三経安心の御文

  そもそも、ちかごろは、この方念仏者のなかにおいて、
  不思議の名言をつかいて、これこそ信心をえたるすがたよといいて、
  しかもわれは当流の信心のよくしりがおの体に、心中にこころえおきたり。
  そのことばにいわく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生をさだめたまえる、
  弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といえり。これおおきなるあやまりなり。
  そも弥陀如来の正覚をなりたまえるいわれをしりたりというとも、
  われらが往生すべき他力の信心といういわれをしらずは、
  いたずらごとなり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第一帖・第十三通)

 ここで蓮如が批判しているのは「十劫安心」という異安心です。現代においては「異安心」などというとおどろおどろしいが、要は真面目に信仰する気もなく、懺悔ということもなく、ましてや信心を取るほどの求道心もない。昔も今もそんな人が大半なのでしょう。「すでに救われている」などと安手の信仰で済まそうというのでしょう。口には出さなくても、心の中はみな「十劫安心」なのではないですか。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-19 06:05 | 御文を読む | Comments(0)

それ女人の身はの御文

  これによりて、なにとこころをももち、
  またなにと阿弥陀ほとけをたのみまいらせて、
  ほとけになるべきぞなれば、なにのようもいらず、
  ただふたごころなく、一向に阿弥陀仏ばかりをたのみまいらせて、
  後生たすけたまえとおもうこころひとつにて、
  やすくほとけになるべきなり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第五帖・第七通)

 これだけ読むとまったく自力であるが、まさに自力を尽くせと教えている。他力とは信をいただいて、与えてくださったお方が仏とわかったから感謝するのです。信もわからず、他力もわからずして、他力などと言っても意味がない。信をいただくまでは自力を尽くすのです。自力を尽くして尽くして、自分では出来ぬと身に染みてわかったから初めてたのむのでしょう。口を開けて待っていても棚からぼた餅は落ちてこない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-18 06:01 | 御文を読む | Comments(0)

五重の義の御文

  そもそも善知識の能というは、
  「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。
  これによりて五重の義をたてたり。
  一には宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。
  この五重の義成就せずは、往生はかなうべからずとみえたり。
  されば善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。
  宿善開発して、善知識にあわずは往生はかなうべからざるなり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第二帖・第十一通)

 善知識は仏が会わしてくださる。善知識は仏の御はからいでお念仏申すお方ですから仏のお心がお姿になってわたしの前におられる。仏はわたしに準備ができれば必要なものをわたしのために用意してくださる。なにからなにまで親のなすままでわたしがしたことなどなにもない。時と機がそろえばやがて仏は善知識に会わしてくださる。師の仏心とわたしの仏心が互いに照らし合って、師も役目を果たせたと喜び、弟子もお念仏申す身となって喜ぶ。みな仏のなされることです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-17 06:08 | 御文を読む | Comments(0)

念仏行者の御文

  そもそも、当流にたつるところの他力の三信というは、
  第十八の願に「至心信楽欲生我国」(大経)といえり。
  これすなわち三信とはいえども、ただ弥陀をたのむところの、行者帰命の一心なり。
  そのゆえはいかんというに、宿善開発の行者、
  一念弥陀に帰命せんとおもうこころの一念おこるきざみ、
  仏の心光、かの一念帰命の行者を摂取したまう。
  その時節をさして、至心信楽欲生の三信ともいい、
  またこのこころを願成就の文には「即得往生住不退転」(大経)ととけり。
  (以上、一部抜粋)

  (御文・第四帖・第一通)

 御文はどれとして「一念帰命」を説かない御文はない。蓮如は自らが経験した「その時節」だけを生涯、教え続けた。巨大化する教団の経営者として宗義を明確にする必要が常にあったのでしょう。ただ、驚くべきことはその内容で「一念帰命」が常に露出している。現世利益や方便が一切ない。それは蓮如自身に信心があったからに他ならない。どれほど教団が巨大化しても親鸞の教えが世俗化しなかった理由であろうかと、学者でもないのにそんなことを思う。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-16 06:12 | 御文を読む | Comments(0)

