帖外ブログ・其の二十三

一、無執着の心には自も他もない。だから、平等性智といい、無縁の大悲という。

二、執着するものがないから諸行無常といい、執着する自分がないから諸法無我という。

三、業を見て人を見ないのが信心の智慧である。業に主体はなく、意思もない。

四、執着しないのではない。執着するものがないのである。それゆえ無執着という。

五、信心とは結局なにかといえば、大切なものを一つずつ捨ててゆく。最後は念仏一つ。

六、生まれてきたことの意味を証明したいとは、夢の中でさらに夢をみるような話しだ。

七、悩み苦しんだは厭い離れよのご親切であった。さもなくば法を聞かずに終わった。

八、人としてすべきことをして死ぬ。これなら人らしいといえるのではないか。

九、せっかく念仏していながら信心がわからずに終わったら、悔いが残るのではないか。

十、念仏を称え、智慧を開き、仏になる。そうなるようになっているから法則という。

南無阿弥陀仏

平成三十年四月二十四日

善及記す


by zenkyu3 | 2018-04-24 07:19 | 帖外ブログ | Comments(2)

帖外ブログ・其の二十二

一、一切衆生悉有仏性という。あなたに伝えたいのはあなたがすでにもっているものだ。

二、不断煩悩得涅槃という。群がり起こる妄念妄想に影響されない境地を涅槃という。

三、生死解脱という。生き死にする心身はわたしではない。不生不滅の仏性がわたしである。

四、諸行無常という。刹那滅はこの宇宙の姿であり、われらにとり無執着の説法である。

五、諸法無我という。群がり起こる妄念妄想は因縁による。起こすわたしはない。

六、涅槃寂静という。群がり起こる妄念妄想から離れたところにとどまれば心安楽。

七、横超断四流という。煩悩が見えたことが断であり、超である。煩悩を離れたのである。

八、二種深信という。煩悩が見えるという智慧は煩悩にはない。

九、乃至一念という。凡夫から仏へと主体が転移するのである。

十、必至滅度という。心は常に浄土にある。人としてすべきことをやり終えたのである。

南無阿弥陀仏

平成三十年四月十八日

善及記す

by zenkyu3 | 2018-04-18 09:19 | 帖外ブログ | Comments(0)

帖外ブログ・其の二十一

一、小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもふまじ。凡夫は救われる身、救うは仏。

二、それをなくしたら自分ではなくなってしまうもの、それを捨てるのが仏教である。

三、なぜ必至滅度か。もともと仏とわかったから。もともと仏だから仏になることもない。

四、思議を超えた不可思議の領域から仏は呼んでいる。思議を超えてこっちへ来いと。

五、仏とはなにか。いま起きているありのままが仏である。

六、聴聞とは自分の大切なものを一つずつ捨てること。最後は南無阿弥陀仏だけになる。

七、諸行無常とは自分の都合のよいことばかりは起きないということである。

八、自分に都合が悪い事実を受け入れないのは勝手であるが苦しむのは自分である。

九、わたしは誰か。身体がわたしなら必ず生は死で終わる。わたしは誰か。

十、誰も真実など聞きたくない。あなたは悪くないと言ってほしいだけだ。

南無阿弥陀仏

平成三十年四月十一日

善及記す


by zenkyu3 | 2018-04-11 05:56 | 帖外ブログ | Comments(4)

帖外ブログ・其の二十

一、一人一人がみな自分を中心とした世界の中にいる。それが全世界だと思って。

二、頭の数だけ善悪、好き嫌いがある。ワンワン騒ぎ立ててはぶつかり合って怒ってる。

三、むやみやたらに思いは湧いてくる。妄りに湧いてくるから妄念妄想という。

四、三世とは時制であるが、なにを過去とし未来とするか、みな頭の中のことである。

五、人生と世間を捨てるのが仏教徒の伝統。人生と世間から捨てられるのではない。

六、生きているだけでは不足で、あれこれ求め回るがこの世にはなにも得るものがない。

七、なにかを得たように思って奢っているが、哀れにもなにも得ていない。

八、舞い上がった分、いざ死ぬとなるとさぞかし恐ろしかろう。

九、この世に捨てられたように存在する一切の有情にとり真実と呼べるのは本願だけである。

十、頭の中の思いから離れた処を涅槃という。涅槃にとどまれば安楽。

南無阿弥陀仏

平成三十年四月五日

善及記す



by zenkyu3 | 2018-04-05 21:04 | 帖外ブログ | Comments(0)

帖外ブログ・其の十九

一、三世を超えたところを後生という。三世を超えて現在する後生である。

二、後生の一大事とは死後ではない。現在を超えて現在する涅槃をいま経験する。

三、今生に仏にはなれないから順次生という。後生を実体化したら仏教ではない。

四、死といって特別なことのように言うが、因縁がほどけて形が変わるだけの無常である。

五、涅槃とは煩悩の影響を受けない。不断煩悩得涅槃分だから涅槃の一分を経験する。

六、仏とは経験されるから仏である。煩悩があるから仏を経験することができる。

七、仏は経験される。経験したら疑いようがない。仏の方から疑いを晴らしてくれる。

八、煩悩に縛られた身体に煩悩を破る仏性が深く埋め込まれている。仏は内におられる。

九、現生不退だから往生即成仏である。必ず成仏するから成仏はもう問題ではない。

十、必至滅度とは方向であって到達点ではない。人として経験できるのは等正覚まで。

南無阿弥陀仏

平成三十年四月四日

善及記す




by zenkyu3 | 2018-04-04 06:20 | 帖外ブログ | Comments(5)

