ず翻される。翻されて迷いを迷いと知る。だから「わかった」というのは本当の悟りではない。「わたし」だけがいて「仏」がおられない。「仏」がおられないから「仏」にはなれない。どこまでも「わたし」しかいない。「わたし」しかいないことを「救われない」という。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-22 06:24 | 香樹院語録を読む | Comments(0)

仰せを持ちかえるな

 八六、江州醒ヶ井みそすり屋にて。師曰く。婆々、そのままの御助けじゃぞや。 婆々曰く。難有う御ざります。いよいよ是のままの御助けで御座りますか。 師曰く。いやそうではない。そのままの御助けじゃ。仰せを持ちかえるなよ。


(香樹院語録) 

 師の「そのまま」とは仏の方から見せていただいた「そのまま」。婆々の「そのまま」は自分が見た自分。師と婆々では「そのまま」の言葉は同じだが見ているものが違う。竹内先生は「仏法は自己保身させるためにあるのではない。自己保身を破るためにあるのだ」と教えられた。みな「そのまま」の自分で救われたいのでしょうが、そうはいかない。一度は心に死んで「このまま」に戻って来なくてはならない。

 南無阿弥陀仏

 柏原祐義・禿義峯編「香樹院語録」


by zenkyu3 | 2017-06-21 06:16 | 香樹院語録を読む | Comments(0)