宿善有無の御文

  それ、当流の他力信心のひととおりをすすめんとおもわんには、
  まず宿善無宿善の機を沙汰すべし。
  されば、いかにむかしより当門徒にその名をかけたるひとなりとも、
  無宿善の機は信心とりがたし。
  まことに宿善開発の機は、おのずから信を決定すべし。
  されば無宿善の機のまえにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、
  かえりて誹謗のもといとなるべきなり。
  この宿善無宿善の道理を分別せずして、
  手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、
  もってのほかの当流のおきてにあいそむけり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第三帖・第十二通)

 信心は仏とわたしの関係です。仏にわたしを見つけていただけば、信心のことはそれで終わる。後は願力自然で仏になるように育てていただけるのであるから、また、育てていただいていることがわかるのであるから、念仏相続の日暮しです。もし本当に仏がわかりたければ、仏がわかる善知識をさがすのは当然で、命を懸けてもわかりたいことなら頭を下げて教えを受けるでしょう。善知識もさがさず、わからない者同士がいくら議論しあってもなにも得るものがない。議論したいのか、信を取りたいのか。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-08 06:06 | 御文を読む | Comments(0)

六字名号の御文

  されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたえたまうを、
  発願回向とはもうすなり。
  この発願回向の大善大功徳を、われら衆生にあたえましますゆえに、
  無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば、一時に消滅したまうゆえに、
  われらが煩悩悪業はことごとくみなきえて、
  すでに正定聚不退転なんどいうくらいに住すとはいうなり。

  (御文・第五帖・第十三通)

 「無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩」が無尽蔵に蓄積されているのがこの身体です。この身体(と心)に執着して、逆に、この身体に心縛られている人はこの身体が自分だと信じているから、身体の死はすなわち自分の死となる。しかし、信の一念に我執が落ちると、分厚い煩悩に覆われていた仏性が目覚める。仏性が目覚めると仏性がわたし(主体)になる。信心獲得はすなわち仏性の自覚です。

 信心仏性は仏となる種(因)であるから、その本質は仏(果)と変わらない。仏因はすなわち仏果であるから「正定聚不退転なんどいうくらいに住す」といい、信の一念にわれらは不死を得るのです。よって「われらが煩悩悪業はことごとくみなきえて」とは、身体がわたしと信じていたが、無生無滅の仏心こそが本当のわたしであったと気づくことを意味していています。凡心から仏心へと主体が転じた。仏心は無生無滅、もとより生死はない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-06 06:08 | 御文を読む | Comments(0)

一念に弥陀の御文

  一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、
  無上大利の功徳をあたえたまうこころを、『和讃』に、聖人のいわく、
  「五濁悪世の有情の/選択本願信ずれば/不可称不可説不可思議の/
  功徳は行者の身にみてり」(正像末和讃)。 (中略)
  「不可称不可説不可思議の功徳」ということは、かずかぎりもなき大功徳のことなり。
  この大功徳を、一念に弥陀をたのみもうす我等衆生に回向しましますゆえに、
  過去未来現在の三世の業障、一時につみきえて、
  正定聚のくらい、また等正覚のくらいなんどにさだまるものなり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第五帖・第六通)

 信の一念に智慧をいただく。智慧とは心の全体が見える。見えるとは離れる。執着が落ちたから見える。よって、心への執着が落ちた瞬間を信の一念というのでしょう。心への執着が落ちると、見られる心から心を見る眼へと主体が転ずる。わたしは心ではなく、眼がわたしになる。心はわたしではないから「過去未来現在の三世の業障、一時につみきえて」といい、眼がわたしになったので「等正覚のくらいなんどにさだまる」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-05 06:06 | 御文を読む | Comments(0)

それ弥陀如来の御文

  それ、信心をとるというは、ようもなく、
  ただもろもろの雑行雑修自力なんどいうわろき心をふりすてて、
  一心にふかく弥陀に帰するこころのうたがいなきを、真実信心とはもうすなり。
  かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、
  かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、
  この機を、光明をはなちてひかりの中におさめおきましまして、
  極楽へ往生せしむべきなり。
  これを、念仏衆生を摂取したまうということなり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第五帖・第十五通)

