2018年 10月 03日 ( 1 )

歎異抄・第四章(1)

 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

(歎異抄・第四章)

 教行信証の四法からすれば、第一章は「教」に相当し、第二章は「行」、第三章は「信」、そして第四章、第五章、第六章は「証」に相当する。第四章は「利他行」一般について述べ、第五章は利他行でも、とくに身近な父母への救済感情について述べている。そして、第六章はまさに法を伝えるべき弟子について述べるところです。自利の成就なくして利他はなく、利他の成就なくして自利もない。仏教の教相に照らして、それぞれの章の配置と、親鸞の法語の編集が実によく考えられている。

 さて、第四章まで読み進みました。この書は親鸞の法語を集めた「御物語十か条」と、当時、親鸞の流れを汲む一門の中にあった間違った信心をただす「異義八か条」とで構成されています。この書の魅力はやはり親鸞の言葉の輝きで、一度聞けば二度と忘れない印象的な言葉が多々あります。たとえば、第一章の「悪をもおそるべからず」、第二章の「とても地獄は一定すみかぞかし」、第三章の「悪人成仏」、この章の「すえとおりたる大慈悲心」などもそうでしょう。さらに、第五章には「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」とあり、第六章の「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」なんて言葉は誰にも言えない。とくに後序の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」は親鸞の信心そのままの表白です。親鸞の肉声が聞けるのはこの書だけで、人間親鸞の輪郭が伝わってきます。この書の作者に深く感謝して読み進めたい。

 南無阿弥陀仏

by zenkyu3 | 2018-10-03 05:30 | 歎異抄を読む | Comments(0)