『宝号経』にのたまわく

  『宝号経』にのたまわく、
  弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、
  ただ仏名をたもつなり。
  名号はこれ、善なり、行なり。
  行というは、善をするについていうことばなり。
  本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、
  善にあらず、行にあらざるなり。
  かるがゆえに、他力ともうすなり。

  (末燈鈔・第二十二通)

 試みに現代語訳。『宝号経』にこうあります。いわく、弥陀の本願にかなうような行もなければ善もない。ただ仏のみ名を称えるだけでいい。み名を称えることにまさる善もなければ行もないからです。というのも、往生の業はさとりの智慧に裏づけられた大行でなければならない。仏から回向された大行をもって始めて往生の業といえる。さとりの智慧の裏づけのない凡夫の称える念仏では往生になんの役にも立たない。だから、本願にお約束された信と行をもって往生しなさいというのです、と。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-07 06:34 | ご消息集のこころ | Comments(0)

無明のさけにえいふして

  もとは、無明のさけにえいふして、

  貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ、
  このみめしおうてそうらいつるに、
  仏の御ちかいをききはじめしより、
  無明のえいも、ようようすこしずつさめ、
  三毒をもすこしずつこのまずして、
  阿弥陀仏のくすりをつねにこのみめす身となりて
  おわしましおうてそうろうぞかし。

  (親鸞聖人御消息集・広本・第一通)

 試みに現代語訳。かつて、まだ仏法を聞く前のみなさんは、自分の心がどのようかの反省もなく、ただ、心にまかせて、これが欲しい、あれが嫌いと、放佚無慙な生き様で、決して心の内側に目が向くことはありませんでしたね。それが仏の御促しにより法を聞くようになってからは、自分の心を見ることが少しはできるようになり、欲しい心や、怒り腹立ちの心とも少しは距離が取れるようになってきたのでした。法を聞く楽しみもわかりかけてきたところです。

 さて、無明の酒に酔うということ。無明とは心を見て自分だと思うことです。心は貪瞋煩悩でできているから、あなたは心にたえまなく命令されて、ああなりたい、こうしたいと欲張り、そうならないのは人が悪いと、怨み、憎み、嫉妬して、いつも怒りにまみれた生活に明け暮れしている。怒りに巻き込まれて、常に大小の罪悪を造り続けているが、そんな心の現実にすら気づいていない。放佚無慙な生活しか知らない。

 それもこれも元はと言えば、心を見て自分だと思う無明から始まっている。心を中心とし、心を最大の価値として、心が望むことを実現することが生きる意味だと信じ込んでいるから、心に自分をすっかり奪われてしまっている。心が主人で、あなたはただ心に命令されるだけの人でしかない。心はただの因縁生起で、思いや感情は雲のように湧いたり消えたりしているだけなのに、あなたはいつまで、そんな心を相手にしているのか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-25 06:18 | ご消息集のこころ | Comments(0)

  如来の誓願を信ずる心のさだまる時と申すは、
  摂取不捨の利益にあずかるゆえに、
  不退の位にさだまると御こころえ候うべし。
  真実信心さだまると申すも、金剛信心のさだまると申すも、
  摂取不捨のゆえに申すなり。
  さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。
  これを、不退のくらいとも、正定聚のくらいにいるとも申し、
  等正覚にいたるとも申すなり。

  (御消息集・善性本・第二通)

 我は闇であり、闇を破る光は外からやって来る。自力は自分の心が光を発すると勘違いする。光は外からやって来るから必ず他力である。我が見えることを智慧といい、我が見えたことが救われたことである。それゆえ智慧を光といい、光を阿弥陀仏とお呼びする。光の中に闇はない。光は照らすものを選ばないから摂取不捨という。

 我が見えたら、それが光である。我が見えたのは光が届いたからである。闇の中で針の先ほどの光でも光は光である。光の方向を目指して歩き出すから不退転といい、光だけの世界を信じるから「無上覚にいたるべき心のおこると申すなり」という。未来とは光を見つけて、そちらに向かって歩みだすことをいう。あなたに未来はあるか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-20 09:15 | ご消息集のこころ | Comments(0)

  さては、おおせられたる事、
  信の一念、行の一念、ふたつなれども、
  信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
  そのゆえは、行と申すは、
  本願の名号をひとこえとなえておうじょうすと申すことをききて、
  ひとこえをもとなえ、もしは十念をもせんは行なり。
  この御ちかいをききてうたがうこころのすこしもなきを信の一念と申せば、
  信と行とふたつときけども、行をひとこえするとききてうたがわねば、
  行をはなれたる信はなしとききて候う。
  また、信はなれたる行なしとおぼしめすべく候う。
  これみな、みだの御ちかいと申すことをこころうべし。
  行と信とは御ちかいを申すなり。

  (親鸞聖人御消息集・広本・第十四通)

 親鸞の仏教を一言でいうなら「本願力回向」で、主著『教行信証』(教巻)に「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」とあります。回向とはどういうことかといえば、行も信もその主体は、わたし、こちら側ではなく、あちら側、つまり仏にあるということです。そのことを親鸞は覚信坊への返書で「行と信とは御ちかいを申すなり」と述べているのです。行も信も起こす主体は仏であり、わたしではないということです。

