カテゴリ:蓮如上人御一代記聞書を読む( 66 )

これ、不退の密益なり

  一 前々住上人、仰せられ候う。
  「一心決定のうえ、弥陀のおんたすけありたりというは、
  さとりのかたにて、わろし。
  たのむ所にてたすけたまい候う事は、歴然にも候えども、
  御たすけあろうずと云いて、しかるべき」の由、仰せられ候う云々
  「一念帰命の時、不退の位に住す。これ、不退の密益なり。
  これ、涅槃分なる」由、仰せられ候うと云々

  (蓮如上人御一代記聞書204条)

 試みに現代語訳。蓮如上人の言葉。いわく、信心决定の一念に「救われた」というのは、あたかも現在に悟りを開いたかのようでよくない。確かに、たのむ心の起きたとき、仏のお心が少しばかり明らかになるから「救われた」と喜ぶこともあるが、教えの上では「必ず救われる」と言った方がいい。というのも、現在に仏のお心をいただき、未来に仏になるというのが現生不退の教えの基本だからです、と。このように蓮如上人は言われました。

 さて、「これ、不退の密益なり。これ、涅槃分なる」について。信心とは、わたしの心に智慧が生じた事実であるから「救われた」という一面がある。また一方では、始めて無碍の一道が開け、ここから仏への道を歩み始めることができるようになったという一面があるわけです。つまり「必ず救われる」未来は「すでに救われた」という現在によって成り立っているということです。因位の信心が涅槃の一部なら、果位の悟りは涅槃の全開でしょうけれども、一部も全開も涅槃は涅槃、光には違いはない。だから、いつ死んでも仏と言える。これが救いの内容、不退の密益です。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-13 06:01 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 「総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。
  此の心にて、世間には、物もしならうなり。
  仏法には、無我にて候ううえは、人にまけて信をとるべきなり。
  理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり」と、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書160条)


 受け入れられない事実に直面すると「不条理だ!」と心が叫ぶ。事実が受け入れられないのは理屈や感情が事実より"上"にあって偉そうだからである。それを仏法では「邪見驕慢」といって嫌われる。仏のお慈悲は「理をまげて情をおる」。我慢の鼻っ柱をへし折る。こんなことは誰も望まないから、実に難信である。「人にはおとるまじき」と生存競争を生き抜いてきたが、おのれをよしとする我慢が基礎から崩壊するような事実に直面することがある。仏のお慈悲に心が向くかどうか、これもまた宿善である。縁のない人には縁がない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-12 06:03 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 勧修寺の道徳、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、

  蓮如上人、おおせられそうろう。
  「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。
  自力の念仏というは、念仏おおくもうして仏にまいらせ、
  このもうしたる功徳にて、仏のたすけたまわんずるようにおもうて、となうるなり。
  他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり。
  そののち念仏もうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと、
  おもうこころをよろこびて、南無阿弥陀仏に自力をくわえざるこころなり。
  されば、他力とは、他の力というこころなり。
  この一念、臨終までとおりて往生するなり」と、おおせそうろうなり。

  (蓮如上人御一代記聞書1条)

 竹内先生が蓮如について語るのを聞いたことがない。あまり好きではなかったのだと思う。「親鸞には嘘がない。だから、ついていける」と言っていたことを思い出します。初めて御文を読んだとき「蓮如には懺悔がない」と思った。いわば、蓮如は教化者として弟子や門徒衆の方を見ている。だから、わたしたちは自ずと蓮如の顔ばかりを見ることになる。一方、親鸞はといえば、親鸞はいつも頭を低くして仏の方を仰いでいる。だから、わたしたちは必然、親鸞の頭の後ろと背中だけを見ることになる。

 例えていえば、蓮如は決して間違いをしない偉大な教師のようだが、親鸞は研究室の片隅で黙々と勉強している一学究のようです。困ったらいつでも相談に乗ってくれる威張らない先輩のようだと、そんな勝手な印象を持っている。さて、時期が来たようなので、今回で『蓮如上人御一代記聞書』を読むシリーズを終わりにします。「他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり」。お聖教のすべてはこの「一念のおこるとき」だけを伝えようとしています。これからも共に聴聞してまいりましょう。善及

