2018年 10月 15日 ( 1 )

歎異抄・第八章(2)

 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々

(歎異抄・第八章)

 この書の作者、唯円は序に「故親鸞聖人の御物語の趣き、耳の底にとどまるところ、いささか之をしるす」と書いた。いわば『歎異抄』一冊が親鸞の唯円に対するご化導の記録であると言ってよい。ちなみに、第九章で唯円は親鸞にこう訴え出たのだった。「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と。こんなことはなかなか聞けるものではない。当時、唯円は仏のお心をすでに経験している。経験はしているが信心はまだ堅固ではなく、智慧は得たもののまだまだはっきりしない。踊躍歓喜の体験の興奮もさめて、信の一念は終わりではなく始めだとようやく気づいた。智慧をいただけば、今までは見えなかった心の深層が見えてくる。ますます救われないとわかるから、こんな心で仏になれるのかと不安が頭をもたげる。こんなことで不安になるとは、いったい踊躍歓喜の体験はなんだったのかと信心も揺らぐ。救われたことに「疑い」はないものの「不審」が湧いてくるのは自力は死んでいないからです。むしろ、信心を得たことを自分の手柄にする自力に転落するかもしれない信仰の危機です。そんな弟子を見て親鸞は「親鸞もこの不審ありつるに」と信心の人がみな通ってきた道だと唯円に教える。その時のご化導が第八章の「念仏は行者のために非行非善なり」だったのでしょう。信の一念に何度も何度も立ち返り、いつでも、どこでも、なにをしていても、一度は出遇った仏のお心をよくよく思い出して、はからいなく念仏せよと、こう親鸞は教えたのです。

 南無阿弥陀仏 

by zenkyu3 | 2018-10-15 05:23 | 歎異抄を読む | Comments(0)