愚者になりて往生す

*1 なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのしにあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。

*2 まず、善信が身には、臨終の善悪をばもうさず、信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候うなり。さればこそ、愚痴無智のひともおわりもめでたく候え。如来の御はからいにて往生するよし、ひとびともうされ候いける、すこしもたがわず候うなり。としごろ、おのおのにもうし候いしこと、たがわずこそ候え。かまえて、学生沙汰せさせたまい候わで、往生をとげさせたまい候うべし。

*3 故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとてえませたまいしをみまいらせ候いき。ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。いまにいたるまでおもいあわせられ候うなり。

*4 ひとびとにすかされさせたまわで、御信心たじろかせたまわずして、おのおの御往生候うべきなり。ただし、ひとにすかされたまい候わずとも、信心のさだまらぬひとは、正定聚に住したまわずして、うかれたまいたるひとなり。乗信房にかようにもうしそうろうようを、ひとびとにももうされ候うべし。あなかしこ、あなかしこ。

 文応元年十一月十三日 善信八十八歳
 乗信御房

(末燈鈔・第六通)

 文応元(1260)年、親鸞八十八歳、宛名の乗信房は常陸国奥郡の人。年、日付のある手紙としては最後の手紙です。全体を四段に分けると、まずは「生死無常のことわり」に触れ、第二段は「善信が身には、臨終の善悪をばもうさず」と、死を前にした自らの心境を述べている。第三段では「愚者になりて往生」した師・法然聖人の臨終の姿を回顧し、最後は「御信心たじろかせたまわずして、おのおの御往生候うべきなり」と、別れていく弟子たちへの遺言のような形で手紙は終わっている。

 信後の念仏相続の末、はからいがまったくなくなって、行き着く処に行き着いた。あとは成仏するばかりの念仏者の姿を、法然聖人は「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と教え、親鸞もこの手紙で「愚痴無智のひともおわりもめでたく候え」と述べている。どういうことかと言えば、はからい尽きて「愚者になりて往生す」という念仏者の到達点を示すとともに、自利利他円満してあとは「成仏」するばかりの自らの姿を見せることで、法然、親鸞が歩んだ往生の道をあなたたちも迷わず進みなさいと励ましているのです。


 また、親鸞はこうも言う。すなわち「善信が身には、臨終の善悪をばもうさず」と。仏教においてよい死も悪い死もない。無常敗壊の身を捨てるだけです。形ある方便の姿にあって、信心の人は常に形なき本来の命を見てきた。智慧も深まり、仏になることになんの疑いもなくなったから、親鸞は自らの住する境地を「等正覚のくらい」とも「如来とひとし」とも教えた。「乗信房にかようにもうしそうろうようを、ひとびとにももうされ候うべし」と、この手紙を周りの人たちに見せるよう促しているのも、死を前にした親鸞が自利利他円満の「成仏」を身をもって示そうとしているからです。親鸞、最後のご化導です。


 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-11-10 05:05 | ご消息集のこころ | Comments(0)

行をはなれたる信はなし

 四月七日の御ふみ、五月廿六日たしかにたしかにみ候いぬ。さては、おおせられたる事、信の一念、行の一念、ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆえは、行と申すは、本願の名号をひとこえとなえておうじょうすと申すことをききて、ひとこえをもとなえ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかいをききてうたがうこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこえするとききてうたがわねば、行をはなれたる信はなしとききて候う。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべく候う。これみな、みだの御ちかいと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかいを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。いのち候わば、かならずかならずのぼらせ給うべく候う。

 五月廿八日  (花押)
 覚信御房御返事

 専信坊、京ちかくなられて候うこそたのもしうおぼえ候え。また、御こころざしのぜに三百文、たしかにたしかにかしこまりて、たまわりて候う。

(親鸞聖人御消息集・広本・第十四通)

 建長八(1256)年、親鸞八十四歳、弟子の覚信の「信の一念、行の一念」についての質問に答える返信の手紙です。親鸞没後三十年に書かれた『歎異抄』にも「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信ずるかと、いいおどろかして」(第十一章)とありますが、親鸞存命の頃からあった異義と見えます。異義などというとオドロオドロしいが、要はまだ信心がわからない。わからないのにわかったように教えるから問題が生じる。

 さて、「信の一念」ということがある。どういうことかといえば、仏のお心を経験する。仏のお心を知ることと自分の心が見えるということは同じことです。見えたからといって自分のなにかが変わったということはないが、自分以外の大きな心に触れて自分が誰かがわかった。これが救われるということです。わたしを見そなわす眼がある。これがわかった一瞬が「信の一念」であり、わたしにかけられたお心があったことの驚き、わたしを縛っていた小さな心から離れられたことの喜び、そのようにして救っていただいた仏への感謝、その時はそんなことはまったくわからないが、それらが一つになって「一声の念仏」になるのです。だから「信の一念」と「行の一念」とは同時です。救われた喜びと、救っていただいた感謝は一つのことですから、「信の一念、行の一念、ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし」という親鸞のご化導です。信の一念に行が確立し、念仏から煩悩が照らされて仏への道に立たされて行く。念仏のお力で信心の智慧が深まっていく無碍の一道はその時から始まったのです。


