回向に二種の相あり

  『浄土論』(論註)に曰わく、
  「云何が回向したまえる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、
  回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」とのたまえり。
  回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。

  (教行信証・信巻「浄土論註」引用部分)


 竹内先生からお聞きした話です。「道は往来と言って、こちらから往く人があれば、あちらから来る人がある。人と人が出会うことがあるから道というのです」。前後の脈絡は覚えていません。歎異抄の定期講話の中、第七章の「念仏者は、無碍の一道なり」のところでお聞きしたかも知れません。二度は聞いていないと思います。

 竹内先生は西谷啓治先生を恩師と慕っておられましたが、わたしは竹内先生にお会いすることができました。当時、わたしは三十六歳。先生は六十四歳で、いまのわたしと同じ年です。竹内先生の未来に向かう往相のお姿を見て、わたしにも念仏の道が開けました。先生が救われていく尊いお姿はそのままわたしにとっての還相の菩薩のお姿となってくださったのです。

 竹内先生は「自分は還相の菩薩であるなんて言ったら変な話でしょう」とも言われました。聴聞を始めた頃でしたから、往相還相も、回向ということすらわからなかった。しかし、不思議なことに、わからなかった言葉だけが心の深くに沈澱して時期が来るのを待っていたかのように思い出される。今でこそ「往還の二回向」をわかりやすくお話しいただいたのだとわかります。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-02-05 06:15 | 教行信証のこころ | Comments(0)

二種深信

  「二者深心」。「深心」と言うは、すなわちこれ深信の心なり。
  また二種あり。一つには決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
  曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず。
  二つには決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、
  疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。

  (教行信証・信巻「観経疏」引用部分)


 二種深信は信心の内容です。救われないと知る智慧はわたしの中にはない。わたしの中にないのだから「回向」という。救われないと知ることが救われたことである。はっきりしている。わたしの本心はどこまでも「この心のままで」救われたい。それは無理だと二種深信が教えている。救われないのはわたしの心、救うのは仏の心。わたしの心は地獄行きと決まっている。わたしの心が成仏するのではない。仏の心が成仏する。ここがはっきりするのが二種深信。仏の心が成仏する。だから「必至滅度」という。仏が仏になるのだから間違いない。それゆえ「他力」という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-26 06:17 | 教行信証のこころ | Comments(0)

二河白道の譬え(5)

(この項終わり)


  *6 この人、喚う声を聞くといえどもまた回顧ず。
  一心に直ちに進みて道を念じて行けば、
  須臾にすなわち西の岸に到りて永く諸難を離る。
  善友あい見て慶楽すること已むことなからんがごとし。
  これはこれ喩なり。

  (教行信証・信巻「二河白道」引用部分)

 「須臾にすなわち西の岸に到りて」とは、凡心と仏心との最後の二者選択を迫られ、逡巡なく仏心を選んだ瞬間に西の岸に渡る、すなわち即得往生する。凡心から仏心に主体が転ぜられる。この経験を獲させたくて釈迦弥陀の善巧方便がある。不退転地に入れば、後は法爾自然、智慧が仏への道を歩ませてくださる。わたしはなにもしなくてよい。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-12 06:03 | 教行信証のこころ | Comments(0)

二河白道の譬え(4)

  *5 この人すでに此に遣わし彼に喚うを聞きて、
  すなわち自ら正しく身心に当たりて、
  決定して道を尋ねて直ちに進みて、疑怯退心を生ぜずして、
  あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚うて言わく、
  「仁者回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。
  必ず死せんこと疑わず。我等すべて悪心あってあい向うことなし」と。

  (教行信証・信巻「二河白道」引用部分)

 「東の岸の群賊等」とは自分の心のことです。あなたは心に完全に支配されているから、心に背くことが本当に恐い。心に支配された奴隷状態を脱して心の主人になることを仏になるというが、心を自分だと信じているから、自分の心を捨てることができない。心を捨てようとすると心が呼び返す。「我等すべて悪心あってあい向うことなし」と。わたしを離れてお前は生きられないぞ、と脅す。あなたは自分の心を捨てることができない。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-11 06:03 | 教行信証のこころ | Comments(0)