 御文はどれも「信心を取れ」と言っている。どの御文も蓮如の信体験に裏打ちされていることは間違いない。蓮如はいつ自分が信心を取ったかを明らかにしていないし、善知識が誰かにも触れていない。まして、蓮如の信体験の実際がどのようだったかは誰も知らない。それでもここに「一心にたのみ、一向にたのむ衆生」とあるは、苦労して信を聞きとげた蓮如自身の姿であったのだろうし、「かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして」とあるは、仏さまに見守っていただいていたことをわたしは知らずにいたが、いま、そのことを初めて知った、と。その喜びは蓮如自身の体験だったに違いない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-28 06:05 | 御文を読む | Comments(0)

出家発心の御文

  『和讃』にいわく、
  「弥陀の報土をねがうひと 外儀のすがたはことなりと
  本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」(高僧和讃)といえり。
  「外儀のすがた」というは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。
  つぎに「本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」というは、
  かたちはいかようなりというとも、
  またつみは十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなれども、回心懺悔して、ふかく、
  かかるあさましき機をすくいまします、弥陀如来の本願なりと信知して、
  ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにして、わすれざるを、
  本願たのむ決定心をえたる、信心の行人とはいうなり。(以上、一部抜粋)

  (御文・第一帖・第二通)

 南無とはわたし、阿弥陀仏は仏さま。南無阿弥陀仏は仏さまとわたしが一緒の姿を現す言葉です。仏さまがわたしを憶念するから、わたしが仏さまを憶念する。仏さまがわたしを忘れないから、わたしは仏さまを忘れない。このことを「憶念の心つねにして」といいます。いつも仏さまと二人暮らしだから、いつでも、どこでも念仏が自然に出てくる。わたしがわたしでいられるのはいつも仏さまに憶われているからで、自分が誰なのかを見失わないのはいつも仏さまに見守っていただいているからです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-27 06:18 | 御文を読む | Comments(0)

ある人いわくの御文

  古歌にいわく
  うれしさを むかしはそでに つつみけり 
  こよいは身にも あまりぬるかな


  「うれしさをむかしはそでにつつむ」といえるこころは、
  むかしは、雑行・正行の分別もなく、
  念仏だにももうせば、往生するとばかりおもいつるこころなり。

  「こよいは身にもあまる」といえるは、
  正・雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうえに、
  仏恩報尽のために念仏もうすこころは、おおきに各別なり。
  かるがゆえに身のおきどころもなく、おどりあがるほどにおもうあいだ、
  よろこびは、身にもうれしさが、あまりぬるといえるこころなり。
  あなかしこ、あなかしこ。  

  文明三年七月十五日  (以上、一部抜粋)

  (御文・第一帖・第一通)

 文中、「かるがゆえに身のおきどころもなく、おどりあがるほどにおもうあいだ、よろこびは、身にもうれしさが、あまりぬるといえるこころなり」とは、蓮如上人ご自身の信体験の告白であろうと思われる。「①正・雑の分別をききわけ、②一向一心になりて、③信心決定のうえに、④仏恩報尽のために念仏もうす」とは、まさに信心を獲得するプロセスを極めて簡便に述べたと言っていい。

 すなわち、「①正・雑の分別をききわけ」とは聴聞の深まりとともに、念仏一つになっていく信仰の姿であり、「②一向一心になりて」とは深く心の深層に降りていく信仰の深まりを示している。この頃には、右も左も、なにがわからないかもわからない疑いの塊になっている。長い瞑想状態が一瞬に弾けて「③信心決定」の体験を得るのです。一帖目第一通、最初の御文に蓮如は「身のおきどころもなく、おどりあがる」自らの信楽体験を示したのです。文明三(1471)年、親鸞滅後二百十年、蓮如五十七歳の御文です。いつ信を得たかはわからない。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-26 06:01 | 御文を読む | Comments(2)