カテゴリ:歎異抄を読む( 55 )

歎異抄・第十七章(2)

 信心かけたる行者は、本願をうたがうによりて、辺地に生じて、うたがいのつみをつぐのいてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまわりそうらえ。信心の行者すくなきゆえに、化土におおくすすめいれられそうろうを、ついにむなしくなるべしとそうろうなるこそ、如来に虚妄をもうしつけまいらせられそうろうなれ。

(歎異抄・第十七章)

 『御消息』に云わく、「仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかいのなかに第十九・第二十の願の御あわれみにてこそ、不可思議のたのしみにあうことにて候え。仏恩のふかきことそのきわもなし。いかにいわんや、真実の報土へ往生して、大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御安ども候うべし」と。(『親鸞聖人血脈文集』第一通より一部抜粋)

 建長七(1255)年、親鸞八十三歳のときの手紙で、笠間の人たちの質問に答える返信の手紙です。この手紙の中で親鸞は「懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかいのなか」「仏恩のふかきことそのきわもなし」と教えている。唯円が「如来に虚妄をもうしつけまいらせられそうろうなれ」と怒るのも当然ではあるのでしょう。異義者は信もなくして教団の管理者に成り下がり、信心を求める仏道修行者としての自覚を失っている。

 南無阿弥陀仏

*9月18日~55回

by zenkyu3 | 2018-12-10 05:04 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十七章(1)

 辺地の往生をとぐるひと、ついには地獄におつべしということ。この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。学生だつるひとのなかに、いいいださるることにてそうろうなるこそ、あさましくそうらえ。

(歎異抄・第十七章)

 指導僧は教団の管理者だから信がなくても教える立場に立つ。親鸞には多くの弟子がいたが「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(第六章)と、生涯、教えを聞く立場に身を置いて教団維持の思惑などない。だから、離れていく人たちがいても「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」(第二章)と、信仰で人を縛ることはしない。だから、親鸞ご一流の門下にあって、教団維持のために「ついには地獄におつべし」などと信者を脅す指導僧がいることに唯円は我慢がならない。そもそも「辺地」とは都から遠く離れ、国王の威令が届かない辺鄙な土地柄を意味している。いまだ真実の智慧がなく方便の教えに止まっている姿を指して「辺地の往生」というのであり、死後の話ではない。大切なことは真実の都から遠く離れてはいても「辺地」もまた浄土の内側だということです。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-12-09 05:01 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十六章(3)

 すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずしてただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。

(歎異抄・第十六章)

 『御消息』に云わく、「自然というは、もとよりしからしむということばなり。弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききて候う。ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり」と。(『末燈鈔』第五通より一部抜粋)

 『自然法爾章』は正嘉二(1258)年、親鸞八十六歳、関東から上京した弟子の顕智が聞き書きした。唯円は「わがはからわざるを、自然ともうすなり」と示しているが、信心深まり、智慧の働きが自在に働き出せば仏のお心がはっきりする。「往生には、かしこきおもいを具せずしてただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし」とは信後の念仏相続の肝要でしたが、仏のお心の中に入り終われば、仏のお心を「おもいいだしまいらす」ことも要らなくなる。いつでも、どこでも、なにをしていても、仏のお心が離れることはないからです。これを「憶念の心つねして」(冠頭讃)という。信の一念に始まった長い年月の後念相続の終局、行き着くところに行き着いた信心の人の心境を唯円は「わがはからわざる」と示し、最晩年の親鸞は自らの心境を『自然法爾章』に述べ伝えた。

 南無阿弥陀仏

*9月18日~53回

by zenkyu3 | 2018-12-04 05:32 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十六章(2)

 信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。

(歎異抄・第十六章)

