会員からのお便り (10)

 毎朝、鏡をみる。寝ぼけた、情けない顔がある。しかめっ面をしても、満足な顔にはならない。学生の頃、鏡の前で顔をしかめては、気に入った顔になるまで鏡をながめている友達がいたが、どの顔が自分にふさわしいかを一生懸命さがしているようで、ユーモラスな光景だった。最近は、男が化粧しても怪しまない風潮で、美しくなりたいという願望は、女性の専売ではなくなったが、化粧をしていない自分の顔を見るとゾッとするという女性もいると聞く。

 自分自身の心の動きを見ていると、どうも私は自分の本当の顔は何か、と真剣に考えてみることに本能的な不安を隠している。化粧をしていない素顔を見てゾッとする女性があるとすれば、自分の本性を見たら、私の場合、泡を吹いて卒倒するかもしれない。それは、化粧の下の素顔に怖れをもつあの女性と同じ心理かな。

 ただ、自分の本性を深く掘り下げていく勇気をもった方々が、心の底の深いところで発見するのは、自己中心的で、他人にはやたら批判的、平気で嘘をつき、人にはへつらい、打算、欲望、ものおしみと、なんとも惨めな自己の現実で、私にはとても正視に耐えられないものです。

 仏は、我々を「煩悩具足の凡夫よ」と正しく呼び出されますが、人は誰も自分のことだと思わないみたいです。一片の真実もないこの身の事実を受け入れるということが、どのようにして人に可能となるのだろうか。

 1992.07.15


by zenkyu3 | 2018-04-24 06:14 | 会員からのお便り | Comments(0)

会員からのお便り (9)

 信心に育てられて自分が立派になっていくのだ、くらいに思っているから、所詮“私の信心”など観照用の“信心較べ”にしかすぎない。だから、私が信心するのではなくて、仏の本願がこの身にかけられているのだという驚き、痛みなどどこにもない。ああ、恐ろしい・・・。

 仏の前では己の凡夫ぶりが明らかになるだけで、どんな自力の強情をもってしても己の正当性など立ちようがないのに、やっぱり嘘をつき、誤魔化し、人を傷つけても、やっぱり平気のひでえ奴が己の本性。もったいなくも、親鸞聖人までお連れして、己の凡夫ぶりを正当化する。

 自分を誇りたい自力の根性そのままに、まるごと救う慈悲などありゃしない。仏道は徹底したエゴ否定の実践道、仏は自力の鼻っ柱をへし折って、ただの素凡夫へ叩き落としてから救うのです。どんなにうまく立ち回っても、所詮は凡夫のはからい、そんなはからいなど見事に照らされてしまうから、初めて迷いを迷いと知る智慧も出てくるのでしょう。

 ただし、一度救われたからそれで済む程、己の本性はヤワじゃない。嘘と誤魔化しに念を入れ、念を入れしているうちに、初めが何であったか忘れてしまうバカバカしさ。仏もこんな奴をわが子に持てば、その慈悲も並大抵ではない。本当にたちの悪いガキだ。

 1992.05.27
by zenkyu3 | 2018-04-23 06:10 | 会員からのお便り | Comments(0)

会員からのお便り (8)

 ある機縁で、自己の欺瞞性と傲慢さが否応なく見えはじめ、やがて自己への信頼がガラガラと崩れだす。心の貴族性が翳りはじめ、乞食の位か、それ以下へ落ちぶれていく。奈落の真っ暗闇へ頭から落ち込んで、地獄の底ではじめて“求める”ことをするのである。

 己を鍛え、精神を高め、徳性を磨いて、明るい人生の成功を切り開いていこうとする私の努力主義は、己の傲慢、卑劣さの醜い内面を隠蔽し、ひたすら己を善になし、真になしていこうとする自己保身の飽くなき企みに他ならない。そのことを仏は照らし出すのである。いま地獄に落ちたのではなく、始めから地獄だったと知るのである。

 自己を完全になしていこうとする努力主義に行き詰まり、己の欺瞞、傲慢の本性に絶望し、念仏に身を捨てることを決意するとき、自力ではなしえぬ自力の否定が他力からなされてくる。相対有限の此の身を絶対になしていこうとする顛倒邪見が根源から翻されて、仏との真実の関係性に入っていくのである。

 これは知識ではなく、思議を超えた救いの事実である。凡夫の虚妄さは微塵も変わらず、むしろ、摂取不捨の光の中で己の罪悪性がますます明らかになる中で、ただ南無することだけが真実の生き方である、と知るのである。

 1992.05.08


by zenkyu3 | 2018-04-22 06:06 | 会員からのお便り | Comments(0)

