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真仏土巻

 『註論』に曰わく、「荘厳清浄功徳成就」とは、「偈」に「観彼世界相 勝過三界道故」と言えり。これいかんが不思議なるや。凡夫人、煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得んに、三界の繫業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いずくんぞ思議すべきや、と。

(教行信証・真仏土巻「論註」引用部分)

 「かの浄土に生まる」とは仏のお心の中に生じることを意味しています。すなわち「念仏三昧」に入るのです。念仏三昧に入れば「三界の繫業畢竟じて牽かず」、つまり、過去と現在の悪業煩悩から護られ、その影響を受けない。それを「煩悩を断ぜずして涅槃分を得」と言ったのです。この因縁あるゆえに「安楽」とも「極楽」ともいう。「涅槃分」の分とは一部、仏ではないから涅槃の全体、無上涅槃を悟ることはできない。また、『願生偈』に「観彼世界相 勝過三界道故」とは「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」という。「かの世界」は無相であり、「三界の道」は有相です。無相を見るのが信の一念にいただく「無生法認」です。この智慧あるゆえに初地不退の菩薩というのです。涅槃の一部を見たから無上涅槃を求める。それが「安楽国に生まれんと願ず」ということで真実の帰依が生じたのです。よって、信後の念仏相続により、久しく自利成就して念仏三昧に入り終わるから「かの浄土に生まる」というのです。すなわち「心の往生」を遂げ終わることです。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-11-01 05:20 | 浄土論註を読む | Comments(0)

未証浄心の菩薩

証巻

 「未証浄心の菩薩」とは、初地已上七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよく身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作す。かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず。作心をもってのゆえに、名づけて「未証浄心」とす。この菩薩、安楽浄土に生まれて、すなわち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見るとき、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し、と。龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生まれんと願ずるは、当にこのためなるべしならくのみと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 八地以上の大菩薩と、初地以上七地以前のもろもろの菩薩の違いを「作心をもってのゆえに」と端的に示している。信の一念に智慧をいただく。いただいた智慧あるゆえに仏になるということがどういうことかが分かる。それあるがゆえに、信の一念に初地不退の仏道に入るというのです。わずかな智慧の感触を確かめながら念仏するのが信後の念仏相続の始りです。「かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず」。初地以上七地以前の菩薩はまだ念仏三昧に入りきっていない。努力して仏のお心を思い出すからです。信の一念にいただいた智慧が念仏のお力によって深まり、智慧の働きが自在に働くようになるにつれ、努力しなくても念仏が称えられるようになる。ついには念仏に努力がなくなって、いつ、どこで、なにをしていても、仏のお心が離れなくなる。それを「念仏三昧に入る」とも「安楽浄土に生まれる」ともいいます。七地沈空の難という信仰の危機を乗り越えて、やがて菩薩八地の教化地に入る。それゆえに「龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生まれんと願ずる」と。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2018-10-30 05:23 | 浄土論註を読む | Comments(0)

証巻

 「荘厳主功徳成就」は、「偈」に「正覚阿弥陀 法王善住持」のゆえにと言えり。これいかんが不思議なるや。正覚の阿弥陀、不可思議にまします。かの安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや。「住」は不異不滅に名づく、「持」は不散不失に名づく。不朽薬をもって種子に塗りて、水に在くに蘭れず、火に在くに燋がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし。何をもってのゆえに。不朽薬の力なるがゆえなり。もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意「三界に生まれて衆生を教化せん」と願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑生の火の中に生まるといえども、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず。何をもってのゆえに。正覚阿弥陀の善く住持を径るをもってのゆえにと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 「もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば」とは、念仏の行者が念仏三昧に入ったことを示しています。念仏三昧に入れば自利成就して「三界に生まれて衆生を教化せん」と願うので、これを菩薩八地の教化地というのです。また、「浄土の命を捨てて願に随いて生を得て」とは利他のための自利成就であることを示し、「三界雑生の火の中に生まるといえども」とは、教化の中にあっても念仏三昧が失われることがないことを教えています。これを喩えて、すなわち「不朽薬をもって種子に塗りて、水に在くに蘭れず、火に在くに燋がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし」と。このことから「ひとたび安楽浄土に生ずれば」とは、すなわち念仏三昧に入ったことを表し、念仏三昧に入るから菩薩八地の教化地といい、八地以上の大菩薩を還相の菩薩というのだということです。われらは菩薩の修行などしたことはないが、不思議の本願のお力により、このような功徳をいただく身にしていただけるのです。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-29 05:12 | 浄土論註を読む | Comments(0)

