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称名破満釈

 しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと、知るべしと。

(教行信証・行巻 -16)

 『十七願』に云わく、「たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ」と。智慧をいただいた上の念仏であるから「諸仏称名の願」という。智慧の念仏を称える人は「諸仏」であると教えていただいている。智慧とは自分の心が見える。仏の方から自分の心が見えるので「正念」といいます。さて、人として生まれ、人として抱く最も切実な「願い」とは一体なんだろうか。金持ちになることでしょうか。有名になることでしょうか。あるいは、家族に恵まれ、長生きすることでしょうか。みな煩悩でしょう。信心さえわかったらいつ死んでもいい。そのような「志願」を持った人だけが念仏するのでしょう。志願がなければ「志願を満てたまう」ということもない。

 南無阿弥陀仏      
by zenkyu3 | 2019-06-27 23:48 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(1)

欲生我国

 次に「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。

(教行信証・信巻 -15)

 『十八願』に云わく、「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ」と。久しく闇の中をさ迷っていた心の旅人が彼方に一点の光を発見した。その喜びはいかほどか想像に難くない。光を見い出した喜びが「至心信楽」なら、たとえ針の先ほどの光でも光は光、旅人は光のある方向に向かって勇んで歩き出す。それが「欲生我国」です。光を見たら誰しも必ず光に向かって歩き出すから「真実の信楽をもって欲生の体とするなり」といいます。また、信心獲得は仏のお心がわたしの心に現れてくださったことなので、わたしの努力はなにもない。むしろ、努力が信心をわからなくしていた。それゆえ「大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず」と教えてくださっています。

 南無阿弥陀仏     
by zenkyu3 | 2019-06-18 19:13 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

横超他力

 「横超」とは、本願を憶念して自力の心を離るる、これを「横超他力」と名づくるなり。これすなわち専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり、これすなわち真宗なり。

(教行信証・仮身土巻 -14)
 
 『歎異抄』(第十三章)に云わく、「煩悩を断じなば、すなわち仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん」と。煩悩を滅して悟りを開くなどということは頭の中だけの観念論であって現実の話ではない。そもそも煩悩とはこの心身を造っている本能であるから、煩悩を滅するということは死ぬことに他ならない。煩悩の身をもって煩悩を断ずるなど不可能なことです。よって、仏法においては煩悩を滅するのではなく、煩悩を「超越する」(離れる)道を開いてくださっている。それが「横超他力」です。信仰生活において、仏のお心の中に自分の姿を発見する経験がある。それを「本願を憶念して」と教えていただいているのです。自分の心と仏のお心と、この二つの心の違いがはっきりすれば「自力の心を離れる」ことが出来る。わたしの場合は「仏はこのわたしをどう見ておられるだろうか」と、この一点だけに集中して念仏していた。「本願を憶念して自力の心を離るる」ということです。

 南無阿弥陀仏     
by zenkyu3 | 2019-06-17 16:05 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

六字釈

 しかれば、「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、至なり、また帰説[よりたのむなり]なり。説の字、悦の音、また帰説[よりかかるなり]なり、説の字は、税の音、悦税二つの音は告ぐるなり、述なり、人の意を宣述るなり。「命」の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。ここをもって、「帰命」は本願招喚の勅命なり。

(教行信証・行巻 -13)

 わたしを呼ぶ声がする。子どもの頃、孤独の中で聞こえた声がある。聞こえたことを疑ったことはない。わたしに聞こえたということにどんな理由があるかはわからないが、目に見えるものがすべてではないということはわかった。いつ死んでも誰も怪しまない歳になったが、子どもの頃に聞いた声の主と共に生きてきた。ときに忘れたこともあったが、目に見えないお心がいつもわたしにかけられていた。法を聞くようになってからはその声を「本願招喚の勅命」と教えていただいている。

 南無阿弥陀仏     

by zenkyu3 | 2019-06-16 22:56 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

信楽開発の時剋の極促

 それ真実信楽を案ずるに、信楽に一念あり。「一念」は、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。

(教行信証・信巻 -12)

 『歎異抄』(後序)に云わく、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と。知識は共有できても仏の経験は共有できない。わたしが食べてもあなたの腹は膨れない。信仰とは仏とわたしの一対一の関係です。本願力は生きて働く力ですから、この身において働きが働き出す最初、「信楽開発の時剋の極促」がある。「広大難思の慶心」、すなわち仏のお心がこの身に現れてくださったのです。闇の中で一点の光を発見したことが十八願の「至心信楽」であるなら、かすかな針の先ほどの光に向かって勇んで歩き出すのが「欲生我国」です。まずは「信の一念」を自らの経験とせよとの親鸞のご化導です。

