カテゴリ:教行信証のこころ( 37 )

 『註論』に曰わく、「荘厳清浄功徳成就」とは、「偈」に「観彼世界相 勝過三界道故」と言えり。これいかんが不思議なるや。凡夫人、煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得んに、三界の繫業畢竟じて牽かず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いずくんぞ思議すべきや、と。

(教行信証・真仏土巻「論註」引用部分)

 「かの浄土に生まる」とは仏のお心の中に生じることを意味しています。すなわち「念仏三昧」に入るのです。念仏三昧に入れば「三界の繫業畢竟じて牽かず」、つまり、過去と現在の悪業煩悩から護られ、その影響を受けない。それを「煩悩を断ぜずして涅槃分を得」と言ったのです。この因縁あるゆえに「安楽」とも「極楽」ともいう。「涅槃分」の分とは一部、仏ではないから涅槃の全体、無上涅槃を悟ることはできない。また、『願生偈』に「観彼世界相 勝過三界道故」とは「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」という。「かの世界」は無相であり、「三界の道」は有相です。無相を見るのが信の一念にいただく「無生法認」です。この智慧あるゆえに初地不退の菩薩というのです。涅槃の一部を見たから無上涅槃を求める。それが「安楽国に生まれんと願ず」ということで真実の帰依が生じたのです。よって、信後の念仏相続により、久しく自利成就して念仏三昧に入り終わるから「かの浄土に生まる」というのです。すなわち「心の往生」を遂げ終わることです。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-11-01 05:20 | 教行信証のこころ | Comments(0)

安楽国に生まれんと願ず

 『浄土論』に曰わく、世尊、我一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生まれんと願ず。かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし、とのたまえり。

(教行信証・真仏土巻「浄土論」引用部分)

 形ある世界は生滅を繰り返す。これを無常という。形がない世界は生滅がない。これを常という。形がないから空間としては無辺際、時間としては永遠です。これを「虚空」という。世界のあり方としては、すべては無常であるが、無常でありながら、どれほど変化しても「変化しないという本質」を失わないから無限に変化することができる。世界はこのような在り方をしている。無常敗壊の身を持つわれらは無常の世界しか知らないが、それは世界の一面しか見ていない。無常だけを見れば死に至る闇しかない。しかし、常を見れば不生不滅の世界、すなわち涅槃の光を見る。『浄土論』に「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」とは、天親菩薩は有相を超えた無相を見た。無相を見たので「世尊、我一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生まれんと願ず」と、初めて真実の帰依が生じた。これを菩薩初地の不退転地という。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-10-31 05:18 | 教行信証のこころ | Comments(0)

未証浄心の菩薩

 「未証浄心の菩薩」とは、初地已上七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよく身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作す。かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず。作心をもってのゆえに、名づけて「未証浄心」とす。この菩薩、安楽浄土に生まれて、すなわち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見るとき、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し、と。龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生まれんと願ずるは、当にこのためなるべしならくのみと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 八地以上の大菩薩と、初地以上七地以前のもろもろの菩薩の違いを「作心をもってのゆえに」と端的に示している。信の一念に智慧をいただく。いただいた智慧あるゆえに仏になるということがどういうことかが分かる。それあるがゆえに、信の一念に初地不退の仏道に入るというのです。わずかな智慧の感触を確かめながら念仏するのが信後の念仏相続の始りです。「かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず」。初地以上七地以前の菩薩はまだ念仏三昧に入りきっていない。努力して仏のお心を思い出すからです。信の一念にいただいた智慧が念仏のお力によって深まり、智慧の働きが自在に働くようになるにつれ、努力しなくても念仏が称えられるようになる。ついには念仏に努力がなくなって、いつ、どこで、なにをしていても、仏のお心が離れなくなる。それを「念仏三昧に入る」とも「安楽浄土に生まれる」ともいいます。七地沈空の難という信仰の危機を乗り越えて、やがて菩薩八地の教化地に入る。それゆえに「龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生まれんと願ずる」と。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2018-10-30 05:23 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 「荘厳主功徳成就」は、「偈」に「正覚阿弥陀 法王善住持」のゆえにと言えり。これいかんが不思議なるや。正覚の阿弥陀、不可思議にまします。かの安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや。「住」は不異不滅に名づく、「持」は不散不失に名づく。不朽薬をもって種子に塗りて、水に在くに蘭れず、火に在くに燋がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし。何をもってのゆえに。不朽薬の力なるがゆえなり。もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意「三界に生まれて衆生を教化せん」と願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑生の火の中に生まるといえども、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず。何をもってのゆえに。正覚阿弥陀の善く住持を径るをもってのゆえにと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 「もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば」とは、念仏の行者が念仏三昧に入ったことを示しています。念仏三昧に入れば自利成就して「三界に生まれて衆生を教化せん」と願うので、これを菩薩八地の教化地というのです。また、「浄土の命を捨てて願に随いて生を得て」とは利他のための自利成就であることを示し、「三界雑生の火の中に生まるといえども」とは、教化の中にあっても念仏三昧が失われることがないことを教えています。これを喩えて、すなわち「不朽薬をもって種子に塗りて、水に在くに蘭れず、火に在くに燋がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし」と。このことから「ひとたび安楽浄土に生ずれば」とは、すなわち念仏三昧に入ったことを表し、念仏三昧に入るから菩薩八地の教化地といい、八地以上の大菩薩を還相の菩薩というのだということです。われらは菩薩の修行などしたことはないが、不思議の本願のお力により、このような功徳をいただく身にしていただけるのです。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-29 05:12 | 教行信証のこころ | Comments(0)