会員からのお便り (7)

 死んだらこの「私」はどうなってしまうのか。自分の知らないところへ、有無を言わさず連れていかれる恐怖に近い不安が、若い頃からありました。いささか書に触れるも、虚無に落ちていくばかりで、結局、死後のことは私には解決できないと決め、拙い思索を放棄して、社会へ出ました。死後の解決はないと決めた時、どういう訳か、結婚して子供をつくろうと考えていました。そのようにして家族ができ、たどたどしくも、窮屈な社会生活が始まったのです。

 元々世渡りがうまくもないのに、上手にやろうとするから失敗が多く、その都度“何のために”という人生問題が露出してくるのです。考えてみれば、社会を生きる知恵は年とともについたけれど、本当に知らなければならないことは、何一つ知らないのです。この人生の決着もつかずに、だらだらと生きることの矛盾にだんだん耐えられなくなっていく。そして、内の矛盾を押し殺し、人生を力とテクニックで生き切ろうという虚無的な決意を実行していたその頂点で、幸いにも、お叱りを受けるように仕事で頓挫したのです。

 やがて、よき師と出会い、この私と娑婆世界を見る“仏の視線”に出遭い、仏のこころの中に生きるようになりました。若い頃の“問い”が心の底を絶えることなく流れ続けていたのだなと思います。不思議な縁です。浅ましい己が姿と微塵の真実もない娑婆生活だけれど、仏の慈悲に慰められ、勇気づけられながら、かろうじて、ヨタヨタと、しかし確かな道を歩ませていただいています。

 1992.04.03
by zenkyu3 | 2018-04-21 05:59 | 会員からのお便り | Comments(0)

会員からのお便り (6)

 仏は、この私をどう見ておられるのか・・・・。

 親の目、教師の目、ライバルの目、叱責の目、愛情の目、軽蔑の目。様々の視線に出合って人生を生きてきた。数多くの視線の先に、様々な顔をした私がいた。愚図であったり、変わり者であったり、健全な常識人であったり、と。

 けれど、どの眼の中にも本当の私はいなかった。本当の私を見失ったまま、生涯の大半を過ごした。そして生きる意味もわからず、力で世間を生き抜こうと意を固めた矢先に、仕事に大きく挫折した。そんな時に、仏法に出会った。

 聴聞するうちに、私を見つめる“ある視線”に気づいた。その視線が心を離れなくなった。その眼は、いままで出会ったどの眼よりも厳しいように思えた。ただ、本当の私の姿を見てくれているような親しみも感じ、やがて信頼感も生まれた。

 その眼は、心のこごえた我が子を悲しむ母親のような眼でもあったように思う。苦しむのはもうやめなさい。つくろうことはもうやめ、一切を許し、任せることをしなさい、と。しかし、私は、任せることに異常な不安を感じ、それは、ほとんど不可能に思えた。

 いや、なにより、その眼は私の心の中の“つくりもの”にすぎないのではないか、という疑心が離れなかった。確信がなかった。だが、ある日突然、阿弥陀仏が私の姿を発見した。その視線の先に、ハッキリと私の姿が存在した。間違いのない本当の私と、阿弥陀仏に出遭う。初めて、私の思いを超えた真実に出遭う。

 1992.01.23


by zenkyu3 | 2018-04-14 06:01 | 会員からのお便り | Comments(0)

会員からのお便り (5)

 竹内先生との邂逅があり、以来、先生の下で聴聞し始めて1年余りになりました。不思議なことに、もう10年も20年も経ったように感じます。そんな懐かしさをもって聴聞を続けている折り、耳元でこんな声を聞きました。

 ・・・わたしは、お前が生まれるずっと前から、お前の側に立ってた。耳元で声もかれんばかりに叫んでも、一度も振り返ろうとしなかったね。

 ああ、ありがとう。すみません。

 1992.01.23


by zenkyu3 | 2018-04-13 06:02 | 会員からのお便り | Comments(0)

会員からのお便り (4)

 人間どうしが本当にわかりあえる、とはどういうことだろう。テクニックとしての思いやりや、下心を隠した誠実さ、説得だけを考え、相手に教えられ、自分が変わっていくことを予定しない傲慢さ・・・そういうものから自由になるということが果たして自分にできるだろうか。

 会社においても、社員間の相互理解とはいっても、思惑と自己利害が先行し、相手の本心を伺う努力、真摯に解決策を捜し出そうという誠実はほとんどありません。或いはこの娑婆自体が、狼どうしのにらみ合いに似た相互不信を前提に成り立っているのか。自己の利害と打算、思惑の枠を通してしか人間のふれあいが成り立たないとすれば、とても悲しい事実ではないだろうか。

