2018年 10月 29日 ( 1 )

 「荘厳主功徳成就」は、「偈」に「正覚阿弥陀 法王善住持」のゆえにと言えり。これいかんが不思議なるや。正覚の阿弥陀、不可思議にまします。かの安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや。「住」は不異不滅に名づく、「持」は不散不失に名づく。不朽薬をもって種子に塗りて、水に在くに蘭れず、火に在くに燋がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし。何をもってのゆえに。不朽薬の力なるがゆえなり。もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意「三界に生まれて衆生を教化せん」と願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑生の火の中に生まるといえども、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず。何をもってのゆえに。正覚阿弥陀の善く住持を径るをもってのゆえにと。

(教行信証・証巻「論註」引用部分)

 「もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば」とは、念仏の行者が念仏三昧に入ったことを示しています。念仏三昧に入れば自利成就して「三界に生まれて衆生を教化せん」と願うので、これを菩薩八地の教化地というのです。また、「浄土の命を捨てて願に随いて生を得て」とは利他のための自利成就であることを示し、「三界雑生の火の中に生まるといえども」とは、教化の中にあっても念仏三昧が失われることがないことを教えています。これを喩えて、すなわち「不朽薬をもって種子に塗りて、水に在くに蘭れず、火に在くに燋がれず、因縁を得てすなわち生ずるがごとし」と。このことから「ひとたび安楽浄土に生ずれば」とは、すなわち念仏三昧に入ったことを表し、念仏三昧に入るから菩薩八地の教化地といい、八地以上の大菩薩を還相の菩薩というのだということです。われらは菩薩の修行などしたことはないが、不思議の本願のお力により、このような功徳をいただく身にしていただけるのです。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-29 05:12 | 教行信証のこころ | Comments(0)