 わたしが念仏を称えるのは、わたしが称えるのではなく「わがなをとなえられん」(十七願)との如来のお誓いの成就、すなわち仏がわたしに称えさせるのであり、わたしが仏を信ずるのは、わたしが信じたのではなく、「信心まことならば、もしうまれずは、仏にならじ」(十八願)との仏の御促しだったのです。ここに〈わたし〉から〈仏〉への主体の転換があります。主体の転換とは自我が空じられるということで、この身に主体はないとわかる。主体がないことを無我といい、仏というのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-16 06:21 | ご消息集のこころ | Comments(0)

  十七の願に、「わがなをとなえられん」とちかい給いて、
  十八の願に、「信心まことならば、もしうまれずは、仏にならじ」とちかい給えり。
  十七・十八の悲願みなまことならば、正定聚の願は、せんなく候うべきか。
  補処の弥勒におなじくらいに、信心の人は、ならせたまうゆえに、
  摂取不捨とはさだめられて候え。

  このゆえに、他力と申すは、行者のはからいのちりばかりもいらぬなり。
  かるがゆえに、義なきを義とすと申すなり。
  このほかにまたもうすべきことなし。
  ただ、仏にまかせまいらせ給えと、大師聖人のみことにて候え。

  (御消息集・善性本・第七通)

 はからいとは思慮分別ともいいますが、竹内先生は「自己保身の知恵」と言われた。いつも完璧に自己保身したいが、諸行無常、因も縁も一瞬も止まらない。だから完璧な保身など永遠に来ない。ただの観念に過ぎない。一生涯、自己保身にあくせくして、最後は、自己保身することの出来ない死に直面する。こんなはずではなかったと悔いても遅い。「取り返しがつかないとはこのことだ」と竹内先生は言われた。

 諸行無常、変化するものは真実ではない。涅槃寂静、永遠に不変なのは涅槃だけです。死んでしまえば涅槃も意味はない。生きているうちに涅槃に接するから、いまに浄土の光を見るから、仏からの道が開けたから、だから未来が明るい。これが現生不退です。死んだ後の話ではない。「前向きに生きるなんて言っているが、どっちが前だかわからない」とも竹内先生は言われた。

 思慮分別の滅する処を涅槃といいます。生きているうちは思慮分別はなくならない。思慮分別はこの身のすることだから、なくす必要もない。不断煩悩得涅槃、思慮分別はあっても相手にしなければ“ない”のと一緒だからです。しかし、涅槃(仏)に触れる瞬間を一度は経験しなければ、仏を信ずることはできない。だから「義なきを義とす」とは仏を経験した人の言葉です。さすれば、親鸞曰く「このほかにまたもうすべきことなし」と。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-15 06:09 | ご消息集のこころ | Comments(0)

  また、他力と申すことは、弥陀如来の御ちかいの中に、

  選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを、他力と申すなり。
  如来の御ちかいなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人のおおせごとにてありき。


  義ということは、はからうことばなり。
  行者のはからいは自力なれば、義というなり。
  他力は、本願を信楽して往生必定なるゆえに、さらに義なしとなり。

  しかれば、わがみのわるければいかでか如来むかえたまわんとおもうべからず。
  凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、わるきものとおもうべし。
  また、わがこころよければ往生すべしとおもうべからず。
  自力の御はからいにては真実の報土へうまるべからざるなり。

  (親鸞聖人血脈文集・第一通)

 前回まで七回にわたり『自然法爾章』を読んでまいりましたが、法然上人の「義なきを義とする」は訳さずそのままにしてきました。意味が深くて現代語にしずらいからです。「義なきを義とす」という言葉は歎異抄・第十章や正像末和讃にも見え、晩年のご消息にはたびたび出てまいります。他力を端的に説明するのにふさわしい言葉なのでしょう。そこで少しばかり「義なきを義とす」について。


 親鸞は「義ということは、はからうことばなり。行者のはからいは自力なれば、義というなり」と述べています。自力とは自分の心です。自分の心に価値を置く人が「自力の人」です。自力の人の「はからい」(努力)とは、自分の心の善悪にこだわって、自分の心をよくしようと努力することです。これが前の「義」の意味です。後の「義」は「本義」という意味です。よって「義なきを義とす」の意味は、自分の心をよくしようとする努力(心=我執)を捨てること、これを本義とするのが他力である、となります。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-09 06:09 | ご消息集のこころ | Comments(2)

  *6 この道理をこころえつるのちには、
  この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。
  つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、
  なお義のあるになるべし。
  これは仏智の不思議にてあるなり。


  愚禿親鸞八十六歳

  *7 正嘉二歳戊午十二月日、善法坊僧都御坊、三条とみのこうじの御坊にて、
  聖人にあいまいらせてのききがき。そのとき顕智これをかくなり

  (末燈鈔・第五通)