二河白道の譬え(3)

  *2 譬えば、人ありて西に向かいて行かんと欲するに百千の里ならん、
  忽然として中路に二つの河あり。
  一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。
  二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。
  正しく水火の中間に、一つの白道あり、闊さ四五寸許なるべし。
  この道、東の岸より西の岸に至るに、
  また長さ百歩、その水の波浪交わり過ぎて道を湿す。
  その火焔また来りて道を焼く。

  水火あい交わりて常にして休息なけん。

  (教行信証・信巻「二河白道」引用部分)

 水の河とは貪欲、火の河は瞋恚、わたしたちの心、すなわち貪瞋煩悩を譬えている。具体的に言えば、貪欲とは希望や願い、瞋恚とは怒りと絶望です。わたしたちの人生は希望を持つことと、希望がかなわず絶望することと、この二つの間を往き来している。希望とは意味であり、意味は理由です。わたしたちは意味のある世界、理由のある人生を頭に描いて、その中で生きている。事実を生きている訳ではない。頭で考えたことは事実ではない。妄想という。事実より妄想を大切にするから転倒妄想という。

 事実は常に願い(妄想=思い)通りにはならない。妄想を主にするからいつも落胆、失望、絶望する。揚げ句には、思い通りにならないのは人が悪い、人が邪魔するからだと考えるから、怒りは怨み、妬み、憎しみとなって人に向い、怒りは必ず人を傷つける。怒りが罪悪を造る。これを瞋恚という。人の心は貪瞋煩悩で出来ていて、心は身に属しているから、命ある限り「水火あい交わりて常にして休息なけん」という有り様です。ここに救いのないわたしたちの心の現実がある。しかし、救いがないと教えるのは救われる道があるからです。それを白道という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-10 06:11 | 教行信証のこころ | Comments(0)

二河白道の譬え(2)

  *4 この念を作す時、
  東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。
  「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、
  必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」と。  
  また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、
  「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。
  すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。

  (教行信証・信巻「二河白道」引用部分)

 聴聞をしても金が貯まる訳でもないのに、なぜ、わたしたちは聴聞するのだろうか。聴聞する時間があったら金儲けした方がいいかもしれない。でも、なにかに引き寄せられるようにいつでも聴聞する。いつも仏のことを考えている。こっちへ来いと呼ぶ声に引っ張られて行く。そこにいちゃいけない、こっちへ来いと、あちら側から呼んでくださっている。声は聞こえないが引っ張られて行く。

 世間は用もないことで忙しく、わたしの心の中も駅前の雑踏のように騒がしい。内と外の騒音にかき消されているが、遠くから微かにわたしを呼ぶ声が聞こえる気がする。わたしたちはなにかを忘れている。だから、頼まれもしないのにいつも聴聞している。きっと聞こえる。喧騒を離れ孤独になって耳を澄ませば、きっと、あなたを呼ぶ声が聞こえる。二河譬は内面の事実です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-09 06:03 | 教行信証のこころ | Comments(0)

二河白道の譬え(1)

  *4 時に当たりて惶怖すること、また言うべからず。
  すなわち自ら思念すらく、「我今回らばまた死せん、
  住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、
  我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。
  すでにこの道あり。必ず度すべし」と。
  この念を作す時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。
  「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。
  もし住まらばすなわち死せん」と。
  また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、
  「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。
  すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。

  (教行信証・信巻「二河白道」引用部分)

 西の岸から仏が呼ぶ。「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。自分の心(凡心)を捨てるのは死ぬほど恐ろしい。「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」を三定死という。自分の心と闘い、ここまで辿り着く人は極めて稀だが、三定死に至って初めて仏の呼び声が聞こえる。