 会社の同僚、上司、部下、妻、子供、両親、親族、親友と、それぞれに名前は違っても、自己の打算を越えたところで人に出会うということが、私にはできているのか。この世に一人生まれてきて、茫漠とした荒野のような人生を、一人歩む。一人の同行者もなく、やがて、一人さびしく世を去ってゆく。戦慄すべき事実であります。

 しかし、確かなことが一つ。人にもまして、この世で人が遇わなければならない、ただ一人のお方がおられます。阿弥陀仏・・・その方です。もし、阿弥陀仏との道行きが適えばそれは、言葉に尽くせない素晴らしい生涯なのだと思います。そして、阿弥陀仏にお遭いすることで、新たな人との出会いがやってきます。

 1992.01.03
by zenkyu3 | 2018-04-12 06:10 | 会員からのお便り | Comments(0)

会員からのお便り (3)

 信ずることは、出遇うこと。相対有限の此の身が、絶対無限の仏にどこで出遇うことができるのか。絶対無限の仏との出遭いがなければ、相対有限の此の身ということも、本当は分からないのだと思います。この私はどこから来たのか。死んででこへ行くのか。仏とは何か。本当の私は誰なのか。・・・・・仏との出遭いの事実によってのみ、一切の疑いは晴れ、生まれたことの喜びに蘇ってゆくことができるのでしょう。

 浄土の光に照らされて初めて、己の姿が見え、人間現実の虚妄が知らされてきます。けれども、気づけばいつも、己の心を美しく、完全にすることばかりして、自己弁護の言い訳と自己保身に明け暮れる、それが、かけねない私の姿です。浄土のさとりを願いつつ、煩悩のこの身がとても愛おしいのです。しかし、人生は短い、生きてあることの意味を今、聞き遂げなければ、人生は間違いなく、空しく終わってしまいます。

 煩悩の生活にまみれながら仰ぐ、仏の恩。
 称えることの嬉しさ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

 1991.12.13
by zenkyu3 | 2018-04-11 06:12 | 会員からのお便り | Comments(0)

会員からのお便り (2)

 真宗の門を叩いた。三部経も読んだ。親鸞聖人のご著書を読み、聴聞もする。しかし、念仏が口に出てこない。申せない。阿弥陀様が西におられます。何の象徴だろうか。人間の姿に似た阿弥陀仏が、現在なお西方浄土で衆生済度しておられる。・・・・・何をわかれというのだろう。わからない。

 ただ、信じられないままに、浅ましい己の姿が見えてきた。見たくない自分の姿が見えてきた。日々、責められるように苦しくなる。どんどん苦しくなる。逃げるか。どこへ。答えを探す、考える。やはり解答はない。形も姿も見えない仏、本願を信じろといっても、どうすることが信ずることなんだろう。

 苦しいままに自問する。お前は自分を救えるのか。否。念仏以外に救われる道が、今お前にあるのか。ない。救いの約束を拒む傲慢さと、理屈をつけなければならない小心さに低迷し続ける。壁にぶち当たったまま、ある時、一切を任せて、そのままに、初めての「南無阿弥陀仏」。

 ・・・・仏と自分の本当の区別がわかり、死んでゆく先の解決が与えられ、自然に頭が下がっていく。そして、20数年抱え続けた心と体の重しが雲のように引いてゆく。

 1991.11.14
by zenkyu3 | 2018-04-10 06:06 | 会員からのお便り | Comments(0)

会員からのお便り (1)

 “希望”という言葉がある。赤ちゃんの優しい瞳には一切の穢れがなく、明るい将来を予感させ、活動的で、屈託のない子供たちには両親の夢と可能性が託されている。未来に光があるのです。


 発展を続ける会社には展望があり、注目の新規事業にはビジョンがあり、人生に夢あり試験には合格の可能性がある。また、今やっている仕事は先がしっかり見えている。・・・・・そんな時、人は誰しも自信に満ち、活動的で、素直な気持ちを持って生きているのではないでしょうか。

 しかし、事業に展望が見いだせず、人生に夢破れ、仕事に価値がなく、自己の可能性に自信が持てなくなった時・・・そんな時、人は人生を地獄のようだと感じ、苦しみ、時に投げ出す。自分の未来に光明が見いだせない時、人生に真摯であればそれだけ、その人の苦しみも深いといえるでしょう。

 そう考える時、私たちの人生の終わりの向こうに、果たして光と希望があるだろうか。

 1991.10.10
by zenkyu3 | 2018-04-09 06:05 | 会員からのお便り | Comments(0)