2018年 10月 20日 ( 1 )

歎異抄・第九章(3)

 (3)「また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。」

(歎異抄・第九章)

 第三節は唯円の質問の二「いそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬ」に対する回答です。親鸞はどのように答えたか。なにも特別な教えはない。「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ」と、つまり信の一念に帰れと教えたのです。唯円にはすでに「踊躍歓喜」の経験という原点があったからです。親鸞は唯円の「踊躍歓喜」(信楽体験)を認めた。だから「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と同調した。これは後序の「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり」で、親鸞が法然から同一信心を認められたのと同じです。唯円は自らの書に自分の名を記さなかった人ですが、親鸞に信心を認めていただいた喜びを第九章に残した。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-10-20 05:57 | 歎異抄を読む | Comments(0)