カテゴリ:正信偈のこころ( 61 )

依釈段・結勧(2)

 (原文)
 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説
 (読み方)
 道俗時衆、共に同心に、ただこの高僧の説を信ずべし、と。
 (正信偈-60)

 『高僧和讃』に云わく、「釈迦弥陀は慈悲の父母/種種に善巧方便し /われらが無上の信心を/発起せしめたまいけり」と。宿業の身には煩悩だけでなく「信心仏性」が埋め込まれています。この身は無始劫以来の宿業の蓄積で、煩悩は雑多ですが、仏性は一つで、その働きは永遠に変わらない。どのように働くかというと、煩悩を離れ、煩悩の影響を受けないように働くのです。さて、以上で『正信偈』六十行、百二十句を読み終わりました。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-06-23 06:00 | 正信偈のこころ | Comments(2)

依釈段・結勧(1)

 (原文)
 弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
 (読み方)
 弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまう。
 (正信偈-59)

 『浄土和讃』に云わく、「信心よろこぶそのひとを/如来とひとしとときたまう/大信心は仏性なり/仏性すなわち如来なり」と。竹内先生に最初に教えていただいたのが「仏とは智慧と慈悲の働きである」です。二十九年間、地下水流のようにずっと流れていた先生の言葉が最近になって意識の表面にわき上がってきました。思い出したのには理由があるのでしょう。今回のシリーズでは「智慧と慈悲の働き」「信心仏性」について書いてみたかった。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-06-22 05:41 | 正信偈のこころ | Comments(0)

依釈段・源空章(4)

 (原文)
 速入寂静無為楽 必以信心為能入
 (読み方)
 速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり。
 (正信偈-58)

 『高僧和讃』に云わく、「曠劫多生のあいだにも/出離の強縁しらざりき/本師源空いまさずは/このたびむなしくすぎなまし」と。親鸞にとり法然は阿弥陀仏の化身、還相の菩薩として目の前に現れた。弟子にとり師匠は生きた仏であり、師匠の仏心と弟子の仏心が照らし合って、仏仏相念の関係が成り立つ。それゆえ、仏道において善知識との出会いは決定的です。師匠の信心も弟子の信心も如来回向ですが、人生において師を持つ喜びにまさるものはない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-06-21 06:05 | 正信偈のこころ | Comments(0)

依釈段・源空章(3)

 (原文)
 還来生死輪転家 決以疑情為所止
 (読み方)
 生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。
 (正信偈-57)

 『選択集』に云わく、「まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」と。自力は自分を証明したいから努力する。努力は理想を持つ。理想はただの観念で、観念に照らせばどんな事実だって不完全だからゴールがない。しかし、よく考えれば、いま、このままの事実は完璧に成就されている。だから、なに一つ不足のない事実を受け入れることが「信」であり、受け入れてなにも問題がないから「涅槃」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-06-20 06:08 | 正信偈のこころ | Comments(0)

依釈段・源空章(2)

 (原文)
 真宗教証興片州 選択本願弘悪世
 (読み方)
 真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。
 (正信偈-56)

 『観経疏』に云わく、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」と。法然は四十三歳の時、この一文に出会って回心したと言われています。「彼の仏願」とは十八願です。「わたし」が称える自力の念仏から「仏」が称える他力の念仏へと念仏の主体が転ぜられる。主体が「わたし」から「仏」へと転ぜられる働きこそが阿弥陀仏の「選択本願」です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-06-19 06:06 | 正信偈のこころ | Comments(6)

依釈段・源空章(1)

 (原文)
 本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
 (読み方)
 本師・源空は、仏教に明らかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
 (正信偈-55)

 『教行信証』に云わく、「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき」と。七高僧の最後、師匠の法然上人(1133-1212)です。「建仁辛の酉の暦」は西暦1201年で、親鸞二十九歳で吉水に入室し、「元久乙の丑の歳」は西暦1205年、親鸞三十三歳で、早くも師の法然から印可を受けた。仏道において善知識との出会いは決定的で、機が熟せば、仏は必ず善知識に会わしてくださる。

 南無阿弥陀仏



by zenkyu3 | 2018-06-18 05:38 | 正信偈のこころ | Comments(0)

依釈段・源信章(4)

 (原文)
 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
 (読み方)
 煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。
 (正信偈-54)

 『高僧和讃』に云わく、「煩悩にまなこさえられて/摂取の光明みざれども/大悲ものうきことなくて/つねにわが身をてらすなり」と。煩悩の賊はあなたの眼をふさいで煩悩を見えないようにしている。だから、あなたは煩悩がなにかもわからないし、煩悩に支配されていることにも気づいていない。気づいていないあなたに法を聞かせようと常にあなたを照らす光がある。照らすのは光、光があるから見える。見えなかった煩悩が見えたら、それが光です。

 南無阿弥陀仏

 

by zenkyu3 | 2018-06-17 06:09 | 正信偈のこころ | Comments(0)

依釈段・源信章(3)

 (原文)
 極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
 (読み方)
 極重の悪人は、ただ仏を称すべし。我また、かの摂取の中にあれども、
 (正信偈-53)

 『観無量寿経』に云わく、「一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」と。光があるから見える。見えるということが光の意味です。だから「摂取不捨」とは、仏の方からわたしが見える。仏から見たわたしが見えたという意味です。仏から見たわたしとは煩悩です。煩悩具足の凡夫です。わたしが誰かがわかった。ありのままのわたしを見せていただいた。見えたことが救いとなった。そのことを「摂取不捨」といいます。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-06-16 06:07 | 正信偈のこころ | Comments(0)

依釈段・源信章(2)

 (原文)
 専雑執心判浅深 報化二土正弁立
 (読み方)
 専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり。
 (正信偈-52)

 『大無量寿経』に云わく、「かの化生の者は智慧勝れたるがゆえに、その胎生の者はみな智慧なし。五百歳の中にして常に仏を見たてまつらず。経法を聞かず。(中略)当に知るべし、この人、宿世の時に智慧あることなくして疑惑せしが致すところなるなり」と。如来回向の仏智を「因」として開けてくるのが「果」としての「報土」ですから、因なくして果なし。「胎生の者はみな智慧なし」だから報土がわからない。報土がわからないから方便にとどまる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-06-15 06:02 | 正信偈のこころ | Comments(0)

依釈段・源信章(1)

 (原文)
 源信広開一代教 偏帰安養勧一切
 (読み方)
 源信、広く一代の教を開きて、ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
 (正信偈-51)

 第六祖・源信(942-1017)は平安中期の天台僧です。日本浄土教の祖とされ『往生要集』を著した。比叡山での名声に浮かれた源信に母が与えた和歌「後の世を渡す橋とぞ思ひしに/世渡る僧となるぞ悲しき」はよく知られている。竹内先生は「念仏を後世の風除けにしている」と言われたが、叱る言葉は厳しくなかった。幾世にわたり法を聞かせ、念仏するまでにお育てくださった仏のご苦労こそ、いま、ここにおられる有縁の御同行であると知っていたから。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-06-14 05:57 | 正信偈のこころ | Comments(0)