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カテゴリ:曽我量深師の教えに学ぶ( 32 )

一文不知

 何も解らぬ愚かな者であることを、それを知ることが信というものだ。自分が一文不知であることを知ることは、自分を無条件に信ずる。無条件に自分を信ずるという心が即ち如来を信ずる。如来を信ずることによって自分の分に安んずることを知らして頂く。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」181ページ) 

 『御文』に云わく、「それ、八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを智者とすといえり」と。人と生まれてきて、どうしても知りたいことがある。それさえ知れば、後はいつ死んでもいい。それを教えてくれる人があるなら命を差し出してもいい。心に余裕があって、世間のことに心引かれているうちは聴聞ではない。肝心なことは何も知らぬ愚かな者であるという深い懺悔なくして仏の前に出ることはできない。

 南無阿弥陀仏   
by zenkyu3 | 2019-01-31 05:20 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

信の一念

 乃至一念の信の一念のその時に、如来は一切の功徳を南無阿弥陀仏と我等にふり向けて下さる。“一念せん”と切ってしまうのだが、一念の時に南無阿弥陀仏の主となる。それであるから彼の国に生ぜんと願ずる。彼の国(浄土)に生ぜんと願ずれば、その時に(同時に)彼の国に生るることを得。そして命あらん限りその生活は往生の生活に於て不退転である。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」67ページ) 

 『本願成就文』に云わく、「諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん」と。求めるものがわかったから求めるということが成り立つ。だから、得生が願生であり、願生するは得生したことの証拠です。また、闇の中で一点の光を見たら、誰であろうと光に向かって歩き出す。目的地がわからずに歩き出す人はいない。だから、信を得たことを不退転という。

 南無阿弥陀仏    
by zenkyu3 | 2019-01-30 05:57 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

不断煩悩得涅槃

 妄念妄想があっても、本願の功徳である涅槃の心境を障えることは出来ない。涅槃の静かな心境は、生きている中にそういう境地がいつも自分の中にあって、どのような煩悩があっても涅槃の境地を妨げることはない。煩悩を断ぜずして涅槃を得という静かな何ものにも障えられない境地がある。それを現在の生活の上に経験することができる。それが仏からたすけられたということである。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」96ページ) 

 『論註』に云わく、「荘厳清浄功徳成就は、偈に観彼世界相 勝過三界道のゆえにと言えり。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得れば、三界の繫業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得、いずくんぞ思議すべきや」と。浄土とは仏のお心のことです。仏のお心に照らされて煩悩が見えている心の状態を摂取不捨とも往生ともいいます。煩悩が見えるのはすでに煩悩を離れて仏のお心に立っているからです。煩悩具足のこの身から心が離れて煩悩の影響を受けない状態を「三界の繫業畢竟じて牽かず」といいます。

 南無阿弥陀仏   

by zenkyu3 | 2019-01-29 05:18 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

柔和忍辱の心

 心の中に満足があるから不平がない。野心がないから、人が自分をいじめたり困らせるようなことをしても、有難うございます-と。それを柔和忍辱の心という。口惜しいけど我慢する-それは忍辱行ではない。心に不平不満がないから、どんなに迷惑を受けても人の言いなりになっておるけれども、自分の主体性をちゃんと維持している。主体性を失うことはない。犯されることはない。犯すことも出来ない。そういう厳粛な主体性、それが忍辱行だ。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」141ページ) 

 『歎異抄』に云わく、「信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし」と。すべてのことは過ぎていく。生まれたように見えても、空に浮かんだ雲のように少しずつ形を変えながら、やがて気づけば消えてなくなっている。同じように、頭に湧いた思いや感情も手を出さずに放って置けばやがて消えてなくなっていく。消えてなくならないものはない。生まれたように見えてもなにも生まれていない。生まれていないから死んだということもない。ただ変わっていく。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2019-01-28 05:32 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

不退の位

 成仏といっても、問題は阿毘跋致(不退の位)である。不退の位は現生になければならぬ。人間に生まれたならば、人間の現生に於て正定聚不退転を得ることは、聖道門であれ浄土門であれ必要なことに違いない。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」61ページ) 

 『論註』に云わく、「謹んで龍樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに、云わく、菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。(中略)易行道は、いわく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり」と。不退転とは煩悩が見える。見えるとは離れる。離れるから煩悩の影響を受けない。煩悩の影響を受けないことを実地に経験すれば、いつでも煩悩を離れることができる。この経験をもって仏位に入る。

 南無阿弥陀仏  
by zenkyu3 | 2019-01-27 05:16 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

自信教人信

 念仏は人を通して生きている。人を離れて生きていることはない。念仏は皆平等であるが、信心は一人一人に引き受ける。本願を信じた人は、十方衆生とおっしゃるのを自分一人に引き受ける。自分に引きかけてお話なさるから聞く人が自分に引きかけて聴聞する。-これを自信教人信という。どこまでもどこまでも自分の信心を完成してゆくことが自ら教人信になる。教人信を目的としているのでない。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」190ページ) 

 『往生礼讃』に云わく、「仏世はなはだ値い難し、人信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。自ら信じ人を教えて信ぜしむ、難きが中に転た更難し。大悲、弘く普く化する、真に仏恩を報ずるに成る」と。わたしたちは人に教えられたくない。だから、善知識は口で教えを説かない。法を聞く身に置いて仏を拝む。わたしたちは仏を拝む善知識の背中を見て教えを受けてきた。

