2018年 10月 05日 ( 1 )

歎異抄・第五章(1)

 親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々

(歎異抄・第五章)

 『浄土論註』に云わく、「問うて曰わく、大乗経論の中に処処に「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」と説きたまえり。いかんぞ天親菩薩、願生と言うや。答えて曰わく、「衆生無生にして虚空のごとし」と説くに、二種あり。一つには、凡夫の実の衆生と謂うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて有らゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがごときにはあらざるなり」と。

 長いが引用した。第五章の質問者は「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」ということがわからない。「凡夫の実の衆生と謂うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし」です。すなわち、人というものがいて、実の如く生まれ、実の如く死ぬと考える。これを生死に迷うという。すべては因縁生であるから、生まれたように見えて生まれたものはなく、死んだように見えて死んだものはない。このように不生不滅を悟ることを無生法忍といい、無生法認は信の一念に生ずるところの智慧です。すなわち、生死流転の主体である〈わたし〉がないと知るから、わたしに縛られていた心が自由になる。元々、わたしがない。わたしがないことを無我(仏)というのだから、本来仏です。こう知れば身を捨てた時が成仏です。これを「智慧を因として仏果が開ける」といいます。

 南無阿弥陀仏
by zenkyu3 | 2018-10-05 05:28 | 歎異抄を読む | Comments(0)