カテゴリ:歎異抄を読む( 55 )

  善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。

  そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどに
  しりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、
  如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、
  あしさをしりたるにてもあらめど、
  煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
  よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、
  まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。

  (歎異抄・後序)

 さて、二つ目の「大切の証文」です。「善悪」とは頭の中の妄念妄想のことです。考えるとは「善悪」を分別する。よって「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」とは、頭の中に湧いては消えるだけの妄念妄想を相手にしない。妄念妄想から離れて巻き込まれない。これを「智慧」といいます。唯円はこの言葉をもまた親鸞聖人の信心の証拠だとしたのです。

 最初の「大切の証文」は仏と心が繋がる。二つ目は「智慧」が生じる。これが真実信心をいただくことの内容だと唯円は教えてくれている。どこまでも考え尽くされた構成です。このような構成の意図は信心を明らかにすること以外にはありません。「師訓篇」十ヶ条に続けて「後序」を読み終わりました。これで「故聖人の御ものがたり」全十六回を終わります。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-04-04 06:05 | 歎異抄を読む | Comments(0)

  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

  (歎異抄・後序)

 さらに「後序」は続きます。唯円は取って置きの宝物のような「信心争論」の話を出してきたばかりなのに、これで終わらず、これでもかとばかりさらに「大切の証文」二点を出してきます。「大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせそうろうて、目やすにして、この書にそえまいらせてそうろうなり」と言うのですから、これが親鸞聖人の信心を証明する「目やす」であると確信しているのでしょう。だからこそ「大切の証文」として最後の最後に出してくるのです。実によく考えて構成されています。

 思うに、如来とは光であり、光は智慧であり、智慧とは「そくばくの業をもちける身にてありける」という自覚です。煩悩は煩悩を見ない。見えないはずの煩悩が見えた。それを親鸞聖人は「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と感激しているのです。仏と心が通じ合い、仏と一対一の関係ができたことを「ひとえに親鸞一人がためなりけり」と述べています。深い孤独に耐えて一人っきりになったときに仏の声は聞こえてくる。「一人」と向き合う勇気があるかどうか、それが信仰で問われてくる。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-04-03 06:01 | 歎異抄を読む | Comments(0)

  源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。
  善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。
  されば、ただひとつなり。
  別の信心にておわしまさんひとは、
  源空がまいらんずる浄土へは、よもまいらせたまいそうらわじ。

  (歎異抄・後序)

 「師訓篇」十ヶ条が終わり、いよいよ、唯円は親鸞聖人のお言葉を根拠に当時流布していた代表的な八つの異義の批判を始めます。批判はかなり厳しい。第十一条から第十八条がそれで「歎異篇」と呼ばれることもあります。そして、最後に編集後記ともいうべき「後序」で『歎異抄』は締めくくられます。この「後序」にはとりわけ大切な言葉が記録されていますので続けて読んでみたい。

 『歎異抄』を締めくくる最後の「後序」ですが、唯円は最後の最初に満を持したかのように「故聖人の御ものがたりに、法然聖人の御とき」と、後に「信心争論」と呼ばれる極めて重要なエピソードをもってきます。上に引用したのは法然聖人の言葉ですが、この言葉によって親鸞は法然の正しい後継者として認められたと唯円は主張したいのでしょう。こういう正統性にかかわる話は誰にでもするものではないので、唯円がいかに親鸞聖人から信頼されていたかがわかります。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-04-02 05:58 | 歎異抄を読む | Comments(0)

  「念仏には無義をもって義とす。
  不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

  (歎異抄・第十条)

 さて、「故聖人の御ものがたり」は今回が十三回目です。第一条の眼目は「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」。浄土の門が開いて念仏の行者が浄土に向けて歩みだす。第七条の眼目は「無碍の一道」。智慧の念仏に育てられながら仏への道を歩み続ける。仏道の途中です。第十条の眼目は「はからいなし」。仏道の到達点です。すでに述べてきた通りです。