 凡心と仏心の二者選択までにようやく追いつめられて、「一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし」と仏にすがり、仏に守られ三定死の恐怖を超えた一瞬に西の岸に渡る。西は仏心、東は凡心。凡心から仏心に主体が転換する信の一念です。二河譬は行者が命懸けで信を取る内面の葛藤を驚くほどリアルに描いている。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-01-08 06:04 | 教行信証のこころ | Comments(0)

  源信、広く一代の教を開きて、
  ひとえに安養に帰して、一切を勧む。
  専雑の執心、浅深を判じて、
  報化二土、正しく弁立せり。

  極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
  我また、かの摂取の中にあれども、
  煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
  大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。

  (教行信証・行巻「正信偈」源信讃)

 「我また、かの摂取の中にあれども」とは、身は娑婆にあれども心は摂取の心光の中(浄土)にある。「煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども」とは、煩悩身についている肉眼では仏を見ることはできない。如来廻向の仏眼で仏を見させていただくのである。「大悲倦きことなく」とは、わたしが憶念しようとしまいと、「常に我を照らしたまう」。常に仏の方から見られている。

 智慧を光に譬えるのは、闇を破って見えないものを見えるようにしてくれるから光というのです。眼がよくて見えるのではない。だから、自分の心が見えたら、それが智慧をいただいたことです。煩悩は煩悩を見ることはできないからです。それを「煩悩、眼を障えて見たてまつらず」といいます。如来廻向の智慧をいただいて自分の心を見せていただくのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-07-21 07:01 | 教行信証のこころ | Comments(0)

たとへば千歳の闇室に

  たとへば千歳の闇室に、
  光もししばらく至れば、
  すなはち明朗なるがごとし。
  闇、あに室にあること千歳にして
  去らじといふことを得んや。

  (教行信証・信巻 「浄土論註」引用部分)


 例えば、映画のスクリーン。スクリーンに映っている世界は映写機が映している。映写機という自分の心が映したものをわれらはスクリーンという外に見ている。スクリーンを見るうちにスクリーンの中の世界が外界に実在すると錯誤する。錯誤した上、自分の心が映したものに執着する。元々"ない"ものを見て"ある"と執着するから「迷う」という。外に見ているのは内にあるものの影でしかない。さて、「千歳の闇室」とは自分の心のこと、「光至れば」とは自分の心が見える。自分で自分の心を見ることはできない。仏の我を見る眼をいただく。だから、自分の心が見えたら、それが「千歳の闇室に、光もししばらく至れば」です。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-20 07:29 | 教行信証のこころ | Comments(0)

現生十種の益(続)

e0361146_07284065.jpg  五濁悪世の衆生の
  選択本願信ずれば
  不可称不可説不可思議の
  功徳は行者の身にみてり

  南無阿弥陀仏をとけるには
  衆善海水のごとくなり
  かの清浄の善身にえたり
  ひとしく衆生に回向せん

  (高僧和讃)

  金剛の真心を獲得すれば、
  横に五趣八難の道を超え、
  かならず現生に十種の益を獲。

  (教行信証・信巻)


 信心とは仏のお心をいただくことです。いただくとは仏のお心がわたしの内面に入って主体となってくださった。そのことを「功徳は行者の身にみてり」とも「かの清浄の善、身にえたり」ともいいます。この身に得た信心とはどのようなものか。その具体的な内容を親鸞は「十種の益を獲」と教えてくれている。これが「功徳」です。


 「五趣八難の道」とはわれらの現在の姿であり、現在を現在と知らせ、現在に安息して生きる道を開くのが現在を超えて現在を照らす光、すなわち「金剛の真心」です。現在を超越しているので「未来」といい、未来が現在を超えて現在しているのです。真宗は「二種回向」といいますが、「選択本願信ずれば」が往相で、「ひとしく衆生に回向せん」が還相です。仏のお育てで、わたしの手柄はありません。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2017-03-12 07:18 | 教行信証のこころ | Comments(0)