無義為義(2)

(歎異抄・第十条・その二)

  「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第十条)

  人間の知恵、人間の分別の知恵を離れたところに、
  そこに如来の御はからいがはじめてあらわれ、
  そこに如来の御はからいに帰入し、御はからいをあきらかに感得する。
  だからほんとうの如来の本願の念仏において、
  人間のはからい、人間の知恵をこえて、
  はじめて如来の御はからいに帰入することができる。
  これが法然上人より伝統せるところであるとご開山聖人はいわれるのである。

  (歎異抄聴記290ページ)

 「人間の分別の知恵を離れたところ」を空といいます。空に触れると智慧が生ずる。智慧とは「人間の分別の知恵」が見えることです。離れたから見えた。見えたから離れた。どちらでも同じですが、智慧を回向して救うのが仏のお慈悲です。そのことを量深師は「そこに如来の御はからいがはじめてあらわれ、そこに如来の御はからいに帰入し、御はからいをあきらかに感得する」と述べています。これは信の一念の体験内容であり、その体験あるがゆえに「人間の知恵をこえて、はじめて如来の御はからいに帰入することができる」のです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-15 06:16 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

無義為義(1)

(歎異抄・第十条・その一)

  「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第十条)

  義とは、はからいである。上の義は人間のはからい、凡夫のはからい。
  仏法では凡夫のはからいといい、これを現代語になおせば人間のはからい、
  人間の理知と申してもさしつかえないと思う。
  つまり凡知、凡夫の知恵が上の方の義である。
  下の方の義は、字は同じであるが、これは仏智、如来の御はからいである。

  (歎異抄聴記289ページ)

 「義」について、下の「義」は「本義」とするのが一般的のようですが、「義」を量深師のように領解すると「義なきを義とす」の意味は「凡夫のはからいがないことが如来の御はからいである」となり、文意がさらに深くなる。「凡夫のはからい」が「如来の御はからい」に転ぜられる転悪成善の働きがはっきりする読み方だからです。「凡夫の心」が常に「仏の心」に転ぜられて仏の道を歩まされていく。それが「無碍の一道」です。


 なお、量深師の領解を踏まえて意訳すると「はからいを捨て、すべてが如来の御はからいとお任せすれば、仏智の不思議にて、お念仏申されるのである」と、そんな感じでしょうか。また、「義」を「本義」として意訳すれば「凡夫のはからいなく、ただ称えるばかりが念仏です。不思議の仏智ですからお任せするばかりです」となります。


 南無阿弥陀仏




by zenkyu3 | 2018-03-14 06:10 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

虚偽の正体をあらわす

(歎異抄・第九条・その三)

  また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、
  いささか所労のこともあれば、
  死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

  (歎異抄・第九条)

  生きているものには死ぬことが一番おそろしい。
  自分の生命を中心として父母あり子あり友人あり財産あり、
  あらゆるものが自分を中心としてある。
  それが死ぬときになるといっぺんに消える。
  それがまこととしていることが、いっぺんに虚偽の正体をあらわす。
  みな空の空たるものである。空なるもので妄念妄想をあてにしている。
  それが死によっていつわり、虚偽の正体をあらわす。
  それをおそれるのである。

  (歎異抄聴記277ページ)

 譬えて言えば、身体は仏心を入れた箱です。中に仏心が入っていることを知らない人は箱のことだけを気にする。仏心を自覚すれば仏になるが、仏心に気がつかなければ箱のまま死ぬ。わたしは箱ではない。わたしは無生無滅の仏心であると気づいた人は永遠の命を獲得する。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-11 06:14 | 歎異抄聴記を読む | Comments(2)

常に信の一念に立つべし

(歎異抄・第九条・その二)

  「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、
  またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、
  いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、
  「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」。

  (歎異抄・第九条)

  わたくしはいつもこう思う。われわれは常に信の一念に立つべし。
  われわれは後念に立つということはないものである。
  われわれは常に信の一念に立てというのが、第九条のご教訓の精神である。
  いのちあらんかぎりはむろん、乃至一念である。
  乃至一念であるゆえ、乃至を一念におさめる。
  乃至は一念帰命の中にある。そとにあるのではない。
  それをややもすると一念のそとにでる。
  そのあやまりをここにあらわして、一生涯は一念の中にある。
  一生涯は一念の中にあるとたちかえらしていただく。

  (歎異抄聴記258ページ)

