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2018年 10月 28日 ( 1 )

歎異抄・第十章(4)

 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

(歎異抄・第十章)

 『御消息』に云わく、「無上仏ともうすはかたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめて弥陀仏とぞききならいて候う。みだ仏は、自然のようをしらせんりょうなり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなり」と。(『末燈鈔』第五通より一部抜粋)

 『自然法爾章』は、正嘉二(1258)年十二月十四日、親鸞八十六歳のおり、関東から上京した弟子の顕智が、善法坊僧都御坊、三条富小路の坊にて、いくつかの疑問点についてお尋ねし、それについてのお答えを、顕智が聞き書きしたものです。目に見えない智慧の働き「不可称不可説不可思議」が自在に働きだせば、すべてをお任せしてなんの疑いもない。「この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり」。すべての議論が終わった。問いはない。疑いもない。行き着くべきところに行き着いた親鸞の最晩年の心境を伝えています。この『御消息』を唯円も読んでいたことでしょう。これで前半の「御物語十か条」を終わります。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-28 05:25 | 歎異抄を読む | Comments(0)