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2019年 04月 22日 ( 1 )

ながく生死をへだてける

 『和讃』にいわく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまわざれば、六道に輪回すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。

(歎異抄・第十五章 -45)

 「生死」とは自分の心のこと。「生死をへだてける」とは自分の心を離れる。不生不滅の仏心に触れて自分の心を離れることを「信心のさだまるとき」という。自分の心は煩悩でできているから煩悩を滅するには死ぬしかない。だから「生死を離れる」という。離れるのだから自分の心はそのままです。しかし、仏のお心の中にあるから自分の心の影響を受けない。自分の心は外です。それを「弥陀の心光摂護して」と言ったのです。煩悩はそのままなので「かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや」と唯円は注意している。「信心さだまる」は仏道の出発点、「さとる」は仏道の到達点。二つを混同しては仏道が成り立たない。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-04-22 05:50 | 歎異抄を読む | Comments(0)