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2019年 04月 21日 ( 1 )

 たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといいおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みずから他力の信心かくるのみならず、あやまって、他をまよわさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあわれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

(歎異抄・第十二章 -44)

 親鸞のつねの仰せに「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(後序)とあります。唯円が「聖人のつねのおおせ」と伝える親鸞の言葉はこれだけで『歎異抄』の中でもひときわ輝いている。仏のお心と直につながるのが信心だとの仰せです。思うに、親鸞は叡山二十年の学問と修業でもって信心を得たのではない。叡山を下り、学問の道を捨てて信心を得た。知識につながっても救いはないことを身をもって証明した。だから「南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり」(第二章)。自分がかつていた場所に救いはないぞと、道に迷う弟子たちにはっきり言った。すなわち「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。それなのに「いまの世には学文して、ひとのそしりをやめ、ひとえに論義問答むねとせんとかまえられそうろうにや」と唯円は歎く。親鸞の時代、唯円の時代、それが現代であれ、どの時代の学者も知識があって信心がない。知識で救われるのではない。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2019-04-21 05:30 | 歎異抄を読む | Comments(2)