 「信心さだまりなば」とあるから、ここでは信後の念仏相続のことが述べられている。よって「往生」とあるは「滅度」(成仏)のことです。また「柔和忍辱のこころ」とは貪瞋煩悩が起きてもすぐ消える智慧の働きを言います。さて、第九章で唯円は親鸞にこう申し入れていました。「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と。信の一念に智慧がわずかに生じたが、まだ智慧の働きが現れてこない。だんだん「信心は本物だったのだろうか」という「不審」が頭をもたげてくる。その悩みを親鸞に正直に告白したのが第九章でした。親鸞のご化導の受け止めを唯円はこの章で展開しているのです。この「不審」と葛藤しながら徐々に信心が深まっていく。これが信後の念仏相続、すなわち「往生」の生活の実際です。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-12-03 05:18 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十六章(1)

 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、かならず回心すべしということ。この条、断悪修善のここちか。一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。

(歎異抄・第十六章)

 第十六章は「回心」と「自然」の二つを問題にしている。まず、回心については「弥陀の智慧をたまわりて」「本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ」と、信の一念に智慧が生ずる信体験を明らかにします。次いで、自然については「信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず」と示し、智慧が働き出すように「願力をあおぎまいらせ」と教える。これは信の一念に智慧をいただいてもなかなか働きが現れず退屈の心が起きるが、そのような時は「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう」と、信後の念仏相続の肝要を示したのです。このように第十六章は「信の一念」と、その後の「後念相続」について述べている。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-12-02 05:04 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十五章(4)

 「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」とこそ、故聖人のおおせにはそうらいしか。

(歎異抄・第十五章)

 「今生に本願を信じて」は仏道の始りとしての「①信の一念」であり、「信の一念」の後には後念相続があり、後念相続とは「②往生」の生活です。そして、後念相続の終局として「かの土にしてさとりをばひらく」、すなわち「③滅度」(成仏)があります。真宗では「②往生」(心の往生)と「③滅度」(身の往生)の二つをどちらも「往生」と言うことがあり、真宗教義をわかりにくくしている。「②往生」は現益であり「③滅度」は当益だからです。もし「②往生」が当益なら真宗は真宗でなくなる。なぜなら、「②往生」は「③滅度」に至る現生のプロセスなのに、「②往生」を当益にしてしまえば、仏になるための如実修業がなくなってしまうからです。ただ死後の生活を待つだけの信仰になる。それは真宗ではない。

 南無阿弥陀仏

*9月18日~50回

by zenkyu3 | 2018-11-27 05:46 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十五章(3)

 『和讃』にいわく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまわざれば、六道に輪回すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。

(歎異抄・第十五章)

 「信心のさだまるとき」は「①信の一念」であり、「弥陀の心光摂護して」は摂取不捨の利益、すなわち「②往生」の生活です。そして「ながく生死をへだてける」は生死解脱のことで「③滅度」(成仏)を示しています。唯円は『高僧和讃』(善導讃)を引いて「①信の一念」と「②往生」は現益、「③滅度」は当益と真宗教義の要諦を示した上で、どこをどう解釈したら「すでにさとりをひらく」などということが出てくるのだと「即身成仏」の異義を厳しく批判しているのです。そもそも「成仏」とは煩悩がなくなったことです。煩悩具足の身を持って、しかも休みなく煩悩が起きてきているのに「すでにさとりをひらく」などとはまったくの論外です。煩悩は本能で、しかも断滅することは不可能だからこそ、煩悩を否定せず、煩悩を離れる「横超他力の道」があるのです。その異義者の主張があまりに幼稚過ぎるから、唯円は「あわれにそうろうをや」と言う。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-11-26 05:38 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十五章(2)

 おおよそ、今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真言・法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをいのる。いかにいわんや、戒行恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。

(歎異抄・第十五章)

