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2018年 11月 24日 ( 1 )

歎異抄・第十五章(1)

 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。

(歎異抄・第十五章)

 第十五章は「学問化」の実際例です。「すでにさとりをひらく」とはいかにも理屈好きが言い出しそうなことです。理屈好きは法(外)を見て機(内)を見ない。さて、自力は煩悩を断ずる。他力は煩悩を離れる。こういう違いがある。煩悩は身体を維持する本能だから煩悩がなくなる(仏になる)なんてことはない。だから、他力は「不簡善悪の法なり」といって、身の善悪、心の善悪を「不簡」(えらばず)問題にしない。これから捨てようという無常敗壊の身体と、身体を維持する機能について、よし悪しを言っても仕方がない。だから、他力の道は信の一念に心身を離れる。離れると心身が見える。見えることが如来回向の智慧です。相手にしないから否定はしない。そのまま丸ごと離れる。相手にしなければ煩悩も静かになる。影響を受けなければ煩悩はないのに等しいから、それで信心の人は仏に等しいと尊ばれる。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-11-24 05:14 | 歎異抄を読む | Comments(0)