 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-11-07 05:47 | ご消息集のこころ | Comments(0)

 この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。愚禿親鸞八十六歳


 正嘉二歳戊午十二月日、善法坊僧都御坊、三条とみのこうじの御坊にて、聖人にあいまいらせてのききがき。そのとき顕智これをかくなり。


(末燈鈔・第五通)

 救いの働きである弥陀仏のお誓いがすでにわたしにかけられている。法爾に自然に働くという道理の道筋がのみ込めたら、あとは弥陀仏のお誓いを信じるばかりです。汝を救うというお約束なのだから、われらには信じてお任せする一事しかない。それが「義なきを義とす」ということです。信じて念仏するだけで仏になる。こんな不思議なことはありません。それで仏智の不思議と申し上げます。愚禿親鸞八十六歳。

 この文書は、正嘉二(1258)年十二月十四日、親鸞聖人の御歳八十六歳のおり、関東から上京した弟子の顕智が、善法坊僧都御坊、三条富小路の坊にて、いくつかの疑問点についてお尋ねし、それについてのお答えを、顕智が聞き書きしたものです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-07 06:13 | ご消息集のこころ | Comments(0)

 自然というは、もとよりしからしむということばなり。弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききて候う。ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。無上仏ともうすはかたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめて弥陀仏とぞききならいて候う。みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり。


(末燈鈔・第五通)

 さて、改めて自然について。自然とは元々、自ずからそのようになるという意味の言葉です。弥陀仏のお誓いとは、わたしの努力をすべて捨てて、南無阿弥陀仏と頼んだとき、その者をわが心の中に迎え入れようとのお約束ですから、頼んだ者は必ず救われるのです。救われた証拠には、善悪、好き嫌いを言う心がなくなります。わたしの意志に関係なく、弥陀仏のお誓いは必ず成就してわたしを救うので、自ずからそうなるという意味で、弥陀仏のお誓いを自然というと教えていただいております。

 弥陀仏のお誓いの内容はなにかと言えば、わたしをこの上ない仏にしようとお約束されたことです。この上ない仏とは目に見えない救いの働きのことをいいます。働きは目に見えない。目に見えないから自ずから然りです。形あるものは物であり心ではない。さとりの智慧は目に見えない。見えないから救いの働きという。形なくして働く救いの働きを、それと教えるために阿弥陀仏のお姿になって現れてくださった。そのお姿を拝して、救われよと、そうお聞きしております。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-06 06:15 | ご消息集のこころ | Comments(0)

 自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむるということばなり。然というはしからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。法爾というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。法爾はこのおんちかいなりけるゆえに、すべて行者のはからいのなきをもって、この法のとくのゆえにしからしむというなり。すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり。


(末燈鈔・第五通)

 自然法爾ということ。まず、自然について。自然の自は自ずからという意味の言葉です。わたしの意志に関係なく、あちら側から働いてくるお力がある。自ずからとはそういう意味が含まれている。次に、自然の然もまた、自ずからそうなるという意味の言葉で、自ずからそうなるというのは、こちら側、わたしの意志ではなく、あちら側、つまり如来のお誓いだから、自ずからそうなるというのです。如来のお誓いはわたしの意志に関係なく働くから、そのことを自然というのです。

 次いで、法爾について。法爾というは如来のお誓いのことだから、自ずから働くので法爾といいます。法爾は如来のお誓いだから、わたしの意志とはまったく関係なく働く。わたしの意志とはまったく関係がなく働くから、わたしの努力はなにもいらない。すでに法のお力が働いてくださっていて、わたしを救う働きを現してくださったので、わたしはもうなにもすることがない。だから、わたしはなにもしない。このゆえに「他力には義なきを義とす」(法然上人のお言葉)と教えていただいております。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-05 06:29 | ご消息集のこころ | Comments(0)

 獲字は因位のときうるを獲という。得字は果位のときにいたりてうることを得というなり。名字は因位のときのなを名という。号字は果位のときのなを号という。


(末燈鈔・第五通)

 自然法爾のこと

 信心獲得の獲得について。獲得の獲は菩薩の位で悟るので獲といい、獲得の得は果位に至って悟るので得といいます。弥勒に等しいと称えられる凡夫のさとりは如来回向の信心で、信心の中身は仏のさとりと因果同質のさとりなので、信心獲得といいます。また、名号について。南無阿弥陀仏という仏のお名前は因位におけるさとりのお名前を名とお呼びし、果位におけるさとりのお名前を号とお呼びします。因位の信心をいただいた凡夫の姿が南無阿弥陀仏なら、凡夫の果位に至っての姿も南無阿弥陀仏。因位も果位も因果同質のさとりなので名号といいます。さて、果位の仏のさとりが因位のわたしに届くことを自然法爾といいますが、その自然法爾ということについて。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-04 10:38 | ご消息集のこころ | Comments(0)