カテゴリ:教行信証のこころ( 33 )

三願転入

 ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。

(教行信証・化身土巻「御自釈」部分)

 量深師の教えを仰ぐ。「御開山聖人は法然聖人にまみえられた時に信心決定されたのだろうが、それに違いないが、その信心が本当に完成したのは、二十願によって完成した。真実のための方便あって、方便ある故に、その方便によって真実が完成する。真実の信心を頂戴してもなかなか完成しない。果遂の誓あって、どのような艱難に際してもへこたれない。親鸞という人間が完成したというのは果遂の誓あって人間が完成したと感謝されて、化身土巻に三願転入ということがあるわけである。」(津曲淳三著「親鸞の大地・曽我量深随聞日録」より)

 「真実の信心を頂戴してもなかなか完成しない」とは、智慧が完成した「いま」があるからこのようなお話がある。量深師ご自身の信仰の全生涯を語ったかのようです。人が人になる道、人として成熟、完成して行く道筋を示していただいている。智慧を頂いた時は針の先ほどの光である。それでも智慧は智慧、闇の中に一点の光でも見れば、歩んで行く方向、未来がわかる。しかし、初めて頂いた智慧は自覚としては微妙で、その働きはまだ弱く、信の一念は本物だったのかと問い続ける厳しい道のりが続くのです。

 とくに、如来よりいただいた智慧を自分の手柄にしようとする自力の執情と闘わなくてはならない。仏を見た信の一念に立ち返り立ち返りするうちに智慧がより確かなものになっていくでしょう。信心のご利益に、煩悩はそのままに煩悩に影響されなくなっていく、これが往生の生活です。煩悩の影響を受けない環境の中、信力が増進して、智慧の働きがはっきりしていく。「果遂の誓い、良に由あるかな」の親鸞の言葉には、智慧が完成した喜びが輝いている。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-09-17 05:06 | 教行信証のこころ | Comments(0)

「転じる」ということ

 世間道を転じて、出世上道に入るものなり。「世間道」はすなわちこれ「凡夫所行の道」と名づく。転じて「休息」と名づく。凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたわず、常に生死に往来す。これを「凡夫道」と名づく。「出世間」はこの道に因って三界を出ずることを得るがゆえに、「出世間道」と名づく。

(教行信証・行巻「十住毘婆沙論」引用部分)

 「世間道を転じて、出世上道に入るものなり」とは「不退転地」という菩薩の悟りです。「出世上道に入る」とは、有相の「世間道」を一瞬離れる。有相を離れる一瞬に「無相」を見る。これを「信の一念」という。無相を見る前と後で「三界」は同じだが仏の方から見えるようになる。立ち位置が仏の方に変わるので「転じる」という。無相(仏)を見ると「智慧」が生じるので、智慧を得させようとして「十八願」がある。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-09-16 05:04 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 また云わく、仰ぎ願わくは一切往生人等、善く自ら己が能を思量せよ。今身にかの国に生まれんと願わん者は、行住座臥に、必ず須らく心を励まし己に剋して、昼夜に廃することなかるべし。畢命を期として、上一形にあるは少しく苦しきに似如たれども、前念に命終して後念にすなわちかの国に生まれて、長時・永劫に常に無為の法楽を受く。乃至成仏までに生死を径ず、あに快しみにあらずや。知るべし、と。

(教行信証・信巻「往生礼讃」引用部分)

 量深師に教えを仰ぐ。「普通、信の一念、信の一念というのは、前念命終である。つまり信の一念によって、私どもは、自分の一生涯の一大事を決定した。信の一念によって私どもは、わがすべきことは一切完了した。いくら生きておっても差し支えないが、しかし、信の一念をもって終っても、なんの後悔もない。満足して死ぬことができる。満足して死ねる一念である。後念即生ということは、信の一念と続いて、必然的に連続して後念即生である。信心決定したその時に後念即生である。」(曽我量深著「親鸞との対話」より)

 また、『愚禿鈔』に云わく、「本願を信受するは、前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。即得往生は、後念即生なり」と。どういうことか。親鸞は「即ち往生することを得る」とは「往生する」と言ってもいいのだと言っているのでしょう。善導が「臨終」のときとした往生を「現在」にもってきた。「命終」(臨終)は「本願を信受する」ときだと言ったのは親鸞が初めてです。これによって「往生」に二義があることがはっきりした。すなわち、十八願成就のとき、信の一念を「心の往生」とし、十一願の滅度のとき、臨終を「身の往生」とする、と。親鸞にはそう領解する体験の裏付けがあったのでしょう。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-09-15 05:29 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 また云わく、仰ぎ願わくは一切往生人等、善く自ら己が能を思量せよ。今身にかの国に生まれんと願わん者は、行住座臥に、必ず須らく心を励まし己に剋して、昼夜に廃することなかるべし。畢命を期として、上一形にあるは少しく苦しきに似如たれども、前念に命終して後念にすなわちかの国に生まれて、長時・永劫に常に無為の法楽を受く。乃至成仏までに生死を径ず、あに快しみにあらずや。知るべし、と。

