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2019年 04月 04日 ( 1 )

 弥陀の光明にてらされまいらするゆえに、一念発起するとき、金剛の信心をたまわりぬれば、すでに定聚のくらいにおさめしめたまいて、命終すれば、もろもろの煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまうなり。

(歎異抄・第十四章 -27)

 曽我量深師は「無生忍」について以下のように述べている。「信心の智慧は、無生法忍をさとるのが信心の智慧である。生死は肉体にある。我々の心は無生無滅のものである。心が物の奴隷になっていると、心も身体と同じ様に生も死もあるが、心が独立して身体を支配することが出来るなら無生無滅である、それを無生法忍という」(津曲淳三著「親鸞の大地―曽我量深随聞日録」95ページ) と。唯円は「命終すれば」と述べ、量深師は「無生法忍をさとるのが信心の智慧である」と述べてはいるが心は同じです。「生死は肉体にある」という言葉にわたしは深い示唆をいただいた。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2019-04-04 05:45 | 歎異抄を読む | Comments(0)