2018年 10月 12日 ( 1 )

歎異抄・第七章(3)

 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々

(歎異抄・第七章)

 無碍とは障りがない。障りがないとは影響されない。煩悩、悪業、悪魔、外道に惑わされない。このような心の生活、念仏の行者の内面を「無碍」という。これが第七章のこころです。思えば、親鸞は『浄土和讃』の最初に、仏教にとり一番大切な「念仏三昧」を示した。「弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり」。「憶念の心つねにして」が念仏三昧です。いつでも、どこでも、なにをしていても、たとえ眠っているときですら、つねに仏はわれらを憶念していてくださる。だから、いつも仏のお心の中にわれらはある。仏のお心が浄土だから、われらは浄土の住人だといっていい。だから「魔界外道も障碍することなし」「罪悪も業報も感ずることあたわず」という。仏がわたしをつねに憶念しておられるから、わたしは仏を憶念できる。念仏の極まりを「念仏三昧」という。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-12 05:34 | 歎異抄を読む | Comments(0)