2018年 10月 27日 ( 1 )

歎異抄・第十章(3)

 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。

(歎異抄・第十章)

 『御消息』に云わく、「他力と申すことは、弥陀如来の御ちかいの中に、選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを、他力と申すなり。如来の御ちかいなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人のおおせごとにてありき。義ということは、はからうことばなり。行者のはからいは自力なれば、義というなり。他力は、本願を信楽して往生必定なるゆえに、さらに義なしとなり」と。(『親鸞聖人血脈文集』第一通より一部抜粋)

 「はからいなし」とはどういうことかといえば、信の一念にいただいた智慧が長い念仏生活の末、自在に働きを現し出すようになると、仏のお心を思い出すのに努力がいらなくなる。いつ、どこにいても、なにをしていても仏のお心が離れないからです。つまり、親鸞が「憶念の心つねにして」(冠頭讃)と讃えた念仏三昧に入る。これを「はからいなし」といいます。また、「不可称不可説不可思議」とは、測ることができない、説くことができない、思うことすらできないということで、「形がない」「目に見えない」ことを表し、智慧の働き、仏力、仏心のことをいいます。よって、第十章を意訳すると「念仏に努力はいりません。仏が称えさせてくださるからです」となりますが、さらに踏み込んで「わたしがないのが念仏です。仏が称える念仏だから」と読めば第十章の趣旨がよりはっきりする。第十章の眼目は「念仏三昧」だからです。念仏三昧は念仏の極まり、自利の成就であり、菩薩八地の教化地に入ることです。この書の作者は「無義をもって義とす」を第十章にもってくることで仏道の到達点を示したのです。

 南無阿弥陀仏  

by zenkyu3 | 2018-10-27 05:08 | 歎異抄を読む | Comments(0)