 救いの働きである弥陀仏のお誓いがすでにわたしにかけられている。法爾に自然に働くという道理の道筋がのみ込めたら、あとは弥陀仏のお誓いを信じるばかりです。汝を救うというお約束なのだから、われらには信じてお任せする一事しかない。それが「義なきを義とす」ということです。信じて念仏するだけで仏になる。こんな不思議なことはありません。それで仏智の不思議と申し上げます。愚禿親鸞八十六歳。

 この文書は、正嘉二(1258)年十二月十四日、親鸞聖人の御歳八十六歳のおり、関東から上京した弟子の顕智が、善法坊僧都御坊、三条富小路の坊にて、いくつかの疑問点についてお尋ねし、それについてのお答えを、顕智が聞き書きしたものです。(全休訳)

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-07 06:13 | ご消息集のこころ | Comments(0)

  *4 自然というは、もとよりしからしむということばなり。
  弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、
  南無阿弥陀仏とたのませたまいて、
  むかえんとはからわせたまいたるによりて、
  行者のよからんともあしからんともおもわぬを、
  自然とはもうすぞとききて候う。

  *5 ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。
  無上仏ともうすはかたちもなくまします。
  かたちのましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。
  かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。
  かたちもましまさぬようをしらせんとて、
  はじめて弥陀仏とぞききならいて候う。
  みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり。

  (末燈鈔・第五通)

 さて、改めて自然について。自然とは元々、自ずからそのようになるという意味の言葉です。弥陀仏のお誓いとは、わたしの努力をすべて捨てて、南無阿弥陀仏と頼んだとき、その者をわが心の中に迎え入れようとのお約束ですから、頼んだ者は必ず救われるのです。救われた証拠には、善悪、好き嫌いを言う心がなくなります。わたしの意志に関係なく、弥陀仏のお誓いは必ず成就してわたしを救うので、自ずからそうなるという意味で、弥陀仏のお誓いを自然というと教えていただいております。

 弥陀仏のお誓いの内容はなにかと言えば、わたしをこの上ない仏にしようとお約束されたことです。この上ない仏とは目に見えない救いの働きのことをいいます。働きは目に見えない。目に見えないから自ずから然りです。形あるものは物であり心ではない。さとりの智慧は目に見えない。見えないから救いの働きという。形なくして働く救いの働きを、それと教えるために阿弥陀仏のお姿になって現れてくださった。そのお姿を拝して、救われよと、そうお聞きしております。(全休訳)

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-06 06:15 | ご消息集のこころ | Comments(0)

  *2 自然というは、自はおのずからという。
  行者のはからいにあらず、しからしむるということばなり。
  然というはしからしむということば、行者のはからいにあらず、
  如来のちかいにてあるがゆえに。

  *3 法爾というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、
  しからしむるを法爾という。
  法爾はこのおんちかいなりけるゆえに、
  すべて行者のはからいのなきをもって、
  この法のとくのゆえにしからしむというなり。
  すべて、人のはじめてはからわざるなり。
  このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり。

  (末燈鈔・第五通)

 自然法爾ということ。まず、自然について。自然の自は自ずからという意味の言葉です。わたしの意志に関係なく、あちら側から働いてくるお力がある。自ずからとはそういう意味が含まれている。次に、自然の然もまた、自ずからそうなるという意味の言葉で、自ずからそうなるというのは、こちら側、わたしの意志ではなく、あちら側、つまり如来のお誓いだから、自ずからそうなるというのです。如来のお誓いはわたしの意志に関係なく働くから、そのことを自然というのです。

 次いで、法爾について。法爾というは如来のお誓いのことだから、自ずから働くので法爾といいます。法爾は如来のお誓いだから、わたしの意志とはまったく関係なく働く。わたしの意志とはまったく関係がなく働くから、わたしの努力はなにもいらない。すでに法のお力が働いてくださっていて、わたしを救う働きを現してくださったので、わたしはもうなにもすることがない。だから、わたしはなにもしない。このゆえに「他力には義なきを義とす」(法然上人のお言葉)と教えていただいております。(全休訳)

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-05 06:29 | ご消息集のこころ | Comments(0)

  *1 獲字は因位のときうるを獲という。
  得字は果位のときにいたりてうることを得というなり。
  名字は因位のときのなを名という。
  号字は 果位のときのなを号という。

  (末燈鈔・第五通)

 自然法爾のこと

 信心獲得の獲得について。獲得の獲は菩薩の位で悟るので獲といい、獲得の得は果位に至って悟るので得といいます。弥勒に等しいと称えられる凡夫のさとりは如来回向の信心で、信心の中身は仏のさとりと因果同質のさとりなので、信心獲得といいます。また、名号について。南無阿弥陀仏という仏のお名前は因位におけるさとりのお名前を名とお呼びし、果位におけるさとりのお名前を号とお呼びします。因位の信心をいただいた凡夫の姿が南無阿弥陀仏なら、凡夫の果位に至っての姿も南無阿弥陀仏。因位も果位も因果同質のさとりなので名号といいます。さて、果位の仏のさとりが因位のわたしに届くことを自然法爾といいますが、その自然法爾ということについて。(全休訳)

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-12-04 10:38 | ご消息集のこころ | Comments(0)