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-24 06:17 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 「信をとらぬによりて、わろきぞ。ただ、信をとれ」と、仰せられ候う。
  善知識の、「わろし」と、仰せられけるは、信のなきことを、「わろき」と、仰せらるるなり。  
  しかれば、前々住上人、ある人を、「言語道断、わろき」と、
  仰せられ候うところに、その人、申され候う。
  「何事も、御意のごとくと存じ候う」と、申され候えば、仰せられ候う。
  「ふつとわろきなり。信のなきはわろくはなきか」と、仰せられ候うと云々

  (蓮如上人御一代記聞書186条)

 聴聞の目的は信を取ることだから、蓮如上人は「信をとらぬによりて、わろきぞ。ただ、信をとれ」と弟子を叱る。信を取る以外に聴聞する理由はないから、蓮如上人、ある弟子を「言語道断、わろき」と厳しく叱ったら、この弟子、師匠に口答えした。「何事も、御意のごとくと存じ候う」と。信が取れないのは師匠のせいだと言わんばかりだ。「お前はまったくわかっていない」と、蓮如上人はがっかりした。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-23 06:25 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

仏法をあるじとし

  一 「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といえり。
  「仏法のうえより、世間のことは時にしたがい、相はたらくべき事なり」と云々

  (蓮如上人御一代記聞書157条)

 仏法を学ぶために生きている。世間のことが邪魔になって仏法が学べないようではなんのために生きているかわからない。仏法を学ぶ邪魔にならないように、世間のことはそこそこ適当に処すべきです、と。意訳するとこんな感じでしょうか。われらは信を取るために聴聞している。聴聞して信を取ることだけが生きる意味だと、この法語は訴えている。人生の意味を見つけるために仏法を学ぶのではない。仏法を学ぶことが人生の意味です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-22 06:12 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(2)

  一 聖人の御一流は、たのむ一念の所、肝要なり。
  故に、たのむと云うことをば、代々、あそばしおかれそうらえども、
  委しく、何とたのめと云うことを、しらざりき。
  しかれば、前々住上人の御代に、『御文』を御作り候いて、
  「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」と、
  あきらかにしらせられ候う。
  しかれば、御再興の上人にてましますものなり。

  (蓮如上人御一代記聞書188条)

 「弥陀をたのむ」となぜ仏になるのか。「たのむ」とは、主人とする、頼りにして仕える、つき従う、という意味です。なにをたのむかというと「弥陀をたのむ」、阿弥陀仏に南無する南無阿弥陀仏です。いままでは自分の心を主人として、自分の心に仕えてきた。自分の心と完全に一体となって、自分の心を満足させるためだけに生きてきた。自分の心に南無する南無・自分の心です。心に二つあるとは知らなかった。仏の心を主人とするを他力、自分の心を主人とするを自力というが、どちらを選んで南無するかはあなたが決める。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-15 06:06 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

  一 いたりてかたきは、石なり。
  至りてやわらかなるは、水なり。水、よく石をうがつ。
  「心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。
  いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、
  御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。
  ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書193条)

 試みに現代語訳。蓮如上人の言葉。最も硬いものは石である。その硬い石を最も軟らかい水が穴をあける。「心の源まで深く深く降りて行けば仏に遇う」という古い言葉がある。いかに仏の声が聞こえずとも、岩を打つ一滴のしずくのように、ただひたすら生涯かけて聴聞すれば、いつかきっと、あなたの心に仏のお心が届くのである。だから、命懸けで聴聞しなさいと、蓮如上人は言われました。


 生涯、聴聞している。真実に引かれて聴聞しているだけだから聴聞することに理由は求めなくてよい。信心を得ていようと得ていまいと、聴聞することが最も人らしい生き方ではないか。我を超えた大きな心に、これでよいですかと、問い続ける。仏のお心がわからずとも仏はあなたのことをよく知っている。信心は宿善の開発で、信心は与えられてくるものだから、あなたが求めたから得られるという理由はない。聴聞する。お念仏する。みな仏のお育てであるから、信を得ようと得まいと、真実に引かれるままに、お念仏もし、聴聞もする。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-14 06:02 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(2)

