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邪師・邪教・邪思惟を離れる事 10

 三界、何に依って起こるや。各自の業により起こる。今見るが如き人間世界は自分の業より顕われたり。地獄界へ往けば、その人の業から地獄界が顕われ、天上界へ生ずれば、その人の業から天上界が顕わるること、鏡中の影の如し-と聞くにつけても、未来、いかなる影を映写するや。六道はわが心の影なり。経には「三界は唯だ一心なり。心の外に別の法なし」と釈尊説き置き給えるものを。惶るべきはわが心なり。げに憑むまじきはわが心なり。六道に生ずるにあらず。わが心、六道を生ずるなり。わが心、三界を生じて、その中にわが心住するなるぞかし。明け暮れにただ善悪二業を作り、寝ても覚めても善心・悪心を起こす。善心・善業より悪趣あらわれて、わが身をその間に置く時もあり。あらわすものはわが心なり。あらわすものはわが心なり。そもそも、いかにせば三界・六道・二十五有の迷城をあらわすことなきに至るべきか。わが心に頼みてなりとも、忘るまじきはただ念仏せよの御一言。

(野田明薫『先師の言葉』84-5)

 『二河白道』に云わく、「また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。竹内先生はこのところをよく暗唱された。法を聞くことにすっかり馴れて求めることを忘れてしまっているお弟子さんを叱っているのです。しかし、耳なれ雀になってしまったらもう法は聞こえない。機の深信がなくなっているからです。以上で「邪師・邪教・邪思惟を離れる事」を終わります。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-01-25 05:51 | 先師の言葉から | Comments(0)

今生限りのことなり

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 9

 今生の間こそ保護者も後援者もありたれ。今生の間こそ妻子を頼りにし財宝を力ともして、とにもかくにも過ごしたれ。いよいよ、それにもこれにも別れては只の一人となりて、無限無限の世界々へ、あてどもなくゆくえも知れず、紛れ行くこそ悲しけれ。親子というも今生限りのことなり。妻子・兄弟・夫婦というも今生限りのことなり。知音・近付きというも今生限りのことなり。人間同志の交際というも今生限りのことなり。いま今生を離れては、そも何を頼りにし、なにを力とせん。世界は無限と聞く。時も無限と聞く。知るに由なく施すに術なし。いかがはせん、いかがはせん。この時に当って、言うべからざる寂寥生じ、極まりなき恐怖起こる。大師の『散善義』に曰く「無人空迥の沢というは、即ち、常に悪友に随って、真の善知識に値わざるに喩うるなり」とあり。

(野田明薫『先師の言葉』84-4)

 『二河白道』に云わく、「この人すでに空曠の迥なる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競い来りてこの人を殺さんと欲す」と。われらの回りにいるのは煩悩の毒に狂った群賊悪獣であり、正気の人はいない。誰一人仲間となる者はない。これを「只一人」という。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-01-24 05:22 | 先師の言葉から | Comments(2)

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 8

 家内・眷属と申すも束の間の夢でこそあれ。その内には一人死し二人死して、やがては散り散りに別れ行き、ついにはかいくれ知れずになり果てても、悲しむものもなければ、別に怪しむ者もなしという有様なり。無始・無終に亘りて真の一人にてある面々が、ある因縁によって結びつけられ、一家団欒の楽しみも夢を過ぎ、因縁尽きぬれば散り散りになりて、各々に元の真の一人に立ち還るなり。あわれさ言わん方なし。わびしさ言語に絶えたり。思いしれや、わが身は今日も過去も未来も真の只一人なることを。天地の間に真の只一人にてあるところのわが身には、頼る処もなく、縋る処もなく、只見る「浩々茫々」たる無辺際なる世界の中に放たれたる一塵埃の如し。身寄りも更にあらざれば、一人として知己あることなし。

(野田明薫『先師の言葉』84-3)