七地沈空の難

証巻

 問うて曰わく、もしすなわち等しからずは、また何ぞ菩薩と言うことを得ん。ただ初地に登れば、もってようやく増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に上地の菩薩と等しと言うや。答えて曰わく、菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんとす。その時にもし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須らく畢竟平等と言うべし。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 初地に登れば、いずれ仏に等しい等覚の位に至るのに、なぜ、ことさらに七地以前と八地以上とに区別するのか、という問いが立てられています。思うに、八地以上の「法性生身の菩薩」と七地以前の「未証浄心の菩薩」との違いは、信の一念にいただいた智慧が自在にその働きを現し出しているかどうかの違いなのでしょう。初地の菩薩は「智慧」がなにかが感触としてわかった。確かに経験的にはわかったが、智慧がまだ自在に働き出していないから、本当の意味で、智慧の働き、つまり「願力自然」「他力」がどのようなものかがまだわかっていない。その信心は観念にとどまっていて、なにより「安心」がない。もし、念仏せずに、観念の悟りに満足してしまえば、智慧は働きを失って、その信仰はやがて哲学化する。「菩薩の死」です。信の一念に智慧を得たら、智慧を掘り下げるように、信の一念を思い出しながら、信の一念に立ち返り立ち返り念仏することが大切です。そうすれば「七地沈空の難」を越え、やがて念仏三昧が完成して菩薩八地の教化地に入る。すなわち「安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつる」というのです。

*以前の記事を一部加筆して再掲載しました。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-23 05:15 | 浄土論註を読む | Comments(4)

これ近相なり

証巻

 「利行満足」とは、「また五種の門ありて、漸次に五種の功徳を成就したまえりと、知るべしと。何ものか五門。一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、五には園林遊戯地門なり」とのたまえり。この五種は、入出の次第の相を示現せしむ。入相の中に、初めに浄土に至るはこれ近相なり。謂わく大乗正定聚に入るは、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 曽我量深師に教えを仰ぐ。「われわれの信心の生活、仏法の生活、ほんとうの喜びの生活、明るい生活、それを往生という。だから、ここからどかへ行くというようなものではないんでしょう。常に身は娑婆世界に居るけれども、心は娑婆世界を超越しておる。往とは超越をあらわす。「死んで浄土に往生する」というてみても、そんな証拠はどこにもない。生きているうちに証拠がなければ、死んでからの証拠など、どこにもありません。証拠は自分の生活そのものにある。自分の生活そのものが証明するのである。」

 「信心決定した生活は、心が浄土に居るという生活。身は娑婆世界におるんだけれども、心は娑婆世界に縛られておらん、と思います。自由である。自由であって、心は常に平和である。証大涅槃ということはできないけれども、涅槃に近づいておる。そうでしょう。それを近門という。だから、わたくしは、往生は現生にある、成仏は未来にある、という。往生の終着点が成仏である。それを往生即成仏という。」(曽我量深著「正信念仏偈聴記」より)

 「往生」には二義があって、即得往生を「心の往生」といい、滅度を「身の往生」という。親鸞は「正定聚不退転」と教えてくれたから、量深師はそれを受けて、十八願の本願成就を「心の往生」とした。浄土思想上、初めて親鸞がそう言ったようでもあるが、親鸞がなにか特別なことを言ったというより、臨終と往生を正しく切り離したにすぎない。仏教は無生の生であるから、死後の生を説けばまったく仏教でなくなるからです。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-09-30 05:09 | 浄土論註を読む | Comments(0)

三不三信

信巻

 また三種の不相応あり。一つは信心淳からず、存せるがごとし、亡せるがごときのゆえに。二つには信心一ならず、決定なきがゆえに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆえに。この三句展転して相成ず。信心淳からざるをもってのゆえに決定なし、決定なきがゆえに念相続せず、また念相続せざるがゆえに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆえ心淳からざるべし。これと相違せるを「如実修行相応」と名づく。

(教行信証・信巻「論註」引用部分)

 信心とは真心、真の心、すなわち仏のお心をいただくことを信心という。だから、嘘の信心は仏心がないから「淳からず」「一ならず」「相続せず」という。如来回向の信心をいただけば、行者の心は「淳心」、親を無条件に信頼する赤子のように素直な心になる。また、仏心をいただいたのだから「二心」ではない。仏のお心に二つはないから「一心」という。そして、仏のお心とつながった証拠には仏のお心はわたしを決して離れない。常住坐臥、いつも仏と一緒だから「相続心」という。この三句と相応するから真実信心という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-09-03 06:04 | 浄土論註を読む | Comments(0)

