2018年 10月 11日 ( 1 )

歎異抄・第七章(2)

 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々

(歎異抄・第七章)

 『安楽集』に云わく。またかの『経』に云わく、「たとえば人ありて、翳身薬をもって処処に遊行するに、一切の余行この人を見ざるがごとし。もしよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪神・一切の諸障この人を見ず、もろもろの処処に随いてよく遮障することなきなり。何がゆえぞとならば、よくこの念仏三昧を念ずるは、すなわちこれ一切三昧の中の王なるがゆえなり」と。

 ちなみに『経』とあるは『華厳経』のことです。「翳身薬」とは姿が消える薬のことで「念仏三昧」に喩えている。煩悩、悪障、悪鬼、悪神は念仏の行者の姿が見えないので近寄って来ないというのです。どういうことか。煩悩は相手にしないで放っておくと、自分ではなにも出来ないから、やがて消えてなくなる。起こるのは仕方ない。ただ消えるままにしておく。これを「無碍」という。第七章は「魔界外道も障碍することなし」「罪悪も業報も感ずることあたわず」と、念仏三昧の具体的な効用を明らかにした。これが現生不退の内面の事実「悪をもおそるべからざる」であり、行としての念仏三昧です。また、念仏を称えてみな仏になるので「一道」という。


 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-11 05:23 | 歎異抄を読む | Comments(0)