 念仏には踊躍歓喜という体験がある。心を離れて心を見るという体験があって初めて信仰の道を歩みだすという消息がある。心を離れた場所、空に触れて初めて心を見る。此方に居ながら彼方から此方が見えるという、不思議なことが起きる。この見えるということが智慧であり、仏眼をいただくのです。心を離れるから二度と心の束縛を受けない、我執が落ちる解脱体験です。この体験は長さがないといっていい極めて短い時間ですが、真実を見るには十分な一瞬の体験です。この体験を「信の一念」といいます。この体験を繰返し言葉にする歩みが自信を深め、教人信ともなるのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-10 06:03 | 歎異抄聴記を読む | Comments(2)

七地沈空の難

(歎異抄・第九条・その一)

  「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、
  またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、
  いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、
  「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」。

  (歎異抄・第九条)

  これをみると、念仏についての倦怠期、
  念仏はあいもかわらぬものだという倦怠期にはいった。
  はじめのうちは非常にありがたい。
  第二条のように「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
  よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」というご化導を聞くと、
  なにかしらぬが全身ことごとく光につつまれた。内にも光、外にも光、光の中に光がある。
  それがなれるといつのまにやら「念仏もうしそうらえども」と「ども」となる。
  お義理、惰性で念仏申す。念仏に張り合いがない、勇みがない、勇猛心がなくなってくる。
  これがつまり菩薩のうえでいえば、七地沈空の難である。これは菩薩のある倦怠期である。

  (歎異抄聴記259ページ)

 念仏には踊躍歓喜という体験がある。この体験により得るのが智慧であり、我執が落ちるがゆえに踊躍歓喜する。しかし、この体験も喜びだけで終わってしまえば願力自然が働き出さない。身に働く願力がわからないと踊躍歓喜の感動もやがてただの記憶になる。ここでもう一度、信の一念を体験的に思い出して、智慧がしっかりと働き出すのを確認しなくてはならない。仏となる道を歩ませていただくのは願力自然ですから、お育てを日々感じて暮らす生活に感謝してお念仏が申されることです。七地沈空の難を越えれば二度と退転することはない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-09 06:09 | 歎異抄聴記を読む | Comments(4)

即是其行

(歎異抄・第八条)

  念仏は行者のために、非行非善なり。
  わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。
  わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。
  ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、
  行者のためには非行非善なりと云々

  (歎異抄・第八条)

  ひとえに念仏は他力である。念仏は本願力である。
  念仏は本願力にしてまったく行者の自力をはなれたもので、
  念仏は所行の法にして能行の法にあらず。
  そのとくにわれわれの自力を否定するために即是其行といわれる。
  即是其行とは凡夫自力の行ではなく、
  如来回向の大行であることをあらわして、
  「「即是其行」と言うは選択本願これなり」と
  いわれたのであることをあきらかにすれば、
  この条の精神はそこにあきらかになる。

  (歎異抄聴記255ページ)

 「即是其行というは、すなわち選択本願これなり」は『教行信証』(行巻)にある言葉です。「即是其行」とは南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏を称えさせようというのが「選択本願」、すなわち仏のお心であるという、親鸞のお示しです。加えて量深師は、念仏は仏さまが称えさせる「所行の法」であり、わたしが称える「能行の法」ではないと教えています。自力をはっきり否定するのが第八条の趣旨です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-07 06:02 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

道光明朗超絶という境地

(歎異抄・第七条・その二)

  念仏者は、無碍の一道なり。
  そのいわれいかんとならば、信心の行者には、
  天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。
  罪悪も業報も感ずることあたわず、
  諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々

  (歎異抄・第七条)

  信心の行者には罪悪も業報を感ずることがない。
  すべてをみな、罪悪を業報として宿業にまかせば、
  業報としてひとつの圧迫も感じない。
  だから火の車も化して清涼の風となると『観経』下中品にあるが、
  罪悪も業報を感じないとはこのことである。
  『教行信証』総序には「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」とある。
  その転悪成徳という、ほんとうにわれわれらは真実に象徴ということがわかると、
  因果応報は象徴だと会得できれば、罪悪も業報を感ぜずして、
  それによって束縛を受けずして、むしろそれによって自由を与えられる。
  業報として罪悪より解脱されうる。「道光明朗超絶せり/清浄光仏ともうすなり/
  ひとたび光照かぶるもの/業垢をのぞき解脱をう」、すなわち、道光明朗超絶す。
  信心の行者の内面生活は、道光明朗超絶という境地である。

  (歎異抄聴記250ページ)