 このように歎異抄の前半、十ヶ条を概観してみましたが、このような読み方が学問的にどうなのかは知りません。このように読むと、信心をいただいてから、信心に育てられ、生涯を念仏で暮らしてきたわたし自身の聞法の歴史に重なるので、このような読み方をしました。最後にもう一度『自然法爾章』を引用します。

 「法爾というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。法爾はこのおんちかいなりけるゆえに、すべて行者のはからいのなきをもって、この法のとくのゆえにしからしむというなり。すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり」(末燈鈔・第五通)


 誰もが知っていることですが、重力は目に見えないがはっきりとした法則がある。人類が重力を知らない時も重力は万物に平等に働いていた。「この法のとくのゆえにしからしむというなり」。同じように仏力にもはっきりとした法爾自然の働きがある。いま現にお育ていただいている身には疑いようがない。「他力には義なきを義とすとしるべし」。知ればこそお任せ、はからいなし。本願に疑いなし。以上で「師訓篇」十ヶ条を読み終わりました。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-04-01 06:08 | 歎異抄を読む | Comments(0)

  念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、
  またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、
  いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、
  「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」。

  (歎異抄・第九条)

 第九条について、曽我量深師のご教授にまさるものはない。「これをみると、念仏についての倦怠期、念仏はあいもかわらぬものだという倦怠期にはいった。はじめのうちは非常にありがたい。第二条のように「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」というご化導を聞くと、なにかしらぬが全身ことごとく光につつまれた。

 内にも光、外にも光、光の中に光がある。それがなれるといつのまにやら「念仏もうしそうらえども」と「ども」となる。お義理、惰性で念仏申す。念仏に張り合いがない、勇みがない、勇猛心がなくなってくる。これがつまり菩薩のうえでいえば、七地沈空の難である。これは菩薩のある倦怠期である」。少し長いが引用した。(曽我量深著『歎異抄聴記』259ページ)

 念仏には「踊躍歓喜」という体験があります。この体験により智慧を得るのです。我執の繋縛から解き放たれるので踊躍歓喜する。しかし、この体験も喜びだけで終わってしまえば願力自然が働き出ない。身に働く願力がわからないと踊躍歓喜の感動もやがてただの記憶になって我執を強くするだけに終わる。


 踊躍歓喜の体験は一度しかないから、ここでもう一度、信の一念を体験的に思い出して、智慧がしっかりと働き出すのを確認しなくてはならない。唯円はこのことに直面したのです。しかし、願力自然が働き出しさえすれば七地沈空の難を越えて、二度と退転することはない。これもまた信心が深まって行くお育てのプロセスです。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-31 06:05 | 歎異抄を読む | Comments(0)

  念仏は行者のために、非行非善なり。
  わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。
  わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。
  ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、
  行者のためには非行非善なりと云々

  (歎異抄・第八条)

 「無碍の一道」は転悪成善の働きに導かれるので悪(煩悩)と善(悟り)の間を往ったり来たりする。煩悩から離れれば悟り、煩悩に巻き込まれたら迷いです。巻き込まれては離れ、離れてはまた巻き込まれる。これを生涯にわたり無数に繰り返して、少しずつ「自力」を離れ「他力」に近づいていく。そうして「わがはからい」が起こらなくなったところを指して「はからいなし」「他力」というのです。それが到達点としての第十条、「義なしを義とす」であり、親鸞聖人の最晩年の境地「自然法爾」です。このことはすでに述べました。

 なお、親鸞聖人に以下のようなご消息があります。「『宝号経』にのたまわく、弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり。名号はこれ、善なり、行なり。行というは、善をするについていうことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず、行にあらざるなり。かるがゆえに、他力ともうすなり」(末燈鈔・第二十二通)。親鸞聖人が唯円にこのような話をされたことが何度もあったのでしょう。『歎異抄』は親鸞聖人の言葉を伝えるだけでなく、教行信証の四法に対応して、見事に編集されています。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-30 06:01 | 歎異抄を読む | Comments(0)

  念仏者は、無碍の一道なり。
  そのいわれいかんとならば、信心の行者には、
  天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。
  罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、
  無碍の一道なりと云々

  (歎異抄・第七条)