(教行信証・信巻「往生礼讃」引用部分)

 『愚禿鈔』に云わく、「本願を信受するは、前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。即得往生は、後念即生なり」と。善導が臨終のときとした「前念命終・後念即生」を親鸞は現生のこと、すなわち十八願成就のこととして解釈し直している。親鸞は「本願を信受する」ときが「臨終」だと言っているのです。どういうことか。すなわち、煩悩を自分の心として生きているわれらは、煩悩が見せる喜怒哀楽の人生を実の如くに存在していると信じている。「わたし」も「わたしの人生」も、ただ煩悩の映写機が虚空のスクリーンに映して見せているだけの、夢か幻のようなものに過ぎないのに実の如く存在していると思っている。「わたし」と「わたしの人生」に深く執着し、その結果として、「わたし」と「わたしの人生」に完全に一体化してしまっているからです。

 だから、それを「捨てる」ことは「死ぬ」ことに等しい。死ぬ覚悟が求められる。捨てるどころか、それを事実として受け入れることができないに違いない。人生苦の根本原因は我心への執着であるから、我執を断つために仏菩薩はさまざまに善巧方便してくださる。仏菩薩のお育てを受けて、どうにか我執が落ちるところまで来る。最後に、我心と仏心の選択を迫られるがなかなか決断ができない。「わたし」を捨てることの恐ろしさが「死」として眼の前に大きく立ちふさがるからです。しかし、必ず遂げさせるのが弥陀の本願ですから、果遂の誓いゆえ、ついに十八願が成就する。その内面の出来事として、「前念命終」は我執が落ちたことであり、「後念即生」は凡心が仏心に転じたことであると、親鸞は教えてくれたのです。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-09-14 05:12 | 教行信証のこころ | Comments(0)

横超断四流

 「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに「断」と曰うなり。「四流」は、すなわち四暴流なり。また生・老・病・死なり。

(教行信証・信巻「御自釈」部分)

 「断」というのは、信の一念に空に触れる。空とは無相である。無相とは仏である。仏を垣間見た瞬間、生まれるということも死ぬということもない不生不滅、すなわち無生忍を悟る。果位の仏を見て因位の智慧を得るのである。無相を見るは有相の滅を見ることだから、迷いの果である「六趣・四生」がないと知る。流転輪廻する主体、すなわち迷いの「因」である「わたし」がないのであるから「生として当に受くべき生なし」。すなわち「果」としての生死がない。このように知るから、これを「因亡じ果滅す」という。信の一念に「生死を断絶した」のである。

 また、「四流」とは四暴流、迷いの因としての煩悩、すなわち「わたし」であり、「生老病死」は迷いの果である。わたしが生まれ、わたしが老い、わたしが病んで、わたしが死ぬ。迷いの生死、すなわち人生である。信の一念に無相を見れば仏を知る。仏は涅槃である。涅槃は真如である。真如から方便して如来と現れて涅槃へと導いてくださる。このような仏を垣間見るから「即ち往生を得る」という。十八の願が成就したのである。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-09-13 05:52 | 教行信証のこころ | Comments(0)

二河白道(4)

 この人すでに此に遣わし彼に喚うを聞きて、すなわち自ら正しく身心に当たりて、決定して道を尋ねて直ちに進みて、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚うて言わく、「仁者回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず。我等すべて悪心あってあい向うことなし」と。この人、喚う声を聞くといえどもまた回顧ず。一心に直ちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る。善友あい見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩なり。

(教行信証・信巻「観経疏」引用部分)

 念仏の行者は旅の終わりに二つの声を聞く。一つは「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん」と。これは仏の声です。二つは「仁者回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず」と。これは自分の心の声です。二つの心を知った。「白道」を見るまでは自分の心が仏になると信じていたが、仏になるには「仏心」をいただかなくてはならない。すなわち、初めて「白道」を見つけ、ついで「白道」を渡る決断をするまでの信心獲得の内面を「二河白道」は描いているのです。「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」。三定死は自分の心を捨てる恐怖心でしょう。崖下で手を広げて待っている仏を信頼して身投げする気持ちです。「さあ、落ちてこい」と仏、あなたは身を投げられるか。「一心に直ちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る」。身を捨てる決意の瞬間に救われるでしょう。自我に死んで仏心に蘇る。十八の願成就して、信心の人が生まれたのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-09-12 05:02 | 教行信証のこころ | Comments(4)

二河白道(3)

 時に当たりて惶怖すること、また言うべからず。すなわち自ら思念すらく、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし」と。この念を作す時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。