帖外ブログ・其の十八

一、お聖教を憶えても信心は得られないが、信心をいただけばお聖教がよくわかる。

二、仏になる身に定まったのだから、仏になるかどうかはもう問題ではない。

三、人生に疑問を持った子どもが今もここにいる。呼び声に引かれてここまで来た。

四、仏に遇うというのは自分に遇うのである。本当に狂っていた。

五、仏と対話するときはいつも一対一である。孤独でなければ仏の声は聞こえない。

六、救われない者を救うのが仏、救われない自覚がない者はいくら仏でも救えない。

七、重力は万物に平等に働く。仏力も一切衆生に平等に働く。

八、重力は目に見えないが法則がある。仏力も目に見えないが法則がある。

九、仏とは生きて働く働きであるから経験できる。経験できない人の仏はただの観念。

十、仏とは永遠の働きであり、いま現にお育てをいただく身である。疑いようがない。

南無阿弥陀仏
平成三十年三月二十九日

善及記す


by zenkyu3 | 2018-03-29 21:51 | 帖外ブログ | Comments(4)

帖外ブログ・其の十七

一、生きるのに理由があってもいいが、われらは理由ではなく事実を生きている。

二、どんな事実も受け入れる。好き嫌いを言うのはその後でいい。

三、われらに頭ある限り妄念妄想は湧いてくる。湧くのも事実。相手にしない。

四、みな一人一人、自分を中心とした世界の中にいる。それが全世界ででもあるかのように。

五、やがてなくなるものに執心するからむなしい。もともとむなしい。

六、死が恐いのではない。意味のない人生だったと知ってしまうのが恐いのです。

七、どんなに人間が傲慢だといっても死ですべてが清算される。

八、死んだら仏になるなんて、どこにも証拠はない。証拠がないのだから安心はない。

九、生まれたということがないから死ぬということがない。そもそも誰が死ぬのか。

十、仏法は学んでも役に立たない。この世で役に立つものはこの世のものでしかない。

南無阿弥陀仏

平成三十年三月二十四日

善及記す


by zenkyu3 | 2018-03-24 06:50 | 帖外ブログ | Comments(2)

帖外ブログ・其の十六

一、頭で考えたことを妄念妄想という。考えたことは事実ではない。

二、悩みは頭の中にある。妄念妄想で悩む。事実は悩まない。事実に立てば悩まない。

三、みな、理由がわからないと言って苦しむが事実に理由はない。

四、事実に理由がないから、みな勝手な理由を見つけることができる。妄念妄想という。

五、事実に理由はない。誰かのために起きている訳ではない。

六、事実を受け入れたくないから自分を納得させる理由がほしい。事実の上に自分がある。

七、真実は頭の中にあり、起きていることは間違っていると思う。まったく逆だ。

八、理想とはただの観念であって一度も起きたことがない。

九、苦しみは外から来て自分を苦しめるように思っているが、苦しみは自分で造ってる。

十、思い通りになることなど人生にはない。事実を受け入れれば楽に生きられる。

平成三十年三月十七日

善及記す

by zenkyu3 | 2018-03-17 06:36 | 帖外ブログ | Comments(0)

帖外ブログ・其の十五

一、永遠から呼ぶ声がした。呼ぶ声のする方へと、ずっと歩いて来た。

二、なぜかはわからないが、この世には真実があると信じていた。誰かが知っていると。

三、仏さまから見たらわたしはどんな風に見えるのだろうか。これだけで信をいただいた。

四、わたしの信体験が確かな体験だったのかどうか、それを確かめるための三十年だった。

五、真実は気づく人しか気づかない。気づいてもわかるとは限らない。

六、信心は如来回向であるが、仏心を伝える善知識がおられて仏心がわたしに伝わる。

七、知っている世界の中にいるが、知らない世界の中では塵に等しい。

八、人の世は本当に騒々しいところで、みな、自分がなにをしているかを知らない。

九、みな、煩悩の賊に母屋を乗っ取られた挙げ句、賊の召し使いに成り下がって終わる。

十、死んだ先に浄土があるのではなく、過去現在未来を超えて後生がある。

南無阿弥陀仏

平成三十年三月十五日

善及記す

by zenkyu3 | 2018-03-15 07:29 | 帖外ブログ | Comments(4)

帖外ブログ・其の十四

一、無我というと難しいが、起きていることを事実と受け入れて文句がなければ無我。

二、今起きていることを事実という。事実を受け入れることを拒否すれば苦悩となる。

三、事実を受け入れると自我が壊れる。どんな場合も事実に立つことが信仰である。

四、事実を受け入れない心を自我という。事実を疑うので心が暗い。

五、自我は決着をつけたいが命に決着はない。決着がないと決着すれば、疑いがない。

六、今起きている事実を信じるか。それとも頭の中にある妄念妄想を信じるか。

七、事実を受け入れないのは頭の中にある妄念妄想に執着しているからである。

八、頭の中の妄念妄想がなにか価値があるように思えたら、それが我執である。

九、妄念妄想は放って置けば直ぐに消えてなくなるから妄念妄想という。

十、妄念妄想は妄念妄想でしかない。それを分析しても意味がない。

南無阿弥陀仏

平成三十年三月九日

善及記す

by zenkyu3 | 2018-03-09 06:04 | 帖外ブログ | Comments(2)