 南無阿弥陀仏   
by zenkyu3 | 2019-01-26 05:32 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

願生と得生

 願ずる時、その時、往生を得るのである。往生を得たからといって命あらん限り願生は続いている。だから即得往生がまた願に還って来る。即得往生と願が命あらん限り平行している。願生と得生が相互に因となり果となり、命あらん限り願生と得生が連続して、得生がまた新たに願生を生み出して来る。それが自信教人信、 仏恩報謝ということになる。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」48ページ) 

 『本願成就文』に云わく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と。信の一念に仏を見る。見たことは見たがはっきりしない。はっきりしないが仏を見たことに疑いはない。だから、信心歓喜をもう一度はっきりさせたくて「乃至一念」の念仏に立ち返る。仏をもう一度見たい。だから不断に念仏する。即得往生の経験があるから願生することが出来る。願生してさらに仏のお心がはっきりして、やがて願力が自在に働き出す。願力が働き出すと疑いがなくなる。願力に一切をお任せして、自分がなにかするということもなくなる。得生したから願生できる。願生するからさらに得生する。得生して喜び、懺悔してさらに願生する。このようにして命ある限り念仏がどこまでも深まっていく。

 南無阿弥陀仏  
by zenkyu3 | 2019-01-20 05:13 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

疑惑と不審

 疑惑と不審-金子大栄先生は信前の疑を疑惑、信後の疑を不審と講釈しておられたが、無疑の疑は法を疑う、無慮の慮は法は疑わぬが機を疑う。疑も慮も性質は同じものだが、法を疑うと機を疑うと。機を取り逃がしては大変なことだと思う。そういうことが「親鸞もこの不審ありつるに」という意味であろう。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」145ページ) 

 『観経疏』に云わく、「二者深信。深心と言うは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得と信ず」と。機の深信は自分がわかる。法の深信は仏がわかる。機と法は合せ鏡だから、機がはっきりしないのは法がはっきりしない。仏がはっきりしないから自分がはっきりしない。「親鸞もこの不審ありつるに」とは、唯円が「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」(歎異抄・第九章)と尋ねたことへの親鸞の答えぶりです。「疑いなく慮りなくかの願力に乗じて」とならないのは、信の一念に経験した仏がまだはっきりしない。はっきりしないのは「願力」がまだ自在に働き出していないからです。信の一念に立ち返り、まだまだ自力無効を如実修行していかなくてはならない。

 南無阿弥陀仏    
by zenkyu3 | 2019-01-19 05:05 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

意識と無意識

 往相の方は自分の意識の表面に浮かんで来るものであろうが、還相回向は意識の表面に現れないものである。還相回向は無意識、往相は意識であると解釈して、未来未来とおっしゃるのは無意識のはたらきである。我々は意識のはたらきだけ尊重しているが、意識の上に現れるものは極めて少ないものであって、心のはたらきの大部分は無意識のものである。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」86ページ) 

 『涅槃経』に云わく、「衆生、未来に清浄の身を具足荘厳して、仏性を見ることを得ん。このゆえに我、仏性未来と言えり」と。意識されたものがすべてであるかに思ってわれらは生活しているが、心が過去に経験したことはすべて無意識の領域に「宿業」として蓄積されている。過去の経験がわれらにはわからない仕組みで意識野に登ってきて心の生活を縛っているのです。よって、意識の表面だけを見れば「無慚無愧」(煩悩)であるが、蓄積された宿業のさらに深層には「功徳」(仏性)が眠っていて、過去世に聞いた仏法の記憶や現在世の仏縁によって仏性が目覚めて意識野に「信心」となって現れてくる。量深師は海のように広い無意識の領域の、さらに奥に眠る仏性を「浄土」(未来)と教え、大海に浮かぶ孤島の如き小さな意識の領域を「娑婆」(現在)と教えてくれた。仏法は「体」の死後のことではなく「心」の死後のことであると知らなくてはならない。

 南無阿弥陀仏   
by zenkyu3 | 2019-01-13 05:59 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)

無生法忍

 信心の智慧は、無生法忍をさとるのが信心の智慧である。生死は肉体にある。我々の心は無生無滅のものである。心が物の奴隷になっていると、心も身体と同じ様に生も死もあるが、心が独立して身体を支配することが出来るなら無生無滅である、それを無生法忍という。

(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」95ページ) 

 『第三十四願』に云わく、「たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずんば、正覚を取らじ」と。心が物に執着すると心は逆に物に縛られる。物に縛られた心は肉体(物)と一体化しているから、なんの疑いもなく肉体が死ぬと自分(心)も死ぬと恐れる。それほど一体化している。しかし、心はもともと無生無滅で、肉体の一部ではないから生まれたり死んだりしない。心が肉体を離れる経験を「解脱」といい、解脱体験のとき「無生無滅の心」をさとる。それゆえ「信心の智慧」という。「生死は肉体にある」という量深師の言葉を心に刻んでほしい。

 南無阿弥陀仏 

by zenkyu3 | 2019-01-12 05:51 | 曽我量深師の教えに学ぶ | Comments(0)