還相の菩薩

証巻

 『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えりと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 量深師に教えを乞う。すなわち、「涅槃というからと言うて、命終わらなければ涅槃の境地が解らぬことはない。生きている中は無上涅槃ではない。有上涅槃というか。無上涅槃のさとりは開けぬが、或る程度の涅槃のさとりは得る。現生に於て涅槃という一種の境地を得る。つまり無生法認というのは涅槃を知る智慧であるから、無生法認の智慧が開けて来れば或る程度の涅槃の境地に到達することが出来るのであることを教えて下さるのが浄土真宗の教えである。」

 「涅槃の静かな心境は、生きてる中にそういう境地がいつも自分の心の中にあって、どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない。煩悩を断ぜずして涅槃を得という静かな何ものにも障えられない境地がある。それを現在の生活の上に経験することが出来る。それが仏からたすけられたということである。」

 「いつ死んでも成仏間違いないのは、現生に於て既に往生している、現生に於て既に浄土往生の生活を営んでおるものであるが故に、仏様でないけれども仏様と等しい生活を他力の不思議で与えて下された。そういうものであるが故に、いつ命が終わっても大般涅槃間違いない確信確証を握っておるものである。こういうのが浄土真宗の教えの本当の精神である」と。(津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 いつでも、何度でも読み返すが、このように教えてくださる先生はいない。われらは「一声の念仏」しか知らない者ですが、一声の念仏には無量の功徳の蓄積がある。どのような功徳をこれから味わせていただけるのか、残りの人生の楽しみです。この頃、思い出すのは竹内先生の最晩年のお姿です。「生死に住せず、涅槃に住せず」と歩きながら呟いていた竹内先生のお姿をわたしは拝んでいた。仏がわたしのために送ってくださった先生だから。

 南無阿弥陀仏



by zenkyu3 | 2018-08-31 05:17 | 浄土論註を読む | Comments(0)

行巻

 「道」は無碍道なり。『経』(華厳経)に言わく、「十方無碍人、一道より生死を出でたまえり。」「一道」は一無碍道なり。「無碍」は、いわく、生死すなわちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごとき等の入不二の法門は無碍の相なり。

(教行信証・行巻「論註」引用部分)

 生死も涅槃も心の状態を表す。迷うには迷う因縁があり、悟るには悟る因縁がある。温度によって水は氷にも蒸気にもなるように、心もまた因縁によって生死にもなり涅槃にもなる。生死なる「境」、涅槃なる「境」があるだけで「人」はない。すべては因縁生起で、因縁によって起きることが起きている。よって、生死といって嫌うことはなく、涅槃といって執着することもない。このようなことを「生死即涅槃」と言ったのです。心は生死にもなれば涅槃にもなるが、しかも心はいずれの跡も残さない。それゆえ「無碍の相」という。諸仏はみな、この「無碍道」を通って仏になったのです。他に道はないから「一道」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-26 05:42 | 浄土論註を読む | Comments(0)

ただ信仏の因縁をもって

行巻

 「易行道」は、いわく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば、水路に船に乗じてすなわち楽しきがごとし。

(教行信証・行巻「論註」引用部分)

 信の一念に智慧をいただくことを「即得往生」と言って「往生」と言わないのは、いただいた智慧がまだ線香の先ほどの火で、この智慧をはっきりさせる修行が始まったばかりだからです。今にも消えそうな線香の先ほどの明るさでも目指すべき方向が明らかになったので、後戻りしないという意味で「阿毘跋致」「不退転」といいます。なぜ、後戻りしないかというと「水路に船に乗じてすなわち楽しきがごとし」、あとは「仏願力」「智慧の働き」という大船に運ばれていくだけだからです。

 南無阿弥陀仏




by zenkyu3 | 2018-08-25 05:51 | 浄土論註を読む | Comments(0)

回向に二種の相あり

信巻

 回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相は、己が功徳をもって一切衆生に回施したまいて、作願して共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまうなり。還相は、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往・もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがために、とのたまえり。

(教行信証・信巻「論註」引用部分)

 仏のお育てには二つの方向があります。一つは自らが智慧を深めて行く方向であり、二つは得た智慧を他に伝える方向です。心が深く内に向かう前者を「往相」といい、内に決着して心が外に向かう後者を「還相」といいます。さらに言えば、いただいた智慧がはっきりして内に決着することを「かの土に生じ已りて」といい、浄土に入り終れば、今度は浄土から出て「生死の稠林に回入し」、有縁の衆生に智慧を説いて「共に仏道に向かえしめたまう」。すなわち「教化地」に至るのです。

 また、信の一念に「智慧」をいただくことを「往生」とは言わず「即得往生」というのは、いただいた智慧がまだ線香の先ほどの火で、この智慧をはっきりさせる修行が始まったばかりだからです。今にも消えそうな線香の先ほどの明るさでも智慧は智慧ですから、信心の人は「必定の菩薩」と称えられるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-08-21 05:20 | 浄土論註を読む | Comments(0)