2018年 10月 30日 ( 1 )

未証浄心の菩薩

 「未証浄心の菩薩」とは、初地已上七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよく身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作す。かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず。作心をもってのゆえに、名づけて「未証浄心」とす。この菩薩、安楽浄土に生まれて、すなわち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見るとき、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し、と。龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生まれんと願ずるは、当にこのためなるべしならくのみと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 八地以上の大菩薩と、初地以上七地以前のもろもろの菩薩の違いを「作心をもってのゆえに」と端的に示している。信の一念に智慧をいただく。いただいた智慧あるゆえに仏になるということがどういうことかが分かる。それあるがゆえに、信の一念に初地不退の仏道に入るというのです。わずかな智慧の感触を確かめながら念仏するのが信後の念仏相続の始りです。「かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず」。初地以上七地以前の菩薩はまだ念仏三昧に入りきっていない。努力して仏のお心を思い出すからです。信の一念にいただいた智慧が念仏のお力によって深まり、智慧の働きが自在に働くようになるにつれ、努力しなくても念仏が称えられるようになる。ついには念仏に努力がなくなって、いつ、どこで、なにをしていても、仏のお心が離れなくなる。それを「念仏三昧に入る」とも「安楽浄土に生まれる」ともいいます。七地沈空の難という信仰の危機を乗り越えて、やがて菩薩八地の教化地に入る。それゆえに「龍樹菩薩・婆薮般豆菩薩の輩、彼に生まれんと願ずる」と。

 南無阿弥陀仏 
by zenkyu3 | 2018-10-30 05:23 | 教行信証のこころ | Comments(0)