(教行信証・信巻「観経疏」引用部分)

 「西の岸」とは仏の心、「東の岸」とは自分の心をいう。自分の心を捨てて仏の心を得ることを「西の岸に到りて」という。仏を求める長い旅の終わりに、最初で最後の選択、自分の心を捨てて仏の心を選び取るという選択が待っていた。東の岸より西の岸に至る白道は「長さは百歩」しかないが「幅は四五寸」しかない。仏の心のすぐ近くまで来たのに、仏の心を得ることの難しさを表現している。また、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」は「三定死」といって、自分の心を捨てる恐ろしさを表現している。それでも「一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし」と。機縁熟して、いま、ここに、仏は念仏の行者に仏の心を選ばせる。これが「二河白道」の眼目です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-09-11 05:25 | 教行信証のこころ | Comments(0)

二河白道(2)

 この人すでに空曠の迥なる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競い来りてこの人を殺さんと欲す。死を怖れて直ちに走りて西に向かうに、忽然としてこの大河を見て、すなわち自ら念言すらく、「この河、南北辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きわめてこれ狭少なり。二つの岸、あい去ること近しといえども、何に由ってか行くべき。今日定んで死せんこと疑わず。正しく到り回らんと欲すれば、群賊悪獣漸漸に来り逼む。正しく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣毒虫競い来りて我に向かう。正しく西に向かいて道を尋ねて去かんと欲すれば、また恐らくはこの水火の二河に堕せんことを。」

(教行信証・信巻「観経疏」引用部分)

 ごく稀に真面目に仏法を聞く人がいる。宿縁というものだろうか。しかし、善知識にはなかなか会えない。我心が出会いを邪魔する。善知識、法友のいない「空曠の迥」を一人歩む長い旅は心の底まで寂しい。しかし、孤独に堪える一人旅が信仰心を育て、心を知らず知らずに浄化している。仏道を歩む者にはいらないもの、世間のありふれた楽しみや家族や友をもつ喜びを捨てて、われを導いてくれる仏の声だけを便りに旅するうちに足は自ずと西に向かっていた。念仏の行者はようやく「白道」を見つけたのです。旅が終わろとしている。念仏する人は多いが、ここまでたどり着く人は少ない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-09-10 05:19 | 教行信証のこころ | Comments(0)

二河白道(1)

 譬えば、人ありて西に向かいて行かんと欲するに百千の里ならん、忽然として中路に二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。正しく水火の中間に、一つの白道あり、闊さ四五寸許なるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交わり過ぎて道を湿す。その火焰また来りて道を焼く。水火あい交わりて常にして休息なけん。

(教行信証・信巻「観経疏」引用部分)

 「二河」は貪瞋煩悩に喩える。思い通りになって幸せになったり、思い通りにならないといって人を憎んだりする。貪欲と瞋恚の二つの煩悩の間を行き来して、怒りに巻き込まれては罪悪を造り、造った罪悪の報いに苦しみながら、なぜかもわからずに一生を終わることを貪瞋煩悩という。人の心、生きるとはそういうものだ、なにが悪いと、みな心の中でそう思う。だから、誰も苦楽を超えた仏の道を求めようとはしない。しかし、まれに真面目に仏法を聞く人がいて、その支配から逃れようとすると、貪瞋煩悩の悪獣、心を盗む盗賊どもは途端に本性を現し、牙を剥いて悟りを求める旅人に襲いかかってくる。煩悩の支配と闘う恐ろしさ、深い孤独を「二河白道」は実によく描いている。

 南無阿弥陀仏



by zenkyu3 | 2018-09-09 05:08 | 教行信証のこころ | Comments(0)

喜悟信の三忍

 また云わく、「心歓喜得忍」と言うは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼前に現ぜん。何ぞ踊躍に勝えん。この喜びに因るがゆえに、すなわち無生の忍を得。また「喜忍」と名づく、また「悟忍」と名づく、また「信忍」と名づく。勇猛専精にして心に見んと想う時に、方に忍を悟るべし。

(教行信証・信巻「観経疏」引用部分)

 『観経』に云わく、「韋提希、五百の侍女と、仏の所説を聞きて、時に応じてすなわち極楽世界の広長の相を見たてまつる。仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生ず。未曾有なりと歎ず。廓然として大きに悟りて、無生忍を得」と。すなわち、われらは念仏に命を懸けて励み、一心に仏を見んと願う時、信の一念極まって「仏身および二菩薩を見たてまつる」ということが起きる。わたしが仏を見ることは仏がわたしを見ることと同じだから、このとき、仏のお心と心がつながる。思うに、どの経典であれ「心歓喜得忍」の体験を伝えないものはない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-09-08 05:13 | 教行信証のこころ | Comments(0)