 『大経』(下巻)に云わく、「人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来りて、行に当り苦楽の地に至り趣く。身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし」と。「真の只一人なる」ことの恐ろしさから逃げ回っているうちにやがて死がやってくる。「独生独死独去独来」、死を前にすれば誰もがそれを知るが、それでは遅い。平生に「真の只一人なること」を知れ、と明薫師は教えている。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-01-23 05:38 | 先師の言葉から | Comments(0)

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 7

 闇から闇への一人旅は死して彼の世ばかりのことにあらず。今日、現在がやはり一人旅の最中なり。不慮の縁に逢着するひとも逢着せざる人も、やはり独り旅寝の草枕。人生五十年を一夜として、当ても果てしもなく、旅路を急ぐ孤客なりしことを確かめん。自身は永遠に自身にして、他は悠久に他なることも、世の諸人の過去・今生・未来が面々各々に絶対に孤立せる如くに、吾れもまた絶対に孤立せるものなることをも、いよいよ確実にせん。してみれば、わが身は無始の昔より真の一人にして、無終の末かけて真の一人なり。この真の一人の運命やいかに。いずくよりいずくへ往かんとする者ぞ。「世間悤悤として憀頼すべきものなし」。父母・妻子・兄弟・親族ありといえども、いま出立となったら、わが手となり足となる者あることなし。方角立たず行方も定めぬ旅路に「身独空立」と、只一人なるべし。いざ出立とならずとも、今日・只今が只一人なるべし。

(野田明薫『先師の言葉』84-2)

 『大経』(下巻)に云わく、「身独り空しく立ちてまた依るところなし。寿命終わり尽きて諸悪の帰するところなり」と。竹内先生はよく言われた。「仏は一人一人救う。決して、まとめて救うのではない」と。一人になるのは寂しい。だから、世間の喧騒に紛れて孤独を忘れようとする。仲間との繋がりを求め、組織や集団に媚び諂う。家族をつくれば寂しくないかと思えば、家族といても寂しい。「身独空立」はこの身の事実、仏と出遇うまでは存在することの寂しさ、空しさは決して癒えない。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-01-22 05:28 | 先師の言葉から | Comments(2)

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 6

 長き迷倒の髻を一念切り落としてみたれば、周囲の事々物々、みな以って魔に見えざるはなし。夢かと見れば夢にあらず。幻かと見れば幻にあらず。娑婆が未来の如くに見え、未来を娑婆の如くに見えて、この世からなる冥途を歩む心地致せば、一大事は弥増しに懸りて、一切のものを疑い一切のものを危ぶみ、これまで信じたりしことまでを疑惑し始め、今まで疑わざりしことまでに不安を感じ恐怖し惶怖すること、言うべからず。親子・兄弟あれども未来までは蹤いて来ず。妻子・朋友あれども一人として身に添うてくるる者なし。真に広き世界に只一人なり。真に路頭に迷える哀れな旅人なる吾れを発見せん。

(野田明薫『先師の言葉』84-1)

 『二河白道』に云わく、「この人すでに空曠の迥なる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競い来りてこの人を殺さんと欲す」と。明薫師の無常感は非常に深い。親族、眷属を含め、この世のすべての価値を否定し、世間を魔の巣窟のように見て忌避している。仏教徒はすべからず世間を捨てる。世間の中にいても世間に縛られない。世間を捨てる孤独を『二河白道』は「この人すでに空曠の迥なる処に至るに、さらに人物なし」と表現している。仏と出遇う場所は仏と一対一になる念仏三昧の中であり、深い孤独の中でしか仏の声を聞くことはできない。だから、明薫師は「孤独になれ」と教えている。さて、ここからは「邪師・邪教・邪思惟を離れる事」の第三節です。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-01-21 05:00 | 先師の言葉から | Comments(0)

