2018年 10月 09日 ( 1 )

歎異抄・第六章

 専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

(歎異抄・第六章)

 「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひと」はまだ信心がわからない。信心がわからないから信心の人がわからない。仏道における師弟は仏々相念であるから、互いの仏心が照らしあって初めて師弟となる。仏道は仏心を伝えてきた伝統だからです。仏心は人から人に伝わる。よって、信心の人を探し歩くのが聴聞なのだから「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのある」のは当然のことです。また、僧といっても信心がなければ人に伝えるものがない。「わが弟子ひとの弟子」などと争う人たちは、なにを伝えて師というのか、なにをいただいて弟子というのか。親鸞にすれば仏心は如来回向であるから「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」であるけれど、弟子からすれば親鸞は仏心を伝えていただいた還相の菩薩です。親鸞に仏を見たから信心をいただくことができた。「自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなり」。親鸞が法然に対してそうだったように、弟子となった者は師の恩に感動して生涯を生きていくのです。

 南無阿弥陀仏


by zenkyu3 | 2018-10-09 05:27 | 歎異抄を読む | Comments(0)