 南無阿弥陀仏    
by zenkyu3 | 2019-06-15 20:58 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

横超断四流釈

 「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに「断」と曰うなり。「四流」は、すなわち四暴流なり。また生・老・病・死なり。

(教行信証・信巻 -11)

 自力とは心に執着する。執着すれば失うことを恐れる。恐れは自由を奪う。その結果、心に縛られ心に使役されてみな苦しむ。だから、心への執着を離れれば心に苦悩がない。それ故に、煩悩はそのままに、煩悩をまるごと超越して心から自由になる道を開いてくださった。それを「横超他力」という。ここでは、信の一念に心を離れることを「横超断四流」と教えていただいている。

 南無阿弥陀仏   
by zenkyu3 | 2019-06-12 08:34 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

心を弘誓の仏地に樹て

 慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。これに因って、真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う。ただ仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。もしこの書を見聞せん者、信順を因として疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。

(教行信証・後序 -10)

 親鸞はここに「真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭う」ことをもって『教行信証』を造り終えたと述べている。「良に師教の恩厚を仰ぐ」ばかりで親鸞自らが加えたものはなにもないとのお気持ちだったでしょう。仏のお心が親鸞の心に現れ、仏のお心に育てられながら歩んできた人生であったから、どれほど聞いても「慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」、これでいいということがない。晩年まで何度も書き直したであろう『教行信証』は仏の救いの活動に終わりがないように永遠に未完だというのがよい。思うに、人と生まれ、命の終わりに臨んで「慶ばしいかな」と自らの人生を慶ばせていただけることほど尊いことはない。

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2019-06-10 12:47 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(3)

本願成就文釈

 しかるに『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。「歓喜」と言うは、身心の悦予の貌を形すなり。「乃至」と言うは、多少を摂するの言なり。「一念」と言うは、信心二心なきがゆえに「一念」と曰う。これを「一心」と名づく。一心はすなわち清浄報土の真因なり。

(教行信証・信巻 -9)

 『本願成就文』に云わく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と。自分の心を離れる信楽体験を感激が大きいので「信心歓喜」という。しかし、この体験には方向性がない。信楽は得たが「仏とはなにか」「仏となるとはどういうことか」がまだはっきりしていない。『十八願』でいう「至心信楽」と「欲生」とは同時ではないということです。しかし、信楽という手がかりを得て、一度きりの体験を何度も何度も反芻するうちに仏のお心が聞こえてくる。それを「かの国に生まれんと願ずれば」といい、仏への道がはっきりと開けるので「すなわち往生を得て不退転に住す」というのです。

 南無阿弥陀仏  
by zenkyu3 | 2019-06-08 20:05 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

雑行を棄てて本願に帰す

 しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空(源空)の真筆をもって、これを書かしめたまいき。

(教行信証・後序 -8)

 『年表』に云わく、「1201(建仁元)年、親鸞29歳、これまで堂僧を勤めた延暦寺を出て、六角堂に参籠、聖徳太子の夢告により源空の門に入る」と。親鸞は二十九歳で法然に出会う。善知識に出会うことの意味は善知識の上に仏の生きた働きを見た。善知識を信じたのではなく仏を信じることが出来た。これが信心をいただくことで、善知識に出会うことの意味です。師と弟子との関係は未来の仏(師)と未来の仏(弟子)との憶念であるので「仏々相念」ともいいます。「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(『歎異抄』第二章)と述べているように親鸞は法然から信心をいただいた訳ではない。法然も「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり」(『歎異抄』後序)と述べている。師と弟子は仏々相念ですから、あなたが善知識に出会わないのはあなたに信心がないからです。

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2019-06-06 18:01 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)

 誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。

(教行信証・信巻 -7)

 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」(以上『歎異抄』第九章より)。信心をいただいても迷う心がいよいよはっきりするばかりで、ちっとも迷いが晴れるということがない。これで信心をいただいたと言えるのでしょうかと、唯円はこう親鸞に申し出た。親鸞、答えて言うに「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と。迷っていることにも気づかず生きてきたわれらが迷っていることに気づくことが出来たのは仏のお慈悲ではありませんかと、こう親鸞は教えた。「迷う」とは自分の心に執着する結果、自分の心に振り回されて自由がないことをいいます。『信巻』のこの御自釈も『歎異抄』の第九章も、念仏者の後念相続の内面生活がどのようなものかが明らかにされている。

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2019-06-04 21:12 | 教行信証御自釈のこころ | Comments(0)