悪知識が飛躍、跳梁して

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 5

 「煩悩を起こせば生死を招き、菩提を修すれば涅槃を証る。前は迷いの因果にして、後は悟りの因果なり。これはこれ、十方・三世を通貫せる因果の大道理なるものなり」と、いかほど心得ても、いかほど知り抜いても、いかに口舌を巧みにしても、いかに筆硯を弄しても、真実、仏法の尊さが知れず、無常世界の恐ろしさが分からず。心底より一大事に驚き立てて、一切を捨てて出離の要道に踏み込まぬ者が言うたのでは、これを戯論と申して、一種の詐欺なり。他をたぶらかし、みずからをたぶらかして、涼しき顔して「これが仏法じゃ」と思えり。事ここに至っては邪法を通り越して無法者と言うほかあるべからず。この種の無法者を聖教には「悪知識」と言えり。「当今は末法。現にこれ五濁悪世なり」。日本国中・世界中に右体の悪知識が飛躍、跳梁して、海に陸に充満し、各自に悪見、邪見を振り立てつつ、「隙もあらば悪道・邪見に誘引せんものを」と身構えおる世の中なり。

(野田明薫『先師の言葉』83-4)

 竹内先生はよく「仏道を世渡りの杖にしている」「念仏を腰掛けにしている」「白木の念仏に立て」とお弟子さんを叱りました。杖であれ腰掛けであれ「よくぞ、ここまで来た」と仏様なら喜ばれるかもしれませんが、明薫師は信を取らなければ生まれてきた意味がないと言い放つ気迫のかかった善知識だった。「邪師・邪教・邪思惟を離れる事」と題するこの文章が誰のために書かれたものなのかはわかりませんが、明薫師の厳しいご化導に耐え得たお方がおられたのでしょう。

 南無阿弥陀仏 

by zenkyu3 | 2019-01-18 05:41 | 先師の言葉から | Comments(0)

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 4

 世間一般の思想は、詮ずるところ、これ六道生死中の倒見・妄計にして生死事大の前には毛の先で突いたほども役には立たず。今にして初めて、世界一切の思想の虚なりしこと、仮なりしことに驚愕して、かかる虚仮を「真実なり」と握りしめたりしことの愚劣さを悲しむべし。『韓非子』にも「是を是とし、非を非とす。これを賢という。是を非とし、非を是とす。これを愚という」と言えり。我等、無始以来乃至今日まで、如来の正法を邪なりとし、世間の邪法を正なりとして、邪法・邪見を本として正法・正見に反対し来たりしが故に、一朝一夕に邪法・邪見を脱することははなはだ難事なり。かかる難事は尋常びとのなし得るところにあらず。非常の器が非常の事縁に逢着して初めて足を踏み入るる境地とす。ここらが張子の象どもの想像すら及ばざる別天地にして、大死一番したる者にあらざれば入ることを許されざる殿堂なり。

(野田明薫『先師の言葉』83-3)

 「大死」とは心が死ぬ。体の死は仏道ではあまり意味がない。命を捨てるくらいの覚悟ならできるかも知れないが、心を捨てる覚悟ができない。それほど心への執着は深い。だから、心が死ぬことを「大死」という。仏道はすべからく「大死一番」する。大死すれば自ずと「絶後蘇息」する。親鸞は「前念命終、後念即生」と教えた。人の心を捨てると仏の心になる。この経験なくして仏道に入ることはできない。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-01-17 05:51 | 先師の言葉から | Comments(0)

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 3

 「吾れ、五十にして、四十九年の非を知る」と言えり。「生死事大、無常迅速」。「あわれ、今日まで吾れ過てり」と一念気が付けばしめたものなれども、百万人中ただの一人にてもそこに気が付かば上々首尾なり。悟りを開くは最々後の到達地としても、第一歩に「迷いを翻す」ものがはなはだ稀なることなり。善導大師は「努力して翻迷して、本家に還れ」とのたまえり。無始以来生死海に沈没て、いまだかつて翻迷せず、乃至今日に及べるわが身なり。一大事の翻迷、今日にあり。眠れる獅子ならば、奮迅の勢いを以って起つべし。しかれども、当今・末法においては張子の象のみ多くして、あたら口に風邪なり。太子の言葉にも「世間は虚仮なり」と言えり。「よろずのこと、皆な以ってそらごと、たわごと、まことあること無き」世の中ぞかし。昨日は今日と変わる世の風潮を顧慮して、何にかせん。