このゆえに常とす

 また言わく、善男子、一切有為はみなこれ無常なり。虚空は無為なり、このゆえに常とす。仏性は無為なり、このゆえに常とす。虚空はすなわちこれ仏性なり、仏性はすなわちこれ如来なり、如来はすなわちこれ無為なり、無為はすなわちこれ常なり、常はすなわちこれ法なり、法はすなわちこれ僧なり、僧すなわち無為なり、無為はすなわちこれ常なり。

(教行信証・真仏土巻「涅槃経」引用部分)

 無常は変化する。変化に終わりはなく、変化するから生まれたり死んだりするように見える。対するに、常は変化しない。変化しないから常という。大切なことは、無常と常は別々にあるのではなく、どれほど変化しても変化しないという本性を失わないから常というのだということです。変化しないという本性を失わないから自在に変化することができる。これを常という。だから、常を虚空といい、無為といい、如来といい、仏性という。常を離れて無常はなく、無常を離れて常もない。よって、変化しない常を知れば、変化する無常に安住できる。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-10-24 05:16 | 教行信証のこころ | Comments(0)

七地沈空の難

 問うて曰わく、もしすなわち等しからずは、また何ぞ菩薩と言うことを得ん。ただ初地に登れば、もってようやく増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に上地の菩薩と等しと言うや。答えて曰わく、菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんとす。その時にもし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須らく畢竟平等と言うべし。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 初地に登れば、いずれ仏に等しい等覚の位に至るのに、なぜ、ことさらに七地以前と八地以上とに区別するのか、という問いが立てられています。思うに、八地以上の「法性生身の菩薩」と七地以前の「未証浄心の菩薩」との違いは、信の一念にいただいた智慧が自在にその働きを現し出しているかどうかの違いなのでしょう。初地の菩薩は「智慧」がなにかが感触としてわかった。確かに経験的にはわかったが、智慧がまだ自在に働き出していないから、本当の意味で、智慧の働き、つまり「願力自然」「他力」がどのようなものかがまだわかっていない。その信心は観念にとどまっていて、なにより「安心」がない。もし、念仏せずに、観念の悟りに満足してしまえば、智慧は働きを失って、その信仰はやがて哲学化する。「菩薩の死」です。信の一念に智慧を得たら、智慧を掘り下げるように、信の一念を思い出しながら、信の一念に立ち返り立ち返り念仏することが大切です。そうすれば「七地沈空の難」を越え、やがて念仏三昧が完成して菩薩八地の教化地に入る。すなわち「安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつる」というのです。

*以前の記事を一部加筆して再掲載しました。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-23 05:15 | 教行信証のこころ | Comments(4)

常に念仏三昧を修すれば

 『涅槃経』に依るに、「仏の言わく、もし人ただよく心を至して、常に念仏三昧を修すれば、十方諸仏恒にこの人を見そなわすこと、現に前に在すがごとし。」このゆえに『涅槃経』に云わく、「仏、迦葉菩薩に告げたまわく、もし善男子・善女人ありて、常によく心を至し専ら念仏する者は、もしは山林にもあれ、もしは聚落にもあれ、もしは昼・もしは夜、もしは座・もしは臥、諸仏世尊、常にこの人を見そなわすこと、目の前に現ぜるがごとし、恒にこの人のためにして受施を作さん」と。

(教行信証・信巻「安楽集」引用部分)