  一 蓮如上人へ、ある人、安心のとおり、申され候う。
  西国の人と云々 安心の一通りを申され候えば、仰せられ候う。
  「申し候うごとく心中に候わば、それが肝要」と、仰せられ候う。

  (蓮如上人御一代記聞書183条)

 西国の人、蓮如上人の前で、得々と安心を語る。まったく信仰になっていないので、気の毒で、返す言葉が見つからない。蓮如上人は「その通りです」「ただ信心が肝要」と言うのが精一杯だ。自分の心がどんなか、よくよく観察することが聴聞です。心が見えたら智慧が生ずる。「安心の一通り」をいくら勉強しても智慧は生じない。ご法義の勉強を一生懸命するのは自分の心を見たくないのでしょう。信仰を哲学にしてはならない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-13 06:08 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(0)

仏恩を嗜む

  一 「仏恩を嗜む」と、仰せ候う事、
  世間の物を嗜むなどというようなることにては、なし。
  信のうえに、とうとく、有り難く存じ、よろこび申す透間に、懈怠申す時、
  「かかる広大の御恩を、わすれ申すことのあさましさよ」と、
  仏智にたちかえりて、「有り難や、とうとや」と、思えば、
  御もよおしにより、念仏を申すなり。
  嗜む、とは、これなる由の儀に候う。

  (蓮如上人御一代記聞書225条)

 誰の言葉かわかりませんが、試みに現代語訳してみます。以下の通りです。「仏恩を嗜む」というお言葉があります。もちろん、世間でいう「なになにを身につける」という意味とは違います。信心をいただくと、常に仏のお心の中に生活してはいるのですが、すぐに煩悩に取りついて、仏のお心の中ということを忘れる。忘れるが、すでに仏のお心の中なので、すぐに仏のお心の中と思い出す。凡心に転落しても、すぐに仏心に転ぜられるのです。これが信の一念にいただいた智慧の働きというもので、智慧が次第次第に身についてくることを仏法においては「仏恩を嗜む」というのです。

 さて、親鸞聖人は「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲」(教行信証・信巻)とお示しになり、その一つに「転悪成善の益」を上げておられます。「悪を転じて善に成す」とは、悪は凡心、善は仏心のことで、煩悩に繋がった心が仏心に転ぜられることを言います。仏の方から煩悩が見える智慧の働きです。この智慧の働きがあるので、何度、煩悩心に転落してもすぐに仏心に転ぜられるのです。これを何万、なん十万回でも繰り返しながら、少しずつ煩悩が浄化されていく。これが仏への道を歩む念仏者の生活です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-06 06:18 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(2)

  一 皆人毎に、よきことを云いもし、働きもすることあれば、
  真俗ともに、それを、わが、よき者に、はや、なりて、
  その心にて、御恩ということは、うちわすれて、
  わが心、本になるによりて、冥加につきて、
  世間・仏法、ともに、悪き心が、必ず、必ず、出来するなり。
  一大事なりと云々

  (蓮如上人御一代記聞書229条)

 試みに現代語訳。「人は誰しも、仏法のことが少しばかり分かりもし、念仏も出るようになると、早、一人前の仏法者になったような気になり、人にも信心の人と思われて得意になるうちに、わが心をよしとするようになって、仏のご恩をも忘れてしまうのである。こうなると世渡りでも必ず悪いことが起きるし、仏のお力にすがる思いもすっかり忘れて、信仰心をなくしてしまうのである。まことに恐ろしいことである」と、蓮如上人は言われました。

 不退転の菩薩が転落する。多分、二度と不退転に登れない。信体験を得ても行が確立していないから、頭だけの信仰になってしまう。悟ったとの思いが頭を絶対にしてしまう。頭だけの信心は行がないので必ず転落する。蓮如上人は「一大事」と言った。菩薩の死である。本当に恐ろしいことであるが、当の本人は気づいていない。行に仕えることが念仏の日暮しである。信のない行は中身がないが、行のない信はそもそも成り立たない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-05 06:17 | 蓮如上人御一代記聞書を読む | Comments(2)