 心を離れれば心の影響を受けない。これを「無碍」という。久遠劫より蓄積された無量無辺の煩悩悪業でできたこの身体に深く眠っていた仏性が、弥陀の本願の働きかけにより、いま目覚めた。これが信心歓喜、すなわち仏性の自覚です。心が心を離れて心を見る。見られる心はわたしではない。見る眼がわたしである。この転換あるゆえに煩悩を断たずに涅槃を垣間見る。もう二度と煩悩の束縛は受けない。煩悩は相手にしなければ静かになる。信心を獲得するとこのような心境が開けてくる。


 南無阿弥陀仏心


by zenkyu3 | 2018-03-04 06:04 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

無碍の一道

(歎異抄・第七条・その一)

  念仏者は、無碍の一道なり。
  そのいわれいかんとならば、信心の行者には、
  天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。
  罪悪も業報も感ずることあたわず、
  諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々

  (歎異抄・第七条)

  「無碍の一道」とは往生道である。
  念仏はなにものにも障えられない。
  いかなる罪悪にも、いかなるものにも障害をうけない往生極楽道である。
  念仏の前にはあらゆる障害はみな法爾自然に寂滅する。
  みな自分のほうからちゃんと道をさける。
  なぜかというと、念仏そのものが触光柔軟の徳をもつ。
  だからこちらからぶつかっていけば、むこうからもぶつかってくる。
  こちらからぶつかっていかぬから他のものはみな道をよけて、
  自然に道が開ける。これが無碍の一道である。

  (歎異抄聴記239ページ)

 思い通りにしたい貪欲に対して思い通りにならないで怒る瞋恚、この貪瞋煩悩を離れる。信心の智慧をいただいて「煩悩はわたしではない」(仏性こそわたし)と解ると煩悩の影響を受けなくなる。煩悩(自分の心)の相手をしない。相手をしないと相手(煩悩)も静かになる。このことを量深師は「こちらからぶつかっていかぬから他のものはみな道をよけて、自然に道が開ける」と言っている。天神地祇も魔界外道も煩悩のことです。無明は煩悩を外に見る。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-03 06:02 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

自然のことわり

(歎異抄・第六条・その二)

  つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、
  師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、
  往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。
  如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。
  かえすがえすもあるべからざることなり。
  自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

  (歎異抄・第六条)

  最後に「自然のことわり」、自然とは如来の本願力である。
  そうせしめられる。如来の本願力の自然の道理に即応すれば、
  師匠も弟子もともに願力自然の道理にかなっている。  
  師匠が願力自然の道理にかなっていれば、
  弟子もその感化を受けて、願力自然の道理にかなうにちがいない。
  そうすれば、自ずから仏恩を知る。仏恩を知れば、
  したがって師の恩をも知ることもあるべきことであるとおおせられたのである。

  (歎異抄聴記237ページ)

 本を読んでわかるのは理屈であって悟りではない。本当に助からないと命懸けにならない人は助かりたくないから善知識を探さない。本を読んでも助からない。「師匠が願力自然の道理にかなっていれば」、つまり、師が信心の人であれば「弟子もその感化を受けて」、すなわち、師に伝わっている仏心が弟子に伝わって信心を取るのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-02 06:13 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)

(歎異抄・第六条・その一)

  専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、
  という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。
  親鸞は弟子一人ももたずそうろう。
  そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、
  弟子にてもそうらわめ。
  ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、
  わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。

  (歎異抄・第六条)

  師匠も弟子もみな如来から信心をたまわったのである。
  師匠より信心をたまわったということはない。各自各自が如来よりたまわた。
  ただ師匠はなにか師匠として如来のお力によって、
  ひとつのおたすけをするという役目をはたしただけのことである。
  やはり、自分の信心は如来よりたまわったものであると、
  自分の師より聴聞しているのは、これこれであると話しているのである。
  ご師匠も如来よりたまわったといい、弟子もそうでありますかといって話している。
  各自各自が如来より直接たまわったものである。

  (歎異抄聴記237ページ)

 「わが弟子ひとの弟子という相論」が起きるのは信心をいただいていないからでしょう。第六条は難しくない。「聞其名号」ということもなければ「信心歓喜」の体験もなく、ただ、名聞、利養、勝他の心を満足させるため信仰を利用する人たちの話です。客商売でもあるまいし、弟子や門徒の数を競っても意味がない。しかしながら、信心は如来からいただくとはいえ、人から人へ伝わるのが仏心です。正しい善知識をさがさなくては仏道は成就しない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-01 06:02 | 歎異抄聴記を読む | Comments(0)