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畑のかえる 2018-02-16

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 思えば〈濁川の仏教&人生論ノート〉の読者はわたしの人生論を読んでいた。ついで〈聞其名号信心歓喜乃至一念〉の読者は仏教を教養のように学べたのでしょう。そして〈仏からの道〉になってからは、もう念仏する人しか読まないようなコアな内容です。読者は三分の一くらいに減りましたが、念仏を称えてくれる人が一人でも多く出てくれれば嬉しい。善及

畑のかえる
2018-02-16

 2月になってから、朝、仏壇の前で約30分過ごすようになりました。吉本伊信先生の実践された内観をし、正信偈他をお称えし、最後に正坐します。正坐によって、こころがいかに音や見えるもの、足の痛みその他もろもろに反射的反応をし続けるか体験しています。そして外への反応が消えようとすると思い出や考え事が浮かびます。静かな境地を目的にしていません、こころをながめられるだけで良い訓練になります。日常的にも、自分の心を離れるよう心がけていますが、なかなか難しいです。

 一昨日、松原致遠師のご本を読み始めました。今後ともよろしくお願いいたします。善及さんのお育てに感謝します。

浄土門の慈悲
2018-02-16

by zenkyu3 | 2018-04-20 05:56 | コメント欄から | Comments(0)

ナナシ 2018-03-09

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 ネットは匿名の世界、読者に会うことはありませんが、わずかな例外もあります。かつて読者を対象に「歎異抄を読む会」を催したことがありますが、難しいこともあり一度でやめました。会いたいと頼まれてお会いした方も数人あります。お子さんに念仏を称えるよう説得(?)してほしいという親御さんからの依頼を受けたこともありました。ネットを始めた2004年4月から丸14年、どれだけの人とご縁があったろうか。みなさん、その後も念仏を称えてくれているだろうか。善及

ナナシ
2018-03-09


 沈空の難を超えると無功甩になる。十地経で教わりました。信と念佛が広略相入し無限大悲を何度でも知らしめる。自身が間違いなく凡夫であり、助からぬ者であることを徹底的に知らしめる。だからこそ必ず助ける、汝と共にいるという無限の大悲がまします。まことに尊い大悲であります。このままなりで念佛を聞かせて頂くよりほかに何もありません。南無阿弥陀佛


七地沈空の難
2018-03-09


by zenkyu3 | 2018-04-19 06:08 | コメント欄から | Comments(2)

どんぐり 2017-09-02

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 いろんなご縁があって、いろんなお育てがあって、たまたま当ブログを読んでいただいた。読んでいただいたばかりかコメントまでいただいた。これもまた、わたしを喜ばせようとの仏のお手回しといただいております。これまで「念仏を称えます」と言ってくださった方はたくさんおられます。そのような方たちは「気づいた」とは言わず「気づかせていただいた」と仰います。ありがたいことです。善及

どんぐり
2017-09-02

 煩悩とは「思い通りにしたい心」です・・。とても耳に痛い言葉です。自分が悩み苦しんできた正体とは、ただ「思い通りにしたい心」だったのかと、ここまで生きてきてやっと気づかせていただきました。それと「煩悩は煩悩を見ない」、これも痛烈です。煩悩まみれの頭で考えることは、他人や社会を責めたり、自己弁護の理屈を考えるだけだったと、思われてきます。私も南無阿弥陀仏を称える人間になりたいと思います。南無阿弥陀仏

二つの「大切の証文」
2017-07-06


by zenkyu3 | 2018-04-18 06:11 | コメント欄から | Comments(0)

ホタル 2018-04-13

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 「自信教人信」という言葉があります。わたしにとっての「自信」が人には「教人信」になることがある。しかし、わたしには人になにかを教えるつもりはあまりなく、日々のお育ての中で聞こえてきたことを日記のように書いている。仏教ブログ〈聞其名号信心歓喜乃至一念〉を明日には終了しますが、古い記事を少し読みました。書いていることはなにも変わっていない。これからも変わらないでしょう。善及

ホタル
2018-04-13

 こんにちわ。私は『濁川の仏教&人生論ノート』の時からずっと読ませていただいております。これまで1度だけコメント投稿し、「正気の島」にたどり着かせてもらった喜びと感謝の気持ちを述べさせて頂いたことがあります。『仏教&人生論ノート』を閉鎖なされた時も残念で仕方ありませんでしたが、この度『聞其名号信心歓喜乃至一念』を全削除なさるということも大変残念です。

 というのも、善及様がご自分の様々な段階で書いてこられた事柄は過去のことではあるにしても、私のように偶然辿り着いて来る様々な読者の様々な現在の様子にとって対機説法のように働くのではないかと思われるからです。私自身にしても2004年の時点では、当時の濁川さんの言葉だったからこそ心を動かされたのではないかと思われるのです。それで残念です。

 しかし、とは言え、前ブログの閉鎖をお決めになったお心は私などの想像できない所にあるのだろうと思います。残念の気持ちは吐露しました。これからも熱い読者を続けて行きます。いつも誠の言葉を読ませていただき、心から感謝申し上げます。

「仏の心に出会うまで」について
2018-04-06


by zenkyu3 | 2018-04-17 05:55 | コメント欄から | Comments(0)

TEN 2018-03-25

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 わたしたちには世渡りとは別に信仰の生活があります。信仰の内面を人はあまり見せないものですが、ネットでは匿名ゆえにそれが可能になる場合があります。世間における煩わしい人間関係とはまったく関係ないところで個と個が出会うことができるからです。その結果、そこに純粋な対話が成り立つことがあります。読者とわたしが向き合うことがあるコメント欄には埋もれさせてしまうには惜しい読者の投稿コメントが多々あります。これから少しばかり記事にして残しておきます。善及