 『御消息』に云わく、「まことの信心をえたる人は、すでに仏にならせ給うべき御みとなりておわしますゆえに、如来とひとしき人と経にとかれ候うなり。弥勒はいまだ、仏になりたまわねども、このたびかならずかならず仏になりたまうべきによりて、みろくをばすでに弥勒仏と申し候うなり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひとしとおおせられて候うなり。また、承信房の弥勒とひとしと候うも、ひが事には候わねども、他力によりて信をえてよろこぶこころは如来とひとしと候うを、自力なりと候うらんは、いますこし承信房の御こころのそこのゆきつかぬようにきこえ候うこそ、よくよく御あん候うべくや候うらん。自力のこころにて、わがみは如来とひとしと候うらんは、まことにあしう候うべし。他力の信心のゆえに、浄信房のよろこばせ給い候うらんは、なにかは自力にて候うべき。よくよく御はからい候うべし」と。(『親鸞聖人御消息集・広本』第十五通より一部抜粋)

 正嘉元(1257)年、親鸞八十五歳、弟子の浄信に宛てた手紙です。その内容は、承信が「如来とひとしというのは自力の信である」と批判していると浄信が伝えたことについて親鸞が返信して、「いま少し深く承信房には考えて欲しい」と承信の指摘を否定している内容です。親鸞はこの頃から「如来とひとし」とさかんに手紙に書くようになったが、その教えは当時の人には難しく、かえって「即身成仏」の異義の原因になっていった。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-11-25 07:38 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十五章(1)

 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。

(歎異抄・第十五章)

 第十五章は「学問化」の実際例です。「すでにさとりをひらく」とはいかにも理屈好きが言い出しそうなことです。理屈好きは法(外)を見て機(内)を見ない。さて、自力は煩悩を断ずる。他力は煩悩を離れる。こういう違いがある。煩悩は身体を維持する本能だから煩悩がなくなる(仏になる)なんてことはない。だから、他力は「不簡善悪の法なり」といって、身の善悪、心の善悪を「不簡」(えらばず)問題にしない。これから捨てようという無常敗壊の身体と、身体を維持する機能について、よし悪しを言っても仕方がない。だから、他力の道は信の一念に心身を離れる。離れると心身が見える。見えることが如来回向の智慧です。相手にしないから否定はしない。そのまま丸ごと離れる。相手にしなければ煩悩も静かになる。影響を受けなければ煩悩はないのに等しいから、それで信心の人は仏に等しいと尊ばれる。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-11-24 05:14 | 歎異抄を読む | Comments(0)

歎異抄・第十四章(3)

 摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業をおかし、念仏もうさずしておわるとも、すみやかに往生をとぐべし。また、念仏のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそそうらわめ。つみを滅せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり。

(歎異抄・第十四章)

 『御消息』に云わく、「たずねおおせられてそうろう摂取不捨の事は、『般舟三昧行道往生讃』と申すにおおせられて候うをみまいらせ候えば、「釈迦如来・弥陀仏、われらが慈悲の父母にて、さまざまの方便にて、我等が無上信心をばひらきおこさせ給う」と候えば、まことの信心のさだまる事は、釈迦・弥陀の御はからいとみえて候う。往生の心うたがいなくなり候うは、摂取せられまいらするゆえとみえて候う。摂取のうえには、ともかくも行者のはからいあるべからず候う。浄土へ往生するまでは、不退のくらいにておわしまし候えば、正定聚のくらいとなづけておわします事にて候うなり」と。(『御消息集・善性本』第四通より一部抜粋)

 正嘉元(1257)年、親鸞八十五歳、宛名はしのぶの御房とあります。「摂取不捨の事」が要領よくまとめられている。要点は①往生の心うたがいなくなり候うは、摂取せられまいらするゆえとみえて候う。②摂取のうえには、ともかくも行者のはからいあるべからず候う。③浄土へ往生するまでは、不退のくらいにておわしまし候えば。以上の三点です。ここで「往生」とあるはすべて「滅度」(成仏)のことを意味しています。よって、①は信の一念、②は往生の生活、③は滅度を示しています。信心の深まる階梯がわかります。

 南無阿弥陀仏

*9月18日~46回

by zenkyu3 | 2018-11-19 05:18 | 歎異抄を読む | Comments(0)