(野田明薫『先師の言葉』83-2)

 『歎異抄』(後序)に云わく、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と。これは親鸞の言葉です。聖徳太子の「世間虚仮、唯仏是真」の言葉をそのまま反映している。これはよくよく心に刻むべき言葉です。人生五十年がたとえ百年になろうとも、「まことあることなき」を確かめたこともなければ、「念仏のみぞまこと」と喜んだこともない。「昨日が今日になった」だけで終わる人生なら、それこそ「そらごとたわごと」の人生です。命は法を聞くために与えられた。必ず法を聞き遂げ「百万人中のただ一人」になれと明薫師は励ましている。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-01-16 05:58 | 先師の言葉から | Comments(0)

邪なる見方をしている

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 2

 邪見とは正しき見方の反対にして、「邪なる見方をしている」ということにして、たとい一切の者が皆な邪見を懐き、世界中の人が口を揃えていかに反対しても、邪見は徹頭徹尾邪見にして正しき見方とはならず。孟子あたりにても「千万人といえども、吾れ往かん」と言えり。世界中の者の反対に遇うて怯むような卑屈なる根性ならば、初めから仏道修行に取り掛からぬがよし、往生の望みなど起こさぬがよし。「真理は多数決」とか「大勢に手なし」とか、「長いものには巻かれろ」の「世間一般ではそうは言わぬ」というようなことにては、共に大事を謀るに足らざる器にして、かくの如き輩は永久に迷倒の世界に齷齪しているがよし。

(野田明薫『先師の言葉』83-1)

 ここから「邪師・邪教・邪思惟を離れる事」の第二節です。明薫師は「孤独になれ」と教えている。わたしたちは深く「孤独」を恐れている。ありのままの自分、醜く、浅ましい本当の自分に向き合うことになるからです。しかし、深い孤独の中、念仏三昧の中でしか仏と出遇うことはできない。仏と出遇う時は仏とわたし、一対一だからです。それゆえ「孤独になれ」「孤独を恐れるな」と明薫師は教えている。明薫師の求道者としての気迫が伝わってきます。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-01-15 05:13 | 先師の言葉から | Comments(0)

迷いの因を絶てよかし

邪師・邪教・邪思惟を離れる事 1

 伏して惟みるに、釈迦一代の説法、その旨潤しといえども、その終極を論ずれば、門々みな以って、断惑証理の法門にあらざるはなし。衆生惑えるが故に三界あり。よって、惑を断ずれば三界消滅す。衆生理を証せざるが故に六道生死してやまず。よって、理を証すれば生死止息す。これはこれ、その迷いの果を滅せんと欲せば、宜しくその迷いの因を絶てよかし。また、その証の果を開かんと欲せば、須らくその証の因を修せよかし、と教え給う三世十方を通貫する因果の大道理にして、一代五十年、三百余会の説法も、この大道理以外に一歩も出ること能わず。もし、この大道理の埒外に一厘一毛にても出る思想あらば、ことごとく皆もって邪見なり。

(野田明薫『先師の言葉』82)

 「邪師・邪教・邪思惟を離れる事」(1925年)とタイトルがついている。この文章はかなりの長文で、全体が三節に分かれていて、今回はその第一節です。竹内先生が急逝される前の月、平成九(1997)年三月の第一例会の資料として配布されたものです。第二節は竹内先生の法話集『称名念仏の大悲』(彌生書房刊)に参考資料として全文が掲載されています。竹内先生は野田明薫の遺文に育てられた方ですが、わたしが先生の下で聴聞を始めた頃には『先師の言葉』の講話シリーズは終わっていました。『先師の言葉』の一部しか読めなかったことは残念ですが、その文章からは明薫師の求道者としての厳しい風貌が伝わってきます。

 南無阿弥陀仏 

by zenkyu3 | 2019-01-14 05:57 | 先師の言葉から | Comments(0)