TEN
2018-03-25

 > お聖教を憶えても信心は得られないが、信心をいただけばお聖教がよくわかる。
私は先生と同じ心になりたいのに、先生が書き残された本の内容が分からず苦しみました。ご信心を頂いてみると、どのページを読んでも大悲に溢れていました。その時に先生と同じ心になったと分かりました。善及さんと同じように私の先生も「主体の転換」を書き残して下さっていました。「我いかにして信ずべきか」から「弥陀いかにして我に信ぜしめんとしているか」という転換でした。ですので、善及さんのブログを懐かしく読ませて頂いております。

 > 仏に出遇うというのは自分に出遇うのである。狂っていた者が正気に返るのである。
ありがたいことですね、なんまんだぶ。

帖外ブログ・其の十八
2018-03-29

by zenkyu3 | 2018-04-16 04:21 | コメント欄から | Comments(0)

TEN 2017-11-04

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 読者の中には「信心がわかったのだなぁ」という方もおられて、そのようなお方に出会うことができるのはブログを運営する最も大きな喜びです。いろんなことが起きますが、例えば、メールでやりとりしているうちに思い高ぶり本当に出家してしまった方もおられました。最近はまったくなくなりましたが、サイトを始めた頃は争論が目的のような方が多くおられました。否応なく議論の仕方も覚えることになります。いまでは直感に頼ってすぐに返信していますが、コメントの返事をどうするか一日考えることも多々あったりと、読者に育てていただいたということもあるのです。いわば、ブログはわたしの聞法の道場なのです。善及

TEN
2017-11-04

 >一切衆生の身体に埋め込まれていた無生無滅の仏心が今に目覚めた。
はじめまして。この一文を見た時に「おやっ?」という気持ちになり、コメントさせて頂きました。ご本願喜ばせて頂けるようになってから、さまざまな先生の色々な文章を読みましたが、これは「柏原祐義・禿義峯編」とありますので、両先生がお書きになった解説なのでしょうか?読ませて頂いて、自分が本願まことを知らされた時のことを思い出しました。

 「腕時計のような精巧な機械が私の知らないうちにすでに私に収められていて。そこに電池のような動力が投入されて、ずっと動かずに止まっていた機械が動きだした。」そのような感覚を覚えました。すべてが自動的で私の意思に関係なく、「すべて阿弥陀様に仕組まれていた!」とさえ思いました。私は自分の身の上に起きていることをただ傍観するだけ。電力にあたるものは大慈悲心でした。大慈悲心が飛び込んできた時に迷いの命が終わって、本願を信じる命が始まった。

 その時の体験ほど不思議なことはありませんでした。体験は人によって違うようですし、上手く説明できないのであまり他人には言っておりません。ですが、「この文章をお書きになった方は私と同じような体験をされたのかな?お話ししてみたいなぁ」という気持ちに駆られて、ついコメントしてしまいました。

 いまは「主体が変わるのが真宗です」ということを有縁の方にお伝えしているだけです。これは人によって感じ方が違うというようなものではないと思っています。真宗は「聴聞に極まる」と言われます。「聞く」とは「主体が入れかわる」ということでした。「私」が主人公だった人生劇場が、「阿弥陀様」が主人公のドラマに変わりました。それを「疑い晴れる」と仰っていると頂いています。この文章と出会えたことを嬉しく思います。ありがとうございました。自分のことばかり書いてしまってすみません。また他の記事も読ませて頂きたいと思います。

疑いが晴れる
2017-01-17


by zenkyu3 | 2018-04-15 06:09 | コメント欄から | Comments(0)

竹内先生の思い出

  はじめまして、****と申します。
  現在、定年退職して、九州の***に在る「**寺」というお寺で、
  寺男の一人として生活している者です。
  ことの始まりは、貴殿のウエブサイト「ZENKYU」を拝見したことに始まります。

  この国の基をつくられた聖徳太子の言葉「世間虚仮 唯仏是真」について勉強している時に、
  貴殿のサイトに出会いました。

  その中で、貴殿が師と仰がれている方が、
  竹内維茂先生、浄土真宗 崇信教会 東松山市とあったからです。
  実は、私は五十四年前、崇信教会に高等学校、大学を通して学生7人で数年間お世話になり、
  竹内維茂先生からはいろいろ教えを頂きました。
  思い出深い学生生活でした。

   (中略)

  貴殿のことは、竹内定ご住職の話で、
  二十年以上前、*****出版社勤務されている時に、
  編集の仕事に悩んで、突然、崇信教会に来られたと聞きました。
  その貴殿が、一人でも多くの方がお念佛を申されるようにとの願いを以って、
  一角を照らす者として、御活動されていることに、大変、共鳴いたしました。
  大変ありがとうございました。

   **** 合掌

   平成二十六年八月十七日


 人が悩むというのは“問い”をもつことだろうと思う。どのような問いか。それは「わたしはなぜ生まれてきたのか」という根本的な問いです。このような問いは生きるための技術しか知らない世間の人にはとうてい答えられない問いで、仏法だけが答えられるものです。

 このような問いをもった者に対して真摯に向き合える人は世間に多くはいない。自ら問いをもったことのない者は言うに及ばず、問いをもっていても自らがまだ闇の中にいては他に光明を示すことができないからです。同じ問いをもった者として真摯な態度で向き合ってくれた人、それが竹内先生でした。ただ一人の人です。

 南無阿弥陀仏

  
  仏教ブログ〈聞其名号信心歓喜乃至一念〉
  2014年10月1日付けの記事「竹内維茂先生のこと」よりの再録です。
  竹内先生を知っている方からお便りをいただいのはこの方だけです。
  大切なお便りですので、ここに再録しました。


by zenkyu3 | 2016-12-27 20:17 | コメント欄から | Comments(0)