 信の一念に行としての念仏が確立するが、信心はまだまだしっかりしていない。「煩悩を離れる」感触がわかっただけで、まだまだ智慧もはっきりせず、信心もまだまだ揺れ動く。ただ方向は見えたから、そちらに歩みだす。法位に入って正しい修行が始まった。それが信の一念の意味で、信の一念がなければ仏道が成り立たない。親鸞は『冠頭讃』に「憶念の心つねにして」と仏心を讃えておられるが、大切なことは、仏がわたしを憶念するから、わたしが仏を憶念するということです。信心はまだまだ揺れ動く。揺れ動くから求める。信の一念に見た無相(仏)を思い出し思い出し、自力無効を何度も何度も確認しながら仏道を歩まされていく。これが「現生不退」の内面の事実です。信の一念に確立した智慧の念仏が無に返り無に返りしながら深化していく「無碍の一道」です。やがて深化が極まって無に返る努力をしなくても仏を忘れなくなる。いつも仏のお心とつながっているようになる。「諸仏世尊、常にこの人を見そなわすこと、目の前に現ぜるがごとし」となる。これが「念仏三昧」です。それを親鸞は「憶念の心つねにして」と示された。念仏三昧は念仏の極まり、自利の成就、菩薩八地の教化地に入ったということです。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-17 05:11 | 教行信証のこころ | Comments(0)

何をもって歓喜するや

 問うて曰わく、初歓喜地の菩薩、この地の中にありて「多歓喜」と名づけて、もろもろの功徳を得ることをなすがゆえに、歓喜を地とす。法を歓喜すべし。何をもって歓喜するや。答えて曰わく、「常に諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり。このゆえに歓喜多し」と。かくのごとき等の歓喜の因縁のゆえに、菩薩、初地の中にありて心に歓喜多し。「諸仏を念ず」というは、然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし。三界第一にして、よく勝れたる者ましまさず。このゆえに歓喜多し。

(教行信証・行卷「十住毘婆沙論」引用部分)

 親鸞は『浄土和讃』の最初に、仏教にとり一番大切な「念仏三昧」を示している。すなわち「弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり」と。「憶念の心つねにして」が念仏三昧です。念仏行の極まり、念仏行の完成です。いつでも、どこでも、なにをしていても、たとえ眠っているときですら、つねに仏はわれらを憶念していてくださる。だから、われらはいつも仏のお心の中にある。仏のお心が浄土だから、われらは浄土の住人だといっていい。仏がわたしをつねに憶念しておられるから、わたしも仏をつねに憶念している。心と心が通じ合っているから仏を疑わない。このようであることを「常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし」という。行の一念に確立した行が完成する念仏行の極まりを「念仏三昧」という。念仏三昧に入るから菩薩八地の教化地という。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-10-16 05:22 | 教行信証のこころ | Comments(0)

不退の位に至る

 「必得往生」と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」と言えり、『釈』(易行品)には「必定」と云えり。「即」の言は、願力を聞くに由って、報土の真因決定する時剋の極促を光闡せるなり。「必」の言は、審なり、然なり、分極なり、金剛心成就の貌なり。

(教行信証・行巻「御自釈」部分)

 「審」はあきらかなり。仏になるに決まっているので、あきらかなり。「然」はしからしむ。願力の自然によって仏へと育てていただくので、しからしむなり。「分極」は分れの極まり。迷いと悟りのギリギリの境い目。すなわち、信の一念のことです。「報土の真因決定する時剋の極促」とは、信の一念に智慧が生じる。智慧が報土を開くので「真因」という。報土が明らかになればそちらに向かって歩み出す。迷いはない。それゆえ、信の一念に智慧が生じることを「不退の位に至る」 という。これが「金剛心成就の貌なり」、すなわち、十八願成就、信心を得るということです。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-10-13 05:17 | 教行信証のこころ | Comments(0)

 光明寺の和尚の云わく、もろもろの行者に白さく、凡夫生死、貪して厭わざるべからず。弥陀の浄土、軽めて欣わざるべからず。厭えばすなわち娑婆永く隔つ、欣えばすなわち浄土に常に居せり。隔つればすなわち六道の因亡じ、輪回の果自ずから滅す。因果すでに亡じてすなわち形と名と頓に絶うるをや。

(教行信証・信巻「般舟讃」引用部分)

 煩悩が見る迷いの世界を六道という。智慧が見る悟りの世界を涅槃という。「煩悩即菩提」というように、心は因縁により煩悩にもなれば菩提心にもなる。煩悩が因となって果としての生死が現れる。智慧が因となって果としての涅槃が開ける。迷うには迷うだけの因縁があり、悟るには悟るだけの因縁がある。すべては因縁です。よって、もし娑婆が見えたら、それは浄土に生まれた。智慧の光が生じると煩悩の闇が見える。浄土の方から娑婆が見える。見えるようにして救うのが仏の慈悲だから、煩悩が智慧に転ずれば、六道の因が滅する。因がないから輪廻の果も滅する。迷いに迷いの因果があり、悟りに悟りの因果がある。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-08 05:14 | 教行信証のこころ | Comments(0)