 さて、「故聖人の御ものがたり」の十回目です。前回までに、第一条から第六条までを教行信証の四法に対応する形で位置づけしました。次は第七条、八条、第九条の三ヶ条です。この三ヶ条は第一条の第三段「悪をもおそるべからず」の展開で、信後の念仏生活の実際です。最初に、第一条が仏道の入口、第七条が仏道の途中、第十条が仏道の到達点と概観しましたが、第七条、八条、第九条は仏道の途中になります。

 信の一念に生ずる智慧の働き、すなわち転悪成善の働きに導かれる「無碍の一道」を一言で言えば「悪をもおそるべからず」です。悪とは煩悩のことです。われらは煩悩に一体化し、一体化していることに気づかないほどに支配されている。煩悩と一体化していることに初めて気づくのが「信の一念」です。煩悩に縛られているから煩悩を畏れる。無量劫より煩悩に縛られてきているので煩悩に従う習慣がなかなか取れない。煩悩はそのままに煩悩から完全に離れる歩みが「無碍の一道」です。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-29 05:58 | 歎異抄を読む | Comments(0)

  親鸞は弟子一人ももたずそうろう。
  そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、
  弟子にてもそうらわめ。
  ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、
  わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。

  (歎異抄・第六条)

 われらはいま現に仏のお育てをいただいて仏への道を歩ませていただいている者であり、仏ではない。そもそも「一切衆生悉有仏性」ですから、われらは煩悩の身に深く埋められた仏性の目覚めによって救われるのです。この仏性を目覚めさせていただくのに力があるのが「釈迦弥陀の善巧方便」であり、たとえ「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」であっても、最後は善知識の存在です。


 信心をいただくのになぜ善知識の存在が必要かというと、仏心は人から人へと伝わるものだからです。「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひと」(弟子)だから「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひと」(師匠)がわかる。仏心と仏心とが相照らすので、最後は善知識の仏心を見て救われる。それゆえ「自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなり」と。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-28 05:57 | 歎異抄を読む | Comments(0)

  親鸞は父母の孝養のためとて、
  一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
  そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
  いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。

  (歎異抄・第五条)

 命は一つです。一つが無数に別れても一つの命であることに変わりはない。無量無辺、無数の因と無量無辺、無数の縁とが結ばれて、無量無辺、無数の命の形を現しているけれど、みな一つの命を生きている。たまたま父母兄弟として出会っても、それは現世だけの縁で、縁が解かれてしまえば、また新しい因縁で別の姿に形を変えていく。だから「一切の有情」(縁)はあっても救うべき「父母」(人)はない。


 法然以前の旧仏教は鎮護国家、死者儀礼としての宗教であったが、法然以後は「個の救済」としての新仏教にはっきりと生まれ変わった。「某親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」(改邪鈔)という言葉も死者儀礼を否定する親鸞の態度をはっきりと示している。「不退というは、仏にかならずなるべきみとさだまるくらいなり」(尊号真像銘文)。「必ず」と言えた親鸞聖人にとり成仏はすでに問題ではなくなっている。


 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-27 05:54 | 歎異抄を読む | Comments(0)

  浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、
  大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
  今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、
  存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
  しかれば、念仏もうすのみぞ、
  すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

  (歎異抄・第四条)

 さて、「故聖人の御ものがたり」の七回目です。前回までに、第一条、第二条、第三条は教行信証の四法の「教行信」に相当することを述べました。第四条、第五条、第六条は「証」(慈悲)に相当します。第四条は「還相回向」について述べ、第五条は最も身近な人への救済感情として「父母の孝養」について、第六条は法を伝えるべき「弟子」について述べています。それぞれの条々が実によく考えて配分配列されています。


 では、利他行はいつか。第四条に「いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり」とあり、第五条には「この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」とあることから、親鸞聖人は「利他行」は仏になってから後のことだとはっきりしています。われらは仏に救っていただくだけの凡夫であり、救う仏ではない。第四条はこれだけをはっきりさせている。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-03-26 06:09